今話28

   

 5月いっぱいで、流川も花道も今のチームと契約が切れる。オフシーズンに入るけれど、今回花道は何の心配もいらなかった。全米リーグに所属するチームから、2人とも声をかけられたからだ。
「うーん……できれば優勝したかったけど…」
 州内リーグの最下位チームが、準優勝だった。決勝戦で負けたときの悔しさは、ひとしおだった。けれど、そのおかげか、自分たちもチームメイトもあちこちから声がかかった。
『みんないなくなっちゃってさー 僕困るよね』
『……監督…』
 ほんの少し、胸がチリリと痛んだ。このチームに誘われたおかげで、自分たちはここまで来ることが出来たと思うから。
『なーんてね! 実は僕、お国のナショナルチームの監督に喚ばれたんだ!』
『……じゃあ…帰るんですか?』
『…そう……オリンピックで会えるかな』
 最後まで明るい監督に、2人とも小さく笑った。
 きっと今のチームは、ほとんど総入れ替えで集められ、また戦っていくのだろうと思う。
 自分たちは、もっと上を目指さなければならないのだ。
 全米でたくさん州があるのに、結局のこの州になったのは、ここでしか活躍していなかったせいだろうか。
「オメーは…ヨソからも声かけられてたろ?」
「……テメーはどーなんだ…」
「…しょーがねぇだろ……オレらは天才コンビなんだから…」
 いつの間にコンビを組んだのだろうか。流川はプッと吹きだした。
 夏の間も練習がある。秋から始まるリーグに向けて、今年は忙しくなるだろうと期待で胸がいっぱいになった。

 実際、2人の予想外のことがいっぱいで、毎日本当に慌ただしくなってしまった。
「…引っ越し?」
「……引っ越せって…」
 このアパートからも体育館へは通える。そのつもりでいたけれど。
「……グルーピー対策とか…とにかく、警備員のいるアパートに越せと」
 すでに、ある程度条件を出したら、適当な物件の連絡が来たのだ。これまでは、何もかも自分でしていたけれど、地位が上がるとそうすることも出来なくなるらしい。
「…それって……なんだ?」
「……まあ…熱狂的ファン…かな…」
「……ふーん?」
 自分たちは、これまでアメリカでファンレターすらもらったことがない。ファンと言われても、あまりピンと来なかった。
「日本で、オメーが女の子に取り囲まれてたみてーなのかな…」
「……別に囲まれてねー」
 いつも、囲まれていたくせに、と花道は唇を尖らせた。
 とにかく、彼らは当たり前のようにルームシェアを希望して、これまでよりももう一つ部屋の多いアパートに引っ越した。造りが広く、とても明るい。そして、エレベーターがあった。ベランダから見る景色は、美しいアメリカの姿だった。
「…ルカワ……オレ、ちょっと落ち着かねー」
「………だな…」
 最初にいたアパートと雰囲気は似ているけれど、およそ3倍くらいの広さだった。おそらく、夜遅くに外を歩いていても心配もない地域だろう。外では犬の散歩をしている人を良く見かけた。
 急に、お給料が上がったのだ。桁を間違えてないだろうかと首を傾げるくらいに。
「…そういや…クルマ通勤が当たり前って…」
 電車で体育館に通うのはおかしいだろうか。流川も一度は面倒だと思ったけれど。
「…車の方が……プロっぽい…」
「…そうか? まあ…ルカワがそう言うなら…」
 それほど興味もないけれど、それもファン対策だというのなら仕方がないだろう。
 花道は、引っ越しのとき、またたくさんの写真を撮った。引っ越しそばが食べられないからと、引っ越す前に中華街に出かけた。今ではすっかり慣れていた街から離れるのが、少し寂しく感じた。アパートの家主からは、これで悪い噂が消えたから家賃を上げると笑顔で言われた。確かに、2人は何の問題もなく1年以上住んでいたのだ。
「…オレたちがドンカンなだけかもしんねーけどな…」
「……オレは、ドンカンじゃねぇ…」
「…おばけ、見たのか?」
 真面目な顔で問われて、流川は首を横に振った。心霊現象らしいものも、何も感じなかった。
「…まあ…アメリカのおばけは、オレらには関係ねーってコトだな」
 もっと大変な生活もあるだろうけれど、自分たちの中で最低ランクの生活だった。食べることは止められないので、他を切りつめて、節約しながら暮らしていた。
 今度こそ、援助は完全に切っても、お釣りがくるくらいの手取りになったのだ。
 それでも、自分たちの生活水準はあまり変わらないと思う。貧乏だったときを忘れないようにしなければいけないと自分に言い聞かせた。
「…何しろ……いつクビ切られるか…わかんねーからな…」
「……不吉なこと言うなよ…ルカワ…」
 けれど、流川の言う通りだと花道も思っている。
 あの生活に戻らないように、自分たちは努力し続けなければならないのだ。

 それから、慣れない取材というものががしばらく続いた。毎回似たような話になるけれど、それぞれ書き方が違っていた。好意的なのもあれば、単に興味本位な記事もある。けれど、カラー写真で雑誌に載って、気分が悪いわけはなかった。もちろん、日系のスポーツ誌も2人がアメリカで名を挙げていることに気付き、取材にやってきた。そのアメリカ在住のインタビューアーは、花道の大学のことを知らなかった。
「…取材対象の過去を調べてくるのが…ふつーだと思うけど」
 同じ日本人なのだから、それはアメリカ人より簡単だろうと流川は思う。
 けれど、雑誌社が知らないまま載せた2人の記事は、すぐに日本へ流れて大反響になったらしい。
 ある日から突然、2人の元に電話があちこちからかかり、雑誌社経由でたくさんのファンレターが届くようになったのだ。
「……どーなってンだ…」
 花道も流川ももちろん戸惑った。電話に対応するのが面倒なくらいに。
 新しい部屋の片づけも済んでいないし、落ち着かなくなった。
「…うーん……こういう状況なら…ガードマンがいるのかな…」
 さっきまで困った顔をしていたはずの花道は、もう威張り始めていた。この開き直りの早さは、流川は呆れつつも羨ましく思っていた。自分も電話や手紙はさほど気にしていないけれど。
 新しく購入したキングサイズベッドに寝転がって、花道はファンレターを読んでいた。高校時代も受け取ったことはあるけれど、今では気持ちがずいぶん違った。自分は、日本を裏切ってしまい、もう帰れないと思っていた国からの手紙だから。
「…桜木…?」
「……ルカワ…「私と結婚してください」って書いてあるぞ…」
 流川はその手紙を横から覗き込んだ。
「…マホちゃん? 8歳か…10年くらい待ってれば」
 花道はその表現が気に入ったのか、楽しそうな笑顔になった。
「ふっ…マホちゃんには申し訳ないが……オレはもう既婚者だから」
 ごく普通の表情のまま、花道は凄いことを言う。自分もそのつもりではあるけれど。
「ルカワ…オメーもちゃんと読めよ」
「……テメーより多いから…タイヘン…」
「…イヤミか…」
 花道がイーッという顔を自分に向ける。流川はニッと笑い返した。

 そのたくさんの電話は、日本からもあった。
 そのとき電話のそばにいたのは流川で、電話に躊躇いながら、3コールまで待って出た。
「…その声はルカワか?」
「……水戸?」
「久しぶりだな」
「…引っ越したって…聞いたか?」
「…ああ…もう落ち着いたか?」
「……そうでもねぇ…今度は広いから…また来れば」
「…ああ…サンキュ。オメーらも、有名人になったみてーだな…」
「……どーかな…」
 あまり嬉しそうでもないと洋平は笑った。流川は有名になりたいのではなく、強くなりたいのだろうと思った。
 それからすぐに花道が電話に出て、会話はしばらく続いた。ふんぞり返りながら話している花道を見て、流川はため息をついて部屋に戻った。まだ慣れないけれど、何度見ても白くて落ち着いた高級ホテルのようだった。
 しばらく部屋で片づけていると、また電話が鳴った。花道が切った途端に鳴り出したのだろうか。相変わらず、花道の日本語が聞こえていた。
「……ウソだろ…ゴリ?」
「…なんだ桜木…久しぶりなんだぞ。挨拶くらいちゃんとしろ」
「うわ…お前って未だキャプテンだよな…」
「……ミッチー?」
「桜木か? 元気そうだね」
「…その声は……メガネ君…」
「お前たち、今は俺が話してるんだ」
「……ゴリ…」
「この不精者」
「な……なんだよ…いきなり…」
「…アメリカ行くって言ったきり、ちっとも連絡寄こさないで…心配しただろうが」
「…あ、でも桜木…俺たちは水戸たちに多少は聞いてたよ。連絡できないのも理由があるかと思ったから」
「…木暮…お前は甘すぎる」
 花道は、電話口に耳を押しつけた。懐かしい先輩たちの声が夢ではないように、そして彼らの会話を聞き漏らさないように。
「…いつになったら、オレらに替わってもらえるンすか?」
「このままだと回ってこないかもね」
 奥の方から聞こえた声は、宮城たちだった。
「……リョーちん…」
「桜木花道?」
 突然高い声が聞こえて、花道は背筋が伸びた。
「は……はいっ…」
「あはは…元気そうね! 流川も元気?」
「は…アヤコさん…?」
「…なんで疑問系なのよ…アンタ…」
「桜木くん?」
「…は……ハルコさん…」
「元気にしてる? 雑誌、見たよ! すごいわ桜木くん」
「…は……は…」
 花道は、自分がいつから泣いていたのかもわからなかった。まともな返事も出来ず、ただただ懐かしくて、胸が熱くなった。
 流川はゆっくりと近づいていって、受話器を取り上げた。
「…もしもし…」
「る…流川くん? お、お元気ですか?」
「…ああ…マネージャー…」
「…さ、桜木くんは…? 話の途中で…」
「ああ……泣きすぎて返事ができねーそうです」
「な、なんだとルカワ! オレぁ泣いてなんかねー!」
 そんな怒鳴り合いが電話の向こうから聞こえて、日本側は全員がホッとした。彼らが昔と変わらず、仲良く喧嘩しているのだ。元気に違いないと思った。
 その電話を、いつどうやって切ったのか、花道にも流川にもはっきりしなかった。流川でさえ、少し舞い上がったらしい。懐かしい仲間を有り難いと思った。
「桜木…」
「…な、なんだよ…もう泣いてねーよ」
「……日本に…帰れるだろ?」
 花道は一度洟を啜ってから俯いた。
「…少なくとも湘北のみんなは…オメーに甘い…」
「あ、あまいって…甘やかされてねーぞ!」
「……まー……オレはビッグになるまで帰らねーっつうんなら、わかる」
「…ま、まあ…そういうコトだ……オレのセリフを取るな!」
 不器用な流川の慰め方が、花道の胸に染み込んだ。
 

 

 

2008.11.11 キリコ
  
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