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 恐る恐る部屋のドアをあけると、自分とほぼ同じ目線に相手の顔があった。お互いが顔を確認し合ったけれど、視線は合わなかった。花道が無言のまま体を引いて道を造ると、流川も何も言わないままスルリと部屋に入った。

 本当に来た、と花道は流川の背中を見ながら驚いていた。心臓がドキドキなって、どうやっても収まりそうになかった。
 今日の練習が終わったとき、流川とすれ違うように歩き、小さな声で時間と部屋番号を言った。それ以上の誘いが出来ず、伝わったかわからないことがもどかしかった。それなのに、流川は聞き取ってくれていた。それがとても嬉しかった。

 流川は鏡を背に立ち、テーブルにもたれ掛かった。ごく普通のツインルームだ。花道はベッドに腰掛けた。
 ほんの1メートルも離れていないところに、流川がいる。花道が目を上げると、流川の胸から腹部が見える。支給されているジャージだ。ごくいつも通りの彼なのだろうと思う。
 流川はなぜ来たのだろう。来ても、何も話さず、ただ近くにいる。お互いに決してくつろげる相手ではなかったはずなのに。
 花道は、上目遣いに流川を見た。その瞬間、流川もこちらを見た。けれど、すぐにお互いあちらを向いた。

 世間一般よりはがっしりしているけれど、自分に比べたらほっそりしている。その腰を見ながら、花道はまたいろいろなことを思い出した。数少ないせいか、それとも印象が強いのだろうか。思い出すことはあまりなかったのに、考えればこれほど強烈な思い出はない。高校生活の秘めた出来事だった。

 

 そもそも、何がきっかけだったのだろう。
 花道自身、わからないでいた。桜を見に行きたく思って、流川と行きたくて。本当にそうだったのだろうか。
 では2回目は、なぜなんだろうか。そちらの方がもっとわからなかった。

 3年前の5月1日。花道は授業で何をしたかは覚えていない。部活はいつも通りで、後輩達も落ち着いた頃だったし、県大会に向けて意気込み始めた時期だったと思う。その日、花道は後輩達が帰ったあとも居残り練習をしていた。当然のように流川もいた。本来なら、流川の3倍練習したいのに、ほとんど練習時間は変わらない。そのことに苛立って、とにかく流川が帰るまで自分も終わらない、と決めていた。
 5月に入ったとはいえ、夜はまだ爽やかだった。そんなことを覚えている。
 体育館の中でボールとバッシュの音が響くことで、相手がまだいることがわかった。花道が小休憩と思って座ったとき、流川の音だけが聞こえてきた。こちらが止まっても、流川はまるで気にする様子もなかった。そのことが少し寂しく感じた。
 流川のプレーをじっと見ていると、体がウズウズする。負けたくなくて、追いつきたくて、ボールを放したくなくなる。花道は水を呑んでから戻ろうと外へ出た。
 花道がついでに洗った顔をタオルで拭いたとき、ふと隣に人の気配を感じた。
 すぐそばに流川が立っていて、花道は驚いた。動揺したことに気付かれたくなくて、タオルを首にかけながら大声を出した。花道と同じように顔を洗った流川は、一度花道を睨み上げた。
 もう上がるのだろうか。素直に聞くことはできなかった。だから、ただ「ふん」とわざとらしく呟いて、流川を通り過ぎようと思った。
 その一瞬の間の出来事だった。
 自分よりも先になぜか流川が体育館に入って行った。何が起こったのか、わからなかった。
 あまりにも短すぎて、本当にそれ同士がぶつかったのか、それも定かではない。けれど、記憶にある感触だった気がするのだ。ものすごく至近距離で、流川の匂いがした。
 なぜかこのときは叫び声を上げることもできず、花道はしばらく座り込んでしまった。心臓がバクバク言って、頬が熱く感じた。
 遠くで流川が体育館を片づけている様子が見えた。何事もなかったかのような態度に苛々するのに、そのときは動けなかった。

 6月1日は、花道はリベンジしようと思っていた。1日に拘る理由は何もない。けれど、これまでなぜか1日だった。
 その日も部活の後だった。夜遅くまで練習して、ほぼ同じ時間に帰宅するところだった。その日は早くも梅雨らしい雨で、自転車通学の流川は自転車置き場でカッパを着込んでいた。準備が出来て、自転車のスタンドを外しても、外へ出るのを躊躇うような雨だった。
 少し離れたところで見ていた花道は、流川のため息を聞いた。お互い、早く帰りたいのに帰るのが面倒という気持ちなのだろうと思う。そのときは素直にそう思えた。
 傘を差しながら、花道は流川に近づいた。花道に気付いているのかいないのか、流川は空を見上げていた。もう一度ため息をついたあと、流川は漕ぎ出そうと決心した。その瞬間、目の前に黒い傘が広がった。素早くブレーキを踏んだ音がして、花道はまた一歩近づいた。驚きで体を仰け反らせる流川に、花道は傘ごと流川に近寄った。雨のせいなのか、ほんの少ししっとりした唇だった、と花道は冷静に観察した。

 7月1日は、部室でだった。
 最後まで居残って、二人とも部室で大急ぎで着替えていた。たくさん練習したあとは、さっさと帰って寝たいのである。その日は流川が先に部屋を出た。そのとき、部室の電気を消され、花道はもちろん悪態をついた。流川の遠ざかる足音を聞いて、花道は少し残念に感じた。今日は1日なのに。流川からの月番のはずなのに。そんなことを考えてすぐ、花道は大きく首を振った。自分は何を待っているのだろうか。約束したこともないし、そもそもなぜキスが来ると期待してしまっているのか。
 それでもなぜか俯きながらドアを開けた。何の疑いもなく廊下に出ようとしたら、何かにぶつかった。入り口の前に立つ流川を見て、花道はお化けに出会ったかのような表情をした。もっとも廊下の頼りない電気しかなかったので、お互いの顔はあまり見えなかったかもしれない。花道は流川の顔を見ていない。
 お互いの身長が同じくらいなので、お互いの唇の位置はさほど遠くなかった。ドアに手を置いたまま、流川が顔を前につき出した。ただそれだけだった。花道は呆然としたまま、流川の動きを見ていた。流川が首を傾けて、自分に近づいてきたことを覚えている。いつもより、ゆっくりした動きに感じたのは気のせいだったのか。離れていく動作を、花道はスローモーションのように見ていた。
 また心臓が跳ね上がり、花道はしばらく立ちすくんでいた。今度こそ遠ざかる流川の足音が消えるまで、花道は全く動くことができなかった。
 

 

2012.12.30 キリコ
  
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