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最終日の朝はもう練習はなく、それぞれが移動用のポロシャツと綿パンに着替え、集合する。朝食の席でも、花道と流川は目も合わせなかった。
7月下旬の暑い中、避暑地ともいえる場所での合宿だった。きっと飛行機で東京へ帰ると暑いんだろうなと皆が言う。午後には羽田空港で解散になる。
流川はいつアメリカへ帰るのだろうか。花道は終了の挨拶の間も、流川のことを考えていた。
どう話しかけたらいいのだろうか。二人きりに拘らず、ごく自然に皆と同じように話せたらいいのに、と花道はもどかしく思った。
飛行場でも飛行機の中も、羽田空港の中でも、花道は流川に近づくことはできなかった。
いつまで自分はこうして流川の背中ばかりを見ているのだろうか。
いろいろな人がそれぞれに挨拶をしながら立ち去る姿を横目に、花道はじっと流川を見つめていた。流川が最後に挨拶したらしい相手と別れると、突然花道の方に振り返った。視線に気付かれたのだろうか。それとも自分にも挨拶するのだろうか。花道は突然背筋が伸びた。
まっすぐ自分の方へ向かってくる姿から、花道は目を反らすことが出来なかった。
「桜木」
何年ぶりにそう呼ばれただろうか。高校時代は、むしろ「てめー」とか「どあほう」の方が多かった気がする。ちゃんと目を見て、流川が自分を呼んだ。
「おお…」
心拍が相手に聞こえないだろうか。花道はおかしなトーンの返事しか出来なかった。
「今日…と明日、時間あるか」
これはどういうことなのだろうか。お伺いを立てられているらしい。自分でもよく覚えていない頼りない返事をしたら、流川はクルリと背を向けた。
「…成田」
それだけ言ってスタスタと歩き始める。それは行き先なのだろうか。時間があると返事したらしい自分を、誘ってくれているのだろうか。
花道が動かないでいると、流川は振り返ってじっと見る。その視線は「早く来い」と言っている気がした。
状況がよく飲み込めないまま、花道は小走りに流川に追いついた。後ろを歩くのはおかしく感じて、肩を並べる。すれ違う人を避けようとすると、ときどきお互いの腕がぶつかった。
ごく近くに流川がいる。
そのことがどうしてこんなに嬉しいと感じるのだろうか。成田までのバスは混んでいて、狭い座席に二人で並んで座る。そんなこともあまり記憶になくて新鮮だった。流川は俯いて寝ているようだが、花道は目を見開きっぱなしだった。
道中、花道は成田空港というところがどういう場所か、ようやく思い至った。
流川は、おそらく明日アメリカに戻るのだろう。
最後の夜を、家族ではなく、自分といることにした、ということなのだろうか。
一人で突然赤面して、花道は手のひらで顔を扇いだ。
こうして、二人で歩いて移動して、二人きりで過ごすのは初めてだった。チェックインは流川がした。シングルからツインに変えてもらったり、記名したり。花道は黙って付いて歩いた。
部屋に入ったときにはもう夕方の4時だった。トレーニングもしていないし、ただ移動しただけなのに、妙に疲れたものだ。合宿が終わって安心したような、不安なような、そういう気持ちもある。そして今、今度こそ二人きりで部屋にいて、花道は全身で緊張した。今日は、時間の制限はない。
流川は花道には構わず、自分のペースで荷物整理を始めた。羽田までは持っていなかったスーツケースをフロントで受け取っていて、それが預かってもらっていたものなのか、届いたものなのか、それも聞けなかった。
「ちっ」
スーツケースを開けた流川が舌打ちして、花道はドキリとした。
「ど…どうした」
「…なんか余計なモン入れてやがる」
流川の隣からのぞき込むと、保存の利く日本食が入っていた。流川の家族が入れたのだろうか。それならば、実家からホテルへ送ってもらったのだろうか。
「に、日本食…貴重だろ?」
「……まあな」
流川と会話をした。それなりに会話のキャッチボールになっていたのではないだろうか。
花道はたったそれだけのことに感動した。それから流川がテレビを付けた。夕方の情報番組はあまり興味を示す内容ではなく、芸能人も知らないし、次には痛ましい事件の報道で、すぐに消した。
「日本のテレビはつまんねー」
流川の独り言のような呟きに、花道は驚いた。わざわざ思ったことを口にする男だったのだろうか。
「…アメリカは面白いのか?」
流川はベッドに倒れ込みながら、「うーん」と唸った。
「…あんまり見ないから知らねー」
このままアメリカでのことを聞いてもいいのだろうか。自分の勇気のなさに呆れてしまう。
思えば、流川はこんなにも譲歩してくれている、のではないだろうか。
自分を誘って、そして一生懸命会話しようとしてくれている気がするのだ。
花道の勘違いかもしれないけれど。寝転がる流川に、花道は近づいた。会話しようと決めたそばから、どうしても寄っていってしまう。
昨日流川がそうしたように、花道は流川の頬に手を当てた。流川はすぐ目を開けたけれど、逃げたりはしなかった。
初めてチュッと音がなるキスをして、花道は舞い上がった。流川の腕が花道の背中を引き寄せて、花道は流川のベッドに上がった。唇を合わせてじっとしてみたり、啄むような口づけをしたり、しばらくまったりと過ごした。首を伸ばして唇を突き出すと、待っていた場所に同じように寄せてくる。思わず笑ってしまいそうな、穏やかな時間だった。それだけで、花道は満たされた気持ちだった。
「…ちょっと眠い…」
流川がぼんやりとした視線で言う。ほとんど口の中に伝えられたけれど、花道は聞き取った。
すぐ横でくっついたまま、流川は早くも寝息を立て始めた。こうして自分のそばで安心して眠る姿は、今日何度目かわからないくらいの感動をまたもたらした。
天敵のはずだけれど、妙に安心するのはなぜだろう。
ほんの30分ほど寝ただけで、流川はすっきり目覚めたらしい。じっと見つめていた花道を少し睨んで、あくびをした。
「…走りに行くか」
流川の提案に、花道は複雑な気持ちになった。
プロとして体を動かしておかなければいけない気持ちと、流川とじっとしていたいという、相反した希望が同時に湧き起こったからだ。
けれど花道はすぐに起きあがった。ここにコートがあれば、一緒にバスケットがしたいと強く思った。二人でランニング、と花道は思ったが、実際には大勢の外国人が中庭や外で走っていた。一日のトレーニングとしては短いが、今できることをする。部屋に戻って二人で黙ったままストレッチをした。こういうことも初めてだった。
交替でシャワーを浴びると、流川はまたベッドに寝転がっていた。体を休めているとわかっていても、花道はつい違うことを考えてしまう。まだ使っていないもう一つのベッドに腰掛けると、流川が花道の方を向いた。じっと見つめられただけだったが、花道は流川の言わんとすることがわかった。おかしな遠慮はいらないのかもしれない。花道は、流川のベッドに飛び込んだ。
薄暗い部屋の中でも、流川の位置ははっきりとわかる。視線も表情もよく見えないけれど、困ることはなかった。
さっきの続きのように、軽めのキスから始める。昨日までの勢いに乗ったキスではなく、しっとりとお互いを味わうような深いキスをする。お互いの両腕でお互いを抱きしめ合って、ときどき上下が入れ替わる。ただただキスだけを繰り返していた。
それぞれの太ももに、存在感のある下半身が当たる。それがわかっても、触れようとはしなかった。どうすればいいのかわからなかった。ただ本能的に相手に押しつけて、擦り付けてしまう。そこには女性のように受け入れる器官はなく、同じように勃起したものがあるだけだった。
ふと流川が止まって、花道の頬を両手で挟み込んだ。
至近距離でじっと見られていることがわかるが、キスする雰囲気ではなかった。
何か考え込んだのか、流川が小さくため息をついた。
花道は急に現実に戻ったかのような不安を胸に抱いた。
「…オレたち……なにやってんだろな」
自嘲のような、苦笑のような、よくわからない表現で、流川は呟いた。
花道にもよくわからないけれど、流川もわかっていなかったのか。そのことに安心もしたし、不安にもなった。それならば、いったい誰が自分たちの関係を言い表してくれるのだろうか。
流川の両手は花道の頬を挟んだままだった。
花道は何と答えようと考えながら、小さく「うん」とだけ言って、流川の唇を撫でた。昔のように触れるだけのキスをすると、流川が笑った気がした。口元が柔らかくなった気がしたのだ。
「…オレもわからん」
そう言い足して、花道は流川を力強く抱きしめた。また交替で、今度はトイレに行った。そうすることしか出来なかった。
なんとなく気まずいけれど、男なら当たり前という行為だ。堂々とすればいいのに、ほんの少し顔を見ることが出来なかった。
さっきからずっと流川から話しかけられていたので、今度は花道は自分から話すことにした。
「腹減ったな」
「…ああ」
流川はすぐに返事をしたので、同じことを思っていたのだろうと思う。
「メシ、食いにいくか」
花道の言葉に、流川は財布を準備し始めた。何の不思議もないことだけれど、流川が財布を持っていることも、花道には珍しく思えることだった。
こうして流川とファミレスに入って食事をしたり、食事中二人が向かい合っていたり、そういうことは初めてで、花道は落ち着かなかった。流川の食べる姿も、あまり記憶にない。
食事中、会話らしい会話はなかった。人目なぞいっさい気にする必要もないのに、なぜだか話し合う姿を見られるのが嫌だった。誰にも聞かれたくない気がした。
夜になってもテレビは今ひとつ面白くなく、結局ベッドに入ってまったりとしていた。ずっとどこかに互いが触れていて、思いついたようにキスをする。それが出来る距離にいることが、こんなにも幸せだと思わなかった。
花道は冷静になると、あと何時間だろうか、と考えてしまう。
明日には確実に流川はいなくなる。次にいつ会えるかも、全くわからない。
狭いベッドでギュウギュウになりながら一緒に眠ることも、もうできない。
花道は、眠ることがもったいなく思えて、流川の寝顔をじっと見つめていた。
流川を思い出さないようにしていたのは、悔しかったからだろうか。自分で勝手にアメリカを諦めて、流川に負けた気がしていた。こんなにも流川と一緒にいたい、そしてバスケットがしたい、今は素直に思えるのに。なぜ意地を張っていたのだろうか。
深夜まで、花道はいろいろなことを考えていた。未だに、流川とちゃんとした会話はない。もっとアメリカのことを聞いてみようか、けれどそれにはプライドが邪魔をする。そんなことを言っている場合ではない、とずっと自問自答していた。