A Place in the Sun
新しい生活は、流川には苦労の連続だった。あまりにも街の雰囲気が違い、誰一人知り合いもいない。練習に出ても、冷たい空気だった。これまで流川は高校、大学の中でしか経験がなく、社会人としてのプレーは初めてだった。学生時代も外国人ということでいろいろあったけれど、それでも温室だった、と知った。バスケットさえ出来ればいいと考えていた自分は甘く、花道が心配していた気持ちが理解できた。花道は、湘北を卒業したあと、弱小チームとはいえ社会人だったのだ。大学のバスケットをどう思っただろう。こんな大変な思いを、18歳で味わっていたのか。誰一人心を開く友人もできないまま、毎日が慌ただしく過ぎていく。疲れ果てていた流川は、だんだん不安を感じていった。
夜に部屋から窓の外を見て、月をじっと見るようになった。そしていつからか、手の中に花道からのプレゼントを握りしめるようになった。黙ったまま、明日も負けるものか、と心の中で意気込む。それでも、気持ちが晴れることはない。それほど厳しい環境だった。
ずっと、この靴ひもを持っていた。16歳の誕生日に花道がくれたものだ。日本での別れ話のあと、流川は一度ゴミ箱に投げ捨てた。けれど、次の日にまた拾い上げ、スーツケースの中に入れた。そんな未練がましい自分を嗤いながら、今では捨てなくて良かった、と思う。結局は、ずっと忘れられなかったということなのか。流川はため息をついた。
「恋愛じゃなくて、執着か…」
そんな気もしてくる。意地なのかもしれない、と笑った。
流川にとって、花道は太陽のような温かさだった。月を見ながら、毎晩そう思う。自分の方が月のように冷たくて、花道からの光がないと輝けない。落ち込んだときは、そんなことまで考えた。
自分は自分なのだから、と励ましてみるけれど、自問自答が負のスパイラルだと気付いた。ときどきとはいえ花道といたときは、それで気持ちを発散していたのだろうと気付いた。
今ここに花道がいたらいいな、と思うようになった。それでも、花道は花道の行きたい道を進むべきだと思う。いつまでも素直になれない自分のそばではなく、自由に羽ばたいたらいい。そして、流川自身、追い抜かれないように、自分を高めなければならない。だから、こんなところで負けるわけにはいかないのだ。
誰にも見せられない姿だ、と自分で思いながら、その夜も流川はじっと窓の外を見つめていた。新しい生活が3ヶ月ほど経ってから、流川は花道のハガキをようやく送り返した。ただ、なんとなく電話番号だけは書かなかった。それまでに、花道からチームの所在地にハガキが来ていた。「ハガキ送れ」とだけ書かれた内容に、流川は吹き出した。こちらに来てから、あまり笑っていないことに気が付いた。少しずつ自分の地位を確立して、自分の気持ちが落ち着くのを待っていた。
住所だけを書いたハガキを送ったあと、花道から定期的に短い文章のハガキが送られてくるようになった。そうなると、流川は楽しみに待ってしまう。そんな自分が不思議だった。12月の下旬のハガキには、バースディソングが書かれていた。「かえで」とひらがなで書いてあったことに何となく照れた。誕生日にだけそう言うのだ。歌の中だけで。その日の文章はいつもより長かった。クリスマスやお正月の郵便事情がわからないから早めに送ったこと、電話番号知らせてこないからハガキになったこと、などが書いてある。流川は何度も読み返した。目を閉じて、頭の中で花道の声を想像してみる。そういえば、もう半年も会っていないし、声も聞いていない。遠くへ来たんだな、と思う。以前、日本とアメリカに離れたときは、流川は花道を思い出さないように必死だった。だから、最近15歳の自分たちを思い返す自分を女々しいと思っていた。
3月に入ってから、流川は2軍に落とされることが言い渡され、さすがにショックを受けた。まだ22歳とはいえ、年齢が上がれば体力も落ちる。NBAがますます遠ざかっていく。もしかしたら、そこを目標にすること自体、烏滸がましすぎるのだろうか。少しずつ、流川は自信をなくしていった。
それでも、クビを言い渡されたわけではない。そう思うよう努力した。
31日が近づくと、流川は花道の誕生日を考える。これまでプレゼントを上げたことは一度だけだったけれど、大学時代は一緒に過ごした。外食をしたときも、結局割り勘だった。ただ一緒にいられればいい、と花道が照れながら言ったことを覚えている。花道は、確かに高校時代とは別人のようだった。
スキだと言い続けることに、どれほどエネルギーがいるだろうか。たった一度の告白でも、流川は呼吸が止まるほど緊張していた。表面上どう見えていたのかわからないけれど。
花道は、いったい自分のどこが良いのだろうか。彼も単に執着なのか、それともスキということが習慣になっていただけか。
花道を少し馬鹿にしながら、流川はその日、深夜まで起きていた。
もうすぐ2時というとき、流川はこれまでかけたことのない番号を回した。
受話器を持つ手が震えていることに気付き、流川は目を閉じた。反対側の手でも受話器を抑え、深呼吸をした。
果たして花道は出るだろうか。もしかしたら、他の人と時報とともに、をしているかもしれない、と流川は最悪を想像していた。
「……はい…」
ものすごく不機嫌そうな声に、流川の心臓は跳ねた。どうやら寝ていたようだ。
流川は大きく息を吸って、もう一度目を閉じた。
「ハッピバースディ トゥ ユー」
「……えっ?! ルカワ?」
名乗っていないけれど、すぐにわかったらしい。流川は返事をせずに、歌い続けた。
「はなみち」
名前の部分はメロディをつけず、はっきりと発音した。
歌い終わると、どちらもしばらく沈黙した。
「ルカワ?」
「……うん」
懐かしい花道の声に、流川の目頭は熱くなってきた。花道に関するとき、本当に涙もろいと自分で呆れた。
「オメー! もう! 全然連絡してこねーで!」
いきなり怒鳴られても、それさえも懐かしかった。
「…時間、合ってるか?」
「お…おお……そっちは今何時だ?」
「…2時…」
同じアメリカでも、時差のある距離にいる。その遠さを感じた。
流川はこんな時間まで起きて、わざわざ電話をくれたのだろうか。
「る、ルカワ……その、頑張ってるか?」
「……うん」
そんな暗い返事は珍しかった。花道には、何となく流川の気持ちが読める。
流川は受話器の向こうの気配をうかがった。花道のそばには、今誰もいないのだろうか。それでも、それを確認する勇気も資格もないと思う。
「テメーも来年卒業か」
「…おお…なんかいろいろ考えてるぞ」
花道の明るい声に、流川は目を閉じた。昔から、花道は明るい。悔しそうに落ち込んでいる姿も見たけれど、立ち直る力が強い気がした。
「オメーよ…もーちょっと返事書けよ」
「………うん」
そう返事が来るとは思わなくて、花道の方が驚いた。
「ルカワ、オレオメーがスキだぞ。だから、連絡くれたら嬉しい」
「……わかった」
ほんの少し対応が変わっただろうか。花道は少し嬉しかった。流川の孤軍奮闘が想像できる。辛いことを辛いと言えないプライドの高さが哀れにも感じる。けれどそれが流川なのだ、と思う。
「電話…サンキュ」
「……うん」
本当は電話代など気にせずに話したかった。こんな深夜まで起きていた流川の姿に、花道は胸が熱くなった。
「んもーーー! だから、オレはオメーを吹っ切れねーんだろーが!」
今すぐ流川に会いたいな、と花道はため息をついた。そして、同じことを、流川も考えていた。