のろい
6月に入ってすぐ、やむを得ない事情があり、流川は日本に帰国した。
春からもう誰とも付き合わず、ただひたすらバスケットに打ち込んできた。それでもオフシーズンというものに入り、時間ができたからだ。もっとも、流川は日本に帰ることをかなり渋った。
帰りの飛行機の中で、流川は花道について思い出していた。
花道が主将をしている湘北は、県大会を勝ち進んでいるだろうか。今年の新入生はどうだったのだろうか。自分が高校に顔を出せば、きっとみんなに会えるだろう。激励したい気持ちもあるけれど、邪魔したくないのも本当だった。
ただ花道には、一度会っておくのも良いかもしれない。
この「呪い」は間違いなく花道によるものだと思うので、それを解かなければならないからだ。
「どうやって…」
その方法はわからない。けれど、会えば何かわかるかもしれない。
目を閉じて、ずっと以前のことを思い出す。もう一年半くらい前になるだろうか。
流川はそのまま自分の右側の目尻をひと撫でした。そこに、今では薄くなっている縫い目がある。直接花道に傷つけられたものではないけれど、確かに原因は彼だったろう。あのときの花道の辛そうな表情を、流川ははっきり覚えている。実際に痛かったのは自分の方なのに、とおかしく思った。
まだ二人が一年生で、花道がインターハイでの怪我から復帰したばかりの頃だった。
花道は最初の部活の日に、とてもはしゃいでいた。興奮していたのだろうと、流川は感じた。とても嬉しそうに走り回る姿に、懐かしい部活風景だと思った。もっとも、自分に突っかかってくるのは相変わらずだったので、鬱陶しいとも思った。
その花道が、居残り練習の後、喧嘩を吹っかけてきた。そのときもまだ流川でさえ懐かしい気持ちでいっぱいだったけれど、場所が悪かったのか。それとも雨が降った後で地面が滑りやすかったせいか。花道の他愛もないパンチを避けようとしたとき、流川は足を滑らせて派手に転んでしまった。コンクリートの上でゴツンという鈍い音が聞こえたとき、流川の目に火花が散った。右側額あたりを強く打ち、すぐに出血を始めたことを感じた。
「…どんくせー」
自分の姿があまりにも情けなくてそう呟いたつもりだったけれど、花道にはわからなかったと、後で聞いた。そのときの花道の声も、流川には遠いものに聞こえた。意識を失っていたのか、それすらも自分ではわからなかった。
はっきりと気が付いたときには、学校の近くの病院だった。小さな外科で、体育会系の部活ではよくお世話になっているところだが、そのときすでに診療時間外だった。
花道が血だらけの自分を背中に背負って、病院のドアを力強く叩いたらしい。自宅に戻っていた医師と呼ばれた看護婦が、丁寧に対応してくれた。きっと迷惑だっただろうと流川自身思う。けれど、こうしてすぐに診察してもらい、安静にできているのは、花道が自分を放り出していかなかったからだと思った。
流川が天井をぼんやり見ていると、廊下では花道が看護婦に叱られている声が聞こえた。頭を打った場合は動かしてはいけないこと、すぐに学校に知らせ、大きい病院で検査を受けた方が良いことを覚えておいて、とため息をついていた。
「もっともだ」
口の中で流川は頷いた。
けれど、花道の狼狽ぶりを思い出すと、不思議と胸が温かくなった。
確か、以前安西が倒れたときは、的確で素早い対応だったと聞いたけれど。流血にも慣れているだろう。何をそんなに慌てていたのだろうか。
花道がベッドのそばに来て、流川は自分の右側が見えにくいことに初めて気が付いた。そこにガーゼと包帯があって、左目だけしか動いていなかった。
「ルカワ…」
そんな苦しそうな声で自分を呼ぶ花道に驚いた。自分は何かそんな重大な状態なのだろうか。
まるでお別れかのように、花道が流川の右手を自分の両手で包み込んだ。祈るようなしぐさをして、そこに額を当てた。
「…桜木?」
ビクッと肩を揺らして、花道は顔を上げないまま話し始めた。
「も、もうすぐ先公と…ご家族が…来るらしい。オレ、ちゃんと話すから…オレのせいだって…」
「……は?」
家族が来るのはまあわかる。手続きもあるだろう。けれど、なぜ先生まで来るのだろうか。
「病院がガッコに連絡して……ケンカ沙汰じゃねぇかって……」
「……なんだと…」
流川は慌てて体を起こそうとしたけれど、首を上げたたけで痛み、すぐにうめき声を上げた。
「あ、あの…むちうちっぽくなってるだろうから、動かすなって言ってた」
確かに先ほど医師からそう説明があった。けれど、じっとしていられなかった。
「桜木…余計なことは絶対言うな」
「……なに?」
花道はそのときになってようやく顔を上げた。
流川は一生懸命考えた。もしこれが大事になったら、バスケットの試合に出られなくなるのではないかと、すぐに思い至ったのだ。
「オレが勝手に転けたことにしろ」
「な……なんでそんなウソ…」
「理由はあとでちゃんと言う! いいから絶対言うな!」
痛みを堪えながら声を絞り出し、握っている手に力を込められて、花道はただ困っていた。
結局、教師と家族が揃う前で、流川がボソボソと説明した。花道は流川のそばに座って項垂れていて、何度か顔を上げようとする。そのたびに、繋いだままの手を、流川がギュッと握り押さえた。
「桜木がいなかったら…オレは一人で倒れてて…タイヘンだったかも…」
流川がそうまとめたので、教師はいぶかしみながらも引き下がるしかない。この二人がよく喧嘩をしているのは事実だったけれど、新聞沙汰にしたくないのは同じ気持ちだった。そして、流川の家族に感謝の言葉を述べられて、花道は一層縮こまっていった。