のろい
流川の傷は、額の右側から瞼にかけてで、何針か縫った。流川は花道の青い顔を見て、自分の視力がどうにかなったのか、と心配した。けれど、少々の傷は気にもならなかったし、結局網膜剥離もなく、自分の目が無事とわかり、流川はホッとした。もしも自分がバスケットが出来なくなっていたら、きっと花道にも同じ目に遭わせたかもしれない、と自分で自分が怖くなった。
もう喧嘩は止めよう。
そんな約束をしたわけではないけれど、お互いに手を出さなくなった。体育館で肩を押し合うことはあっても、流血するような怪我はなくなった。
そして、怪我以来、花道はしばらく流川にまとわりついていた。流川の面倒を見ようとしたらしいけれど、それは不要だと何度言っても駄目だった。
抜糸が済むまで、流川は包帯を巻かれて、安静を指示されていた。学校には行くけれど部活はできなくて、流川はため息をついて帰宅する。部活の後、花道が毎日訪れるようになった。
「見舞いなんかいらねー」
何度も玄関で流川は言う。流川の家族は、花道に優しく対応する。そうすると、花道は背中を丸めて恐縮し、しばらくすると帰っていくのだ。
こんな自分たちは不自然だな、と思う。自分の怪我さえ治れば元に戻るだろう、と期待した。
週末になると、花道は流川を連れ出しにやってきた。行き先は花道の部屋で、なぜわざわざこんな遠くまでと思う。
「オメー…なんか困ってるコトねーか?」
「……バスケしたい…」
流川の答えに、花道は苦笑いする。それだけは、今の花道にはどうすることもできなかった。
「あ…」
「な……なんだ…」
「頭かゆい…」
以前のように毎日髪を洗うことができなかった。夏ではないとはいえ、不快だった。
「オレが洗ってやる」
そう言って、流川を迎えに行くようになったのだ。
花道の家で、流川は花道にされるがままだった。お風呂場に座らされ、湯船に頭を乗せる。包帯だけ外して、ガーゼが濡れないようにタオルを置く。花道は慣れている、と流川は感じた。
ドライヤーで乾かす間も、流川は目を閉じてじっとしていた。洗い上がるとさっぱりした気持ちになった。
「ルカワ…ヒゲ伸びてるな」
「…ああ…」
流川は素直に首を縦に振った。入浴中に髭を処理していた。けれど、今は顔をろくに濡らすことができず、以前ほどマメにしていなかった。
「オレな、コレ得意なんだ…あたってやる」
「……は?」
花道が嬉しそうに準備する姿を、流川は左目だけで追った。
まるで理容院でしてもらうかのように、蒸しタオルで頬を当てられ、シェービングクリームを付けられる。
「ゼッタイ動くなよ」
剃刀を持ちながらそう言われると、流川も素直に従うしかない。別に髭なぞ少々伸びていても問題ない、と思うのに、とても気持ちよく感じた。
ときどき剃刀の柄の部分を洗面器にトントントンとぶつける音がリズミカルで、花道が得意と言ったことは嘘ではないんだな、と考えた。
「オレはそんなに濃くねーんだけどよ」
花道が自分の話をしながら、流川の顔をゆっくりと引っ張る。流川は頷くことも、口を開くこともできなかった。
「前に忠のヒゲやったんだけど、今はこだわりあるらしくってよ」
そう笑いながら、流川の顎を持ち上げる。黙ったまま聞いていても、花道の話をすべて理解できていなかった。それでも、自分にこんなに穏やかに話す花道が珍しくて、目を閉じたままじっとしていた。
「オメーはもしかしたら、濃くなるかもな」
ほんの少しだけ薄目にすると、真剣な表情をした花道が見えた。目線は合わなかった。
「まあオレもよ…これからヒゲオヤジになる予定だがな!」
流川は心の中で笑った。髭にまで負けず嫌いは発揮されるのだろうか。
最後に残りのクリームをふき取られ、「さっぱりした?」と花道が笑いながら問いかけた。
もう口を動かしても良いとわかっていたけれど、流川は黙ったまま頷いた。