のろい
アメリカに戻ってからの流川は、しばらくは大人しくしていた。花道が思うところの浮気はしていなかったという意味で。
けれど、一度自慰以外の快感を知ってしまうと、たまには羽目を外したくなる、と流川はため息をついた。どう頑張っても、花道と会うことはできない。花道が待ち遠しいとは思っていなかったが、そばにいないから仕方がないと、流川は自分に言い聞かせた。
以前よりは消極的だったと自分でも思う。それでも誰かと出会い、二人で話し、ぶつかる肌の距離が近づく。けれど、6月より以前のようにはいかなかった。相手が女性でも男性でも、キスすることさえ出来なかった。
「また呪われた…」
1月1日の新年は誘われて賑やかに迎えたけれど、誕生日を一人静かに過ごした。誰かと祝いたいとか、パーティをしたいわけではない。けれど、周囲のカップルを見ていると、自分が突然孤独になった気がした。
「いつもひとり」
だったと思う。誰かと連むこともなかったはずなのに。
今頃になって、面倒と思っていた家族も有り難いものだな、と親の小言さえ懐かしく感じた。湘北バスケ部に、流川はアメリカの住所を置いてきていた。教えて欲しいと頼まれたからだが、自分からはいっさい返事は出さないと話していた。最初の頃はいろいろな人から手紙やハガキが来たけれど、それも徐々に減っていた。流川はそれも気にしたことはなかったけれど、懐かしいと思う気持ちは確かにあった。
秋頃から、花道からビデオが送られてくるようになった。手紙などに比べると料金も違うのに、と驚いた。
インターハイに行けなかったと聞いていたが、その予選の最後の方の試合だった。花道からのメッセージは何もなかったけれど、花道がどういう気持ちだったか、流川には想像がついた。主将としての最後の試合、ゲーム中も試合後も、花道はキャプテンらしい動きをしていた。こんなにも人間的に成長するものなのか、と流川は素直に感心した。
その後も選抜の試合のビデオも届き、流川は花道のバスケット技術をじっと観察した。新しい年になってから、安西と花道から何度か連絡が来た。花道がどうしても流川のところに行くと言い張り、流川はそれを何度も断ったからだ。今は狭い部屋に一人暮らしで、とても誰かと住めるスペースはない。それだけではなく、他人と一緒にいることが嫌だった。
結局、流川の方が諦めた。なぜ自分が折れたのか、流川にもわからなかった。
以前の自分なら、宿さえない花道を、遠慮なく放っていただろうと思う。
今でも、花道を恋しいとは思わない。けれど、バスケットは見てもいい、と思う。自分と肩を並べる日が来るかどうかはわからないけれど、花道はたぶんアメリカが合っている、と流川は思う。何の手助けもしない、と何度も伝えた上で花道は来るのだ。だから好きにしたらいい、と流川はため息をついた。
2月最後の日に、花道がアメリカにやってくるとわかった。空港までの出迎えを頼まれて、それも何度も断った。結局、何もかも最終的に了解してしまう自分に呆れながら、流川は約束の時間に遅れなかった。
行きのバスの中で、花道のことをじっくり思い出していた。
一緒にバスケットをしていた時間よりも、離れている方が長い。仲が良かった時間は全くなかった。喧嘩ばかりで、一年の頃は何度も流血していた。花道が気にする右側の傷だけではなく、何度も縫ったり、病院の世話になっているのだ。それを花道自身見ていたはずなのに。
「なんでこれだけ」
気にしているのだろうか。流川は、自分の右眉あたりに触れて、花道の指をなぞるように動かした。
もしかしたら、傷自体ではなく、そのときの「呪い」の方が気になっているのかもしれない。流川はその考えに少し納得した。
なぜ、花道は突然キスをしたのだろうか。
そして、なぜ自分はそれを呪いだと思っているのだろうか。
未だに、自分がわからなかった。到着ゲートは人でごった返し、流川はため息をついた。入国手続きなど、そういえばいろいろあったことを思い出し、もっとゆっくり来ても良かったと気付いた。
もう到着しているはずだけど、本当に花道は乗っているのだろうか。パスポートを忘れて乗り損ねたとか、そういうこともあり得る。流川はどうでもいいことを考えて、気を紛らわせた。
花道を見たら、自分はどんな反応をするのだろうか。
今のところ、何の気構えもない。待ち遠しいともやっぱり思えない。今日から一緒に暮らすと言われても、実感もわかなかった。部屋の中をほんの少し整理し、花道のためにスペースを空けた自分を思い出した。思えば、ベッドはどうするのか。1つしかないのに。
「…床か…」
そう言えば良い、と決めた。実際、最初からそう話していたはずだった。
なぜ、花道は自分のところへ来るのだろうか。流川を倒す、とは聞いていたけれど、アメリカの別のところや違うアパートを借りるなり、すれば良いことではないか。
今頃になって、流川はもっと強く断り続けるべきだったと、またため息をついた。人混みの中から、流川は素早く花道の赤い髪を見つけた。キョロキョロと自信のない表情をあちこち向ける様子があまりにも珍しくて、流川はしばらく動かなかった。その視界に自分が入ったらしいとき、花道が一瞬ホッとした笑顔になった。そのとき、流川の心拍が跳ね始めた。
大股で花道が自分に向かってくる。笑顔だった顔が、だんだんいつもの偉そうなものに変化していく。目の前に立って、「出迎えご苦労」とか、胸を反らしながら言う気がした。
けれど、花道は無言のままだった。その手に持っていたパスポートをじっと見つめながら、流川は「ああ忘れなかったんだな」と関係ないことを考えていた。
なぜだか、花道と目を合わせることができなかった。
パスポートを確認したあと、花道の顎あたりをじっと見る。視界の端に赤い髪を再確認した。
花道が目の前にいる。
それだけなのに、なぜこんなにも心臓がドキドキしているのだろうか。
緊張などしたことがないはずなのに、流川は知らず知らずのうちに、握り拳を作っていた。それから5分ほど、二人とも無言のまま、向かい合っていた。