奇 跡 

 

 

 自分たちの席での挨拶も、流川はまともに聞いていなかった。
「コイツ、電車に放り込んでくるから」
 花道の言葉に、ほんの少し目を開けたけれど、俯いていたので誰にも見えなかった。
 会場を出たとき、流川はやっと口を開いた。
「…荷物…」
「あぁ?」
「…紙袋…」
 お互いの顔が息のかかる距離にある。ボソボソと小声で話しても、十分聞こえる。それなのに、花道の声は大きかった。
「チッ しょーがねぇ…ここで待ってろ」
 地下一階の会場の外には長椅子やソファが並んでいた。その一つに流川を座らせ、花道は一人会場に戻った。
「うるせーヤツ…」
 そう呟きながら、流川は長椅子に倒れ込んだ。ここは日本だし、すぐに花道が来るだろう。不思議な安心感があった。
「ああ!もうそんなとこで寝るな!ルカワ」
 離れたところから花道の声が聞こえる。動かないでいると、花道がまた流川の右腕を引っ張った。体の力を抜いていた流川は、首を仰け反らせたたけただけだった。
「もーーーっ」
 花道の声が近づいてきた。流川のそばに座って、力の抜けた両腕を花道の首に絡めた。両腕で流川の背中を支え、ゆっくり体を引き上げた。
 流川が立つと、お互いを抱きしめ合ったようになった。こんな姿勢は初めてではない。それでもかなりドキッとした。花道の頬に額を合わせるようなところで、流川は呟いた。
「いちいち抱き上げンな…腰に負担かかる…」
 そのセリフも、以前言われたことだ。花道は懐かしくて、頬が緩んだ。
「あ、歩けるか?」
 流川は目を閉じたまま頷いた。
 一階までのエスカレーターに乗り、軽い振動があるたびに花道は流川の腰をしっかりと抱きしめた。流川はお酒には弱くはない。今日もそれほど飲んでいなかったと思う。これはやはり時差ぼけなのだろう。花道自身、少し眠いし疲れている。そんなことを考えながら、花道はロビーを目指した。
「桜木」
 小さな声で呼ばれて、花道はビクッとした。思えば、今日初めて呼ばれたかもしれない。それくらい、視線も合わせず会話もなかった。
「な…なんだ」
 俯いたまま何かを話しているけれど聞き取れず、顔をのぞき込んだ。
 流川が自分のポケットを探り、花道に何かを差し出した。
「オレは…電車には乗らねー」
 その部分だけ花道は聞き取ることができた。
「え?ここに泊まンのか?」
「……そー」
 招待状の中に宿泊の案内はあった。会場は東京だし、花道は終電になってでも帰るつもりだった。今はまだ21時前だ。
 流川が差し出したカードキーを見て、花道はエレベーターを探した。
 その部屋を見たとき、花道は「お持ち帰り」という単語を思い出した。このダブルベッドに、流川は準備していたのかと勘繰った。ベッドに気が付いた流川は、花道の腕をすり抜けて顔面から倒れ込んだ。右足がベッドに乗らないまま、流川はそのまま動かなくなった。
「お…おいルカワ…寝るなら…」
 スーツを脱いだ方が、と続けようとしたが、それよりも先に体が動いていた。磨かれた靴を脱がし、袖を引っ張ってジャケットを脱がす。スラックスはどうしようかと一瞬悩んだけれど、またすぐに行動した。
「ルカワ…オモテ向けンぞ」
 体をゆっくり仰向けにする。すでにだらしのない顔で、流川はされるがままだった。
 花道は手早くベルトを外し、スラックスを脱がした。
 ふと流川の下着を見て、「見たことがない」ものだと思った。けれど、元々下着をじっくり観察したことはなかったことを思い出し、花道はスーツをハンガーにかけに移動した。
 ベッドカバーの上に寝ている流川を何とかしようと考えた。本当は放っておけばいいと思う。それなのに、まだ流川に関わっていたい気分だった。
「オレに掴まってろ」
 そう言葉にしながら、花道はまた流川の両腕に自分に巻き付けた。流川の体を浮かせて、その後ろのシーツをめくる。流川の腕にはほんの少し力が入っていて、花道にしがみついていた。それから流川の首を支えながら、ゆっくりと枕に倒した。
 流川はずっと目を閉じたままだった。眠っているように見えるけれど、全く無反応でもない。
「誘わないかな…」
 そんな期待をしていた。一緒に寝ようとか、ここにいてとか。そんなことを言う男ではないと思いつつ、花道はしばらく黙ったままその顔を見つめていた。
「…水…」
「え…? 水?」
 流川からの要求は期待したものではなかった。けれど、花道はエレベーターそばの自動販売機を思い出し、一度部屋を出た。そのとき、部屋のカードキーが2枚あることを確認した。
「おら水…置いとくぞ」
「…ん…」
「オレ帰るから…カギ締めろよ」
「…ん」
 本当に返事なのかよくわからない声で、流川が応えた。
「明日の朝起きれるかわかんねーだろ? 目覚ましかけとけよ」
 それ以上返事はなかった。それから1分ほど見つめていても、全く動かない。本当に寝たのかもしれないと花道は笑ってから、ゆっくりと上体を倒していった。

 ドアの閉まる音を聞いてから、流川は目を開けた。確かに眠いけれど、寝ぼけているわけではなかった。花道はどう動くのだろうと様子を見ていたのだ。
 花道はキスをした。けれど、帰るといって出ていった。
「あいさつのキス…」
 そう思いながら、そんなものをしたことがなかったことにすぐに思い至った。何度も深いキスをしたし、体も繋げた。それでも流川はあくまで「オナニーの延長」と言い張っていた。あれがセックスだと認めてしまうと、自分たちが変わってしまう気がしたから。
 花道が移籍することがわかったときから、しなくなった。引っ越すときに思い出深いキスをした。それが一年前だ。それから花道は何度か電話をかけてきたけれど、すれ違いも多く、また流川から連絡しなかったせいか、縁が切れてしまっていた。それでも噂は聞いていたし、今回のことも赤木から聞いていた。
 花道は、アメリカの空港の入り口で流川を待っていた。ものすごく大きな態度で立っていた花道を見つけて、流川は他人のフリをしようとさえ思った。
 隣に座っていることが気まずいと感じるなら、わざわざ一緒に帰らなければいいのに。成田からもずっと一緒だった。今日も誘われたけど、流川ははっきり断った。
 花道に想いはないつもりだけれど、懐かしいと感じるのは情のせいなのだろうか。3年近くルームシェアをして、2年ほど深い仲だったのだ。そして、バスケのことで不満はあるけれど、二人に関してはとても穏やかな別れ方だったと思う。
「…別れ?」
 付き合っていないのだから、別れるという表現はおかしい気がする。けれど、それ以外に説明できなかった。
 流川がなぜダブルベッドの部屋にしたのか、花道が想像した通りだった。ただ、お持ち帰りしたかった相手は、花道だった。会話にならないし、会っていてもうまく視線も合わせられない相手なのに、また「やりたい」という気持ちだった。それほど欲求不満だとは思えないのに、花道と日本で再会すると思ったら、体が少し反応した。
 それでも、流川は全く花道を誘えなかった。これまでお持ち帰りをされたことはあっても、逆はなかったせいもある。花道がいま何を考えているのかわからず、断られるのを恐れたのが本音だろうと自分で思う。
 花道は、たぶん流川を見ていた。今日一日中ずっとだ。
 女性たちにかこまれたりすると、花道が邪魔をしに来た。アメリカではもっと早く来ていた気がするけれど、今日は大人しいのだろうか。それとも渋々動いていたのだろうか。頼んでもいないのに、部屋まで連れてきた。
「キスした…」
 触れるだけのキスをしていった。そのまま出ていってしまった。
 やはりもう終わったことなんだなと思うと、流川の瞼は熱くなってきた。
「…あれ?」
 自分で自分の反応に戸惑った。
 認められないだけで、実は花道が好きなのだろうか。
 ギュッと目を閉じて、「桜木」と流川は声に出して呼んでみた。

 会場に戻った花道は、流川がちゃんと電車に乗れたかなどの質問を適当にはぐらかした。まだすぐそばにいる、と誰にも言えなかった。それからのパーティは、花道の記憶には残っていなかった。思えば、晴子との会話さえ覚えていない。振り袖姿に感動したこと以外は。
 流川のお持ち帰りの相手は誰だろう。もしかしたら単純に広いベッドで寝たかっただけかもしれない。カギが2枚あったのだから、相手には渡せていないはずだ。
「失敗か」
 お持ち帰りに失敗したのだろうか。少し考えたあと、部屋番号さえ伝えておけば、あとは流川が出迎えることができる。カギを渡しておく必要などないのだ。
 今頃部屋でどうしているのだろうか。あのまま寝ているのか、それとも本当に誰かと…。
 花道の表情は自分が思っている以上にクルクル変わっていた。
 流川の初めては自分だったはずだ。一緒に暮らしている間に女性と付き合ったことはなかった、と花道は思っている。実は知らないところで、という時間もなかった。練習も忙しかったし、何より自分たちはずっと一緒にいたのだ。
 流川の3〜4人発言に少しショックを受けたけれど、花道も全く同じだった。誰も信じなかったけれど。躊躇った4人目は、たぶん花道のことなのだろうと思う。数にカウントするか一瞬悩んだに違いない。順番は最初だけれど。
 花道は、キスをした自分と、カードキーを持ち出してきたことを悩んでいた。流川のそっけない態度から、もうそんな関係ではないと告げられた気がした。それでも、ちゃんと自分にしがみついて、抱きしめても逃げなかった。けれど、全く誘われていないではないか。
 やはり相手は自分ではないのだろう。
「水買ったあと、間違えて持ってきちまった」
 そう言いながら返せばいい。本当はそのまま黙っていようかと思ったけれど、さすがに追加料金がかかりそうなことは止めようと思った。
 じゃあいつ部屋に行こうか。今すぐだろうか、それとも深夜か。夜遅くにお持ち帰りの相手がいて、一緒に寝ていたりしたら、花道はどうするだろう。怒るだろうか、からかうだろうか。
「カギ締めろっつったしな」
 オートロックの部屋のカギを締めるということがチェーンのことだと、流川もすぐにわかっただろう。今は寝ぼけていても、アメリカで暮らしていたのだ。それくらいの緊張感は持っているはずだ。チェーンがかかっていたら、ドアの下からカードを押し込めばいい。そんなことを考えていると、二次会の終わりの挨拶が始まった。

 

突然ですが、次から過去話です。

2015. 4. 8 キリコ
  
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