奇 跡 

 

 次の日の朝、花道は夢を見ながら目覚めた。
「夢じゃねー…よな」
 昨日の流川だった。ダイニングの明かりの下で、伏し目がちの瞳がいつも以上に黒く見えた。まっすぐにこちらに向かってきて、花道に触れるときに静かに瞼を閉じた。そして、キスのあとの表情が見たことないようなものだった。
 それらをはっきり思い出せる。夢に出てくるくらい、寝る前に何度も脳内リピートしていた。
 気持ち良かったからだろうか。それともファーストキスはみんなこんな風に感じるのだろうか。
 花道は胸をドキドキさせながら、ベッドから立ち上がった。

 その日は少しぎこちない気がした。いつものケンカも出来なかった。練習中は通常通りだったと思うけれど、家で二人きりになると、花道は流川を意識してしまった。目の前で夕食を食べている姿も珍しくないのに、無意識のうちにじっと唇を見つめてしまう。気が付いて慌てて視線を逸らすけれど、また同じことをしてしまう。全く冷静になれなかった。
 流川は花道ほど見た目に変化はなかったけれど、実は花道と同じ状態だった。キスの感覚に驚いて、余韻を引きずっていた。気が付くと遠いところを見ながら唇を撫でていた。それでも、嫌いな相手とのキスがこれほど気持ち良いのだから、好きな相手、もちろん女性だ、ならば、天にも昇る気持ちなのかもしれない。流川はそう考えて、自分の舞い上がった気持ちを抑えようとしていた。
 二人とも出会いに積極的になろうと決心した。身近な男を意識している自分を受け入れることができなかったから。

 シーズン中でもパーティや飲み会はある。チームメイトだけではなく、知らない人もたくさん入り交じる。最初は雰囲気に圧倒されていたけれど、今は自分のペースで飲む余裕もあった。それなりの広さが出来ると、必ず誰かが踊り出す。飛び出さなくても、座ったまま体をリズムに合わせて揺らす人もいる。全く音楽も関係なく、会話に夢中な人たちもいた。
 流川は壁際に立っていたり、スツールに座ったりしていた。自分から話しかけるタイプではないので、声をかけられたら話す程度だ。言葉の壁も未だあり、騒音の中ではより聞き取りづらかった。
 あのキスから2週間ほど経ったその日、花道は自らフロアに躍り出た。流川の目から見ると、盆踊りのようだった。周囲と全然違う動きとリズムだったせいか、花道は浮いている。もっとも、誰もが同じ踊りというわけでもないので、それはそれで個性なのだろう。意外にも楽しそうに踊っている花道を、流川は座ったまま観察していた。
 しばらくして、花道の真正面にやや小柄な女性が来た。花道を真似た動きをしながら、大声で笑っているのが見える。バカにした笑いという感じではない。モーションをかけられている、と流川は冷静に見ていた。花道はどんな反応をするだろう。その後も会話をしているようではないけれど、女性の踊りを真似するよう促されて、素直にやってみせていた。
「結構踊れてるじゃねーか」
 流川は苦笑した。これまでただ尻込みしすぎていただけだったのだろうか。実は自分も踊れるだろうか、と想像してみたけれど、やはり無理だと思った。
 ふと気配を感じて顔を上げると、背の高い女性が流川の横に立っていた。笑顔で挨拶されて、無表情のまま挨拶を返す。隣に座る許可を取りながら、ゆっくりとした動作でスツールの背を掴んだ。すべてが見せるためのポーズなんだろうな、と流川は感心する。腰掛け方も足の組み方も、一つ一つ流川に値踏みさせるように見えた。
 しばらくは、よくある質問を受けながら、日本人でバスケットをしていることを話す。そして、英語がまだそれほど得意ではないと言うと、丁寧に会話する人と立ち去る理由を述べる人がいた。今日は前者だった。
『飲み物おかわりいる?』
 このセリフが大事だと流川はチームメイトから教わった。本当かどうかはわからないけれど、気の利く男が良いらしい。そして、わかりやすいサインでもあった。ここで『ありがとう』と言われて飲み物を取ってくると、相手が消えていることもある。最初は驚いたけれど、こういう場でも出会いはお互いにしつこくしないものなのだろう。
 今日の相手は、流川が持ってきた飲み物を受け取った。たいして会話が弾んでいるわけでもないのに、不思議な思いだった。流川自身の好みというわけではないけれど、美人だろう。黒人ではないけれど、白人でもない。非常に強い視線や薄い瞳は東洋人でもない。黒い髪は本物なのかな、と流川なりに観察していた。 日本に興味があると言ったことは嘘ではないのだろう。たくさん日本について聞かれ、流川なりに答えた。けれど、意外と日本について知らない自分に驚いた。
 ふと視線を花道に送ると、まだ先ほどの女性と一緒に踊っていた。もしかして、今日はお互いに出会いは成功しているのかもしれない、と流川はなぜか笑いたくなった。
 じっと視線を合わせることも、日本にいたときから平気だった。もっとも、男女ともに自分より低い位置にあるので、実際にはそれほど機会もなかった。花道は、ほぼ目線が同じだったせいか、とてもよく睨み合っていたと思う。薄い瞳をじっと見つめながらそんなことを考えていると、相手が自分の黒い瞳を褒めた。薄暗い会場の中でどの程度見えているのかわからない。ああ、口説くとはこういうことなのか、とおかしな学習をした。
 ゆっくりと顔を近づけると相手も同じようにする。流川は冷静だった。この間、花道と練習したからだろうかと心の中で笑った。
 花道とは違う唇だと感じた。柔らかさはあまり変わらないけれど、お化粧のせいなのか感触が違う。近づくと香水の匂いが強くなった。一度唇を離しても相手も逃げなかったので、深いキスだ、と思ったとき、右足の太もももに冷たい物を感じた。
 パシャッとという水音に、女性も顔を上げた。流川は太ももを確認したあと、花道が目の前に立っていることに気が付いた。その手には空になったコップを持っていて、どう見ても花道が自分に飲み物をかけて邪魔をしたとしか思えなかった。
「何しやがるテメー」
 流川はすぐに立ち上がって、花道を睨んだ。
「表へ出ろ、この野郎」
 花道の低い声に、女性が逃げてしまった。花道の肩越しにフロアを見ると、先ほどの小柄な女性が両手を上げて呆れたポーズをしていた。
 流川は花道にぶつかりながら外へ出た。すぐに花道も追ってきたけれど、特にケンカにもならなかった。それほど怒りも感じなかった。どこかホッとしている自分に流川は驚いた。
「邪魔しやがって」
 これは本音だった。
「だ、ダメだぞ…よく知らねー相手と…」
「……テメーこそ…」
 うまくいきかけていたのではないのだろうか。その相手を放っておいて、自分の邪魔をしにくる。おかしな男だと思う。
 以前から、流川はデートらしきものを何度かしてきた。それぞれ短い時間だったが会話して、そこから熱心に電話したり、アプローチをしなかったためか、すぐに終わってしまう。ではこういうパーティの方が出会いやすいかと思っていたのだけれど。
 2回目のキスは気持ち良かった。それでも、花道との方がはるかに印象深い。お化粧も香水もそれほど好きではないけれど、着飾る女性が嫌いなわけでもない。
 もしかしたら花道が呟いた通り、よく知らない相手とは深い関係になれないのかもしれない。自分の意外な一面を発見し、流川は俯きながら歩いた。
「さっきの人…美人だったな…」
「…テメーの相手はテメーの好みだったろ…マネージャーみたいに」
 お互いに、なんとなく相手の好みもわかるようになっていた。一緒にアダルトビデオを観ることもあるので、そちらの好みも何となくわかる。
 それから沈黙したまま部屋について、流川はため息をついた。家の中はホッとする。花道がいても不快ではない。
 二人ですぐに手洗いとうがいをする。これはいつもの習慣だった。
 ついでに顔も洗ったらしい花道がタオルでゴシゴシ拭いている。その顔を横からじっと見つめて、流川はため息をついた。
「なんだ?」
 花道が視線を感じて流川を見た。
 流川はもう一度したいと思った。花道とのキスを確かめたい。
 最初から深いキスをすると、すぐに花道が自分を抱きしめるのを感じた。
 ああ、花道もしたかったのか、と思うと、自分だけではないと安心した。
「口直し」
 他にうまい言い訳も思い浮かばず、流川はそんなことを呟いた。

2015. 4. 15 キリコ
  
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