奇 跡
『花道はゲイなのか?』
休日が終わってすぐ、練習が始まる前に花道は問いかけられた。意味が理解できなくて首を傾げていると、『ホントなのか』と勝手に納得されそうになった。よくよく聞いてみたあと、花道の顔は青くなった。右手を大きく顔の前で振る花道の表情は嘘をついているようには見えなかった。比較的仲の良いチームメイトはそう思った。けれど、以前から流川との噂もあったので、確認しておきたかった。
『まあ…何があったか知らないけど、たぶんアイツがそう言い触らしてる』
さりげなく親指を立てたチームメイトの肩越しに、例のグルーピーがいた。もちろん花道はそんな風には呼んでいなかったけれど。
『……なんで…』
『花道にフラれた腹いせだろ』
苦笑する顔を見ても、花道には理解できなかった。
話を聞きつけた周囲のチームメイトも、『やっぱゲイだったのか』とからかう。どこまで本気なのかわからなかった。
『あ、カエデ。花道ってやっぱりホモ?』
通りかかった流川は心の中でギョッとした。ポーカーフェイスが得意で良かったと真剣に思った。
困った顔の花道と目が合って、流川は目線を逸らした。
『オレは知らねー……けど、コイツのネタは女ばかりだ』
流川のフォローらしき言葉にチームメイトがどう思ったかはわからない。けれど、花道は慌てて俯いた。どんな表情をすれば良いのかわからないのだ。そして、タイミングの悪さに呪いたくなった。
花道が流川に手を出したのは、2日前のことだった。昨日の朝の気まずさは、初めてキスしたときと比べ物にならなかった。朝早くに目覚めた花道は、自分の部屋から出ることも躊躇った。
「殴ってくれればなー」
怒られたり、もしくは蹴ってくれてもいい。本心からそう思っていた。
事が終わったあと、流川は花道の頬をグーで殴った。そのあまりにも弱いパンチに驚いた。真剣に怒ったせいなのか、単に力を込められなかったのか、花道にはわからない。とりつくしまもないまま流川は素早く部屋を出ていった。
いきなり襲った自分を反省はしている。流川の戸惑いも想像できるつもりだ。
それでも、そのときの流川を思い出すと、花道の下半身はすぐに興奮状態になった。
初めて喘ぎ声をそばで聞いた。自分の与える行為に反応するしぐさが、見えなくてもわかった。
「オレはホモじゃねー…」
朝食を準備しながら、花道は独り言を呟いた。
しばらく前、おそらく流川と初めてキスしたあたりから、花道はこの言葉を何度も呟いていた。自分に言い聞かせるように。
「アイツが悪い」
いつもの流川とは違う姿を見せるから、こちらが困るのだ。強い眼差ししか知らなかったのに、トロンとした瞳で自分を見上げていた。肩や胸あたりに手のひらを当てて、花道の腕の中に収まる。首に両腕を回されたり、背中をギュッと掴んだり。花道が憧れていたことを、流川はたびたびしていた。わざとなのか、無意識なのかわからない。そういう腕や指の動きや、控えめな喘ぎ声は、とにかく花道の好みだった。
突然ドアの開く音がして、花道はその場で飛び上がった。
流川は俯いて無言のまま洗面所に向かった。これはいつものことだけれど、着替えたあとどうするだろうか。
花道はコンロから顔を上げないまま、じっと動きを気配で探った。
しばらくして流川が花道の方へ歩いてくる音がした。黙って出ていったりはしないようだ。花道がホッとして肩の力を抜いたとき、ふくらはぎに痛みを感じた。
「イテッ」
流川が花道の足を蹴ったのだ。それだけで花道は頬が熱くなり、なぜだか少し泣きそうになった。
「い、イテーな!なんで蹴るんだ、ルカワ!」
「…勝手に順番変えンな…どあほう」
今日の朝食当番は流川だった。花道は早起きしたことと、どこか罪滅ぼしの意味も込めて、勝手に準備していた。
「お…オメーが起きるのおせーからだ!オレは腹減った」
「…チッ」
それ以上言葉が続かなかったのか、流川はお皿を取りだした。
流川の起床時間はいつも通りだった。それでも花道の言いがかりには返してこなかった。花道は少し残念に思いながらも、お互いが何とか日常に戻ろうとしていることに気が付いた。きっと流川はなかったことにしたいのだろう。花道自身、気の迷いだと、自分に言い聞かせることにした。
けれど、流川の無表情の顔を見ているだけで、体がじわじわ熱くなってくる。ギャップがすごいせいなのか、初めて触れた後は誰でもこうなのだろうか。花道は自分の気持ちと体を持て余し、その日一日口数が少なかった。
それからしばらく、花道はお酒を飲まなかった。流川が飲みに出かけても、一緒に行かなかった。
「頭冷やそー」
自分でそう言って、自分の行動を振り返っていた。
とりあえず、もう流川には近づかないようにしよう。やはり本当に、別々に住むべきときなのかもしれない。単に仲が悪いだけのときは気楽だったのに、今の状況は落ち着かなかった。お互いが距離感を測りかねているような、居心地の悪さだった。花道が喧嘩を吹っかけないせいか、流川の言葉数も少ない。また、流川も忘れきることはできないのだろう。花道をカッとさせるような冷たい言葉すらなかった。
「あーおかしいおかしい」
こんな自分たちはおかしい。おかしな表現だけれど、落としどころが見あたらない。
流川がまた引っ越す、と言い出したとき、もう止めないでいればいい。そんなことを考えていた。花道が流川をベッドに連れ込んだ日から、10日ほど経っていた。ほんの少しずつ以前のようになってきたかな、と花道自身は思っていた。流川が飲みに出かけていて一人留守番することが当たり前に感じるようになってきた。心の中では、流川がまた誰かと出会っていないか気になった。けれど、それを邪魔してしまう自分もおかしいと思い、見ないで済む場所にいることにしたのだ。
「オレもいろいろ考えてンなー」
自分で自分を褒めてみる。
「お、始まった」
花道の好きな番組が始まり、ダイニングの椅子を真正面に移動する。一人は気楽で自由だ、と言葉にしながら、花道はリモコンをテーブルに置いた。
それからすぐに流川が帰宅して、無言のまま洗面所に入った。シャワーも浴びるんだろうな、といつもの姿を思い浮かべながら、花道はテレビに集中していた。
ときには辛く感じるアメリカでの生活の中でも、笑えると少し楽になる。花道がその番組を見るのは心から笑うためだった。ときどき一緒に見る流川はあまり表情を変えず、花道ほど興味はないらしい。
「そーいえば…あんまり笑ったとこ見たことねーな」
集中が切れると、花道は流川を思い浮かべた。
「イカンイカン」
花道は立ち上がって、歯ブラシを取りに洗面所に向かった。
洗面所のドアの前で、花道は右腕を壁に当てながら振り返っていた。立ち上がったけれど、短いCMが終わったからだ。そのまま姿勢でしばらく番組を見ながら、大声で笑った。
ふと視線を感じて首を真正面に戻すと、ドアを開けたまま固まった流川がいた。狭い通路の真ん中に立ち、片手を広げているのだ。まるで通せんぼをしているようだった。
「あ、わりぃ」
すぐに花道は謝った。けれど、体を動かすことはできなかった。
これまでにもこういうことはあった。花道が流川に絡むことは日常茶飯事だったから。流川はいつでも肩や体全体で花道にぶつかり、「どあほう」と言いながら押しのけていく。今日もそうするかな、と花道は待った。
短い時間だったけれど、いつもより動くまで長かった気がした。
流川がいつも通り「どあほう」と言ったのが、花道にも聞こえた。それがいつもより小さい声で、なんとなく違うことで責められている気がした。
流川が自分の額を花道の肩に当てたのを感じてすぐ、花道は両腕を背中に回した。