奇 跡
自分の方が早くこの関係に馴染んでしまった。流川はため息をついた。
あのとき、花道を傷つけたことがわかった。抱きたい相手しか、という発言は、それほどおかしいとは思わない。お互いにゲイではないと話しているのだ。けれど、言葉にはっきりする必要はなかったかもしれない。
「案外デリケートだからな」
花道は繊細だと流川は思う。普段は自信満々で、常に賑やかだし、暗い様子もない。それでも、流川よりもナイーブだと思う。空元気がわかるようになったからか。
フェラチオすることで何かを取り繕うような、そんな気分だった。一生することはないと思っていた行為に、そのときは躊躇いを感じなかった。花道の乱れ様に、そんなにも悦いものなのかと驚いた。自分の中の男の部分が揺れた気がした。お互いに刺激し合うといっても、やはり男の方が攻める側だと流川は思う。
始めてから毎日していたけれど、試合に悔しい負け方をしたとき、それが途切れた。どちらも何も言わなかったけれど、そんな気分ではないことが伝わる。誘われなくて良かったと考えることもなかった。それでも、1日経つとまた日常に戻る。花道が落ち込んでいるときも、しない空気が流川にはわかった。流川は花道ほど表面には出ないつもりだけれど、今日はしたくない、ということを、花道は読む。何も言わなくても伝わる関係は、とても気楽だった。
年末近くになった頃、花道が落ち込んでいた。監督に怒鳴られたからだ。怒られたという可愛いものではなく、クビになるのではないかと周囲が思うほどだった。流川の目から見て、花道がそれほど致命的なことをしたとは思えなかった。単に勝てないチームに対しての苛立ちを花道にぶつけただけだと思う。それでも、俯いて無口になった花道に対して、流川は何も言わなかった。
お互いに何かあっても慰めたことはない。励まし合うこともなかった。流川自身、一人で消化することに慣れていたせいもある。物や人に当たり散らしたり、趣味などで気を紛らわせるなど、人それぞれだろう。一緒に暮らしていても、花道がどうしているのか知らなかった。ただ、好きなテレビ番組のことも忘れたかのように部屋に閉じこもる。そのことだけは流川は気付いていた。
その日も花道はトイレ以外は部屋に閉じこもっていた。バスケットのビデオを観ていた流川は、観戦に参加しない花道を不思議とは思わなかった。これをアダルトビデオに替えても、今日の花道は出てこないだろう。そもそも、花道は流川よりその手のビデオが苦手らしい。
じっと画面を見ていると、花道が出てくる気配がした。いつもと変わらない足音だけれど、俯いたままだ。朝には元気になっていると思うけれど、と思いながら、流川はため息をついて立ち上がった。
花道が洗面所を出たとき、流川の長い足に遮られた。狭く短い廊下に立ち、足を向かい側の壁に伸ばしていた。両腕を組みながら、流川は花道をじっと見ていた。
「通せんぼ…」
花道が小さく呟いた。これまで花道が流川に仕掛けたことはあっても、流川がそんなことをするのは初めてだった。
立ちつくす花道を見て、そういえば自分もこんな風に驚いて動揺したことがあった、と思い出す。仕掛けは上々だと思う。けれど、こうしている自分の姿を客観的に省みて、少し恥ずかしくなった。
花道の表情が奇妙な形に崩れたとき、流川は少し驚いた。
本当に泣きそうなとき、花道はこんな顔をするのか。
それからすぐにギュッと目を閉じた花道が、急に勢い良く動き出した。
少し屈んで両腕を伸ばす花道を、流川はじっと見ていた。久しぶりにお姫様抱っこをするつもりだとわかる。けれどその夜は、流川は黙ったままじっとしていた。少しでも負担にならないように花道にしがみついた。
花道にとって、流川は抱き上げるには重い。それでも、そうしたいとなぜか何度も思った。
抱き上げて文句を言われなかったのはこれが初めてで、これが流川なりの励ましなのかと気付いた。それとも慰められているのだろうか。
花道は今でも自分の気分の調整が上手くなかった。悔しくて眠れないときもあるし、腹が立って胃が痛くなることもしょっちゅうだった。流川がどんなときでも変わらなく見えるので、余計悔しかった。
最近は、花道が流川のそばに立つか、流川が勝手に花道の部屋に入るか、が合図だった。久しぶりに抱き上げて、花道は少し笑いそうになり、気分が浮上した。
ベッドに寝かされて、流川は目を開けた。これまで見ていた花道なら、しないと思うけれど。実はこんな夜は一人でする、ということだったのだろうか。流川は花道が自分の胸に張り付くまで、そんなことを考えていた。
強引に腕枕をされ、右腕を花道の肩に乗せるのがだるくなって下ろしたら、また花道が腕を引っ張り上げる。頬を流川の胸に当て、両手両脚で流川に巻き付いている。絶対に逃がすまい、とされているようで、流川はおかしくなった。思った通り、花道にそれ以上の動きはなかった。何もせずにこうしてベッドで折り重なっていることが少し落ち着かない。それでも、これだけで花道が浮上するなら、協力してやってもいいと流川は思った。
ずっと以前、まだキスさえしていなかった頃、落ち込んだときのことについて話し合ったことがあった。花道が落ち込んでも流川は知らん顔だったし、流川のイライラが花道に伝わったときも気付かないフリをしていた。
「せっかく一緒に住んでンのに…」
花道の言い分が流川には理解できなかった。家族でも恋人でもなく、ただのルームメイトなのだ。食事などは経済的、栄養学的に考えて一緒にするようになっただけで、友だちですらないのに。
「テメーは慰められなきゃ立ち直れねーのか?」
「う……そんなことはねーけどよ…」
「そーいうのは付き合う相手に言え」
「……いねーからしょーがねーだろ」
ふて腐れた花道の表情に、流川は少し笑った。そこまで馬鹿正直に頷かれたら、こちらの方が悪者な気がした。
「例えばどーいうのがいいんだ」
流川が質問することが珍しいのか、何かを尋ねると花道は勢い良く語り出す。流川はいつも話し半分に聞いていた。花道の本音がまだよくわからなかったせいもある。何事も大げさに表現する男だということはわかっていたから。
「先輩はハリセンだった」
「ああアヤコさんな」
その現場を花道は見ていなかったけれど、話は聞いていた。
「ハルコさんは……優しかった」
「…付き合ってなかったのか?」
流川には二人が仲良しの印象があった。花道が小声で否定したので、流川は続けた。
「もしかしてフラれたのか」
「…ふ、フラれてねーけど……フラれた…のかな」
「…わけわかんねー」
晴子は流川がアメリカへ旅立っても変わらなかった。そして花道は、そんな晴子をただ見ていた。
花道が真面目な顔で目を閉じたので、流川もそれ以上何も言わなかった。
「…頑張って、とか、アナタなら大丈夫ヨ、とか……そーいうんじゃなくて…」
いつもより低い声で花道が呟いた。
「失敗のこととかじゃなくて、こう…バクゼンと…明日はきっと良いことあるわ、とか…頭撫でてくれるとか…」
先ほどまでもっといろいろ大声で話していたのに、それが本当の気持ちだったのか。
流川は自分の胸に乗せられた花道の頭をじっと見つめた。リーゼントではない赤い髪がふわふわしている。この体勢になってからしばらくは、花道のうなり声がお腹に響いていた。今は静かになって体の力が抜けている。
「…やっと寝たか…」
花道と一緒に眠らないように決めていた流川は、温かい心地よさに抵抗するのに必死だった。だから、花道との会話を一生懸命思い出し、脳を起こしていた。
流川は小さくため息をついて、花道の肩に置いていた右手を動かした。目の前のふわふわに指を沈めて、見えない皮膚を軽く撫でた。
「明日はいいことあるわ……か…」
最後に思い出した言葉だということを強調して、流川は慌てて起きあがった。花道の頬が流川の体を滑り、ベッドに落ちるのを見てから、流川は自分の体を重い足から引き抜いた。
流川が部屋から出ていく音を聞いて、花道はモゾリと体を動かした。頬が熱くなって、胸がキュウと鳴った。まさか流川が自分のこうして欲しいという話を覚えていると思わなくて、かなり動揺した。
花道は力強く目を閉じて、明日からも頑張ろうと、少し前向きになれた。