奇 跡
その後、花道はクビになることはなく、無事に年越しイベントに参加することができた。二人とも積極的にお酒を飲みたいわけではない。けれど、誘われたら可能な限り行くことにしている。これもコミュニケーションの一つだと思っていた。
大晦日から、チームメイトの友人の家でのホームパーティだった。家でのパーティも始めてではない。年越しに限らず、いつでもテンションが高い。流川の知る限り、日本の年越しは静かだと思う。家族でテレビを観ながらか、神社やお寺に行くのではなかっただろうか。それとも日本でもこんなパーティも開催されていたのだろうか。今ひとつ乗り切れないものの、楽しむ努力をしていた。
日付が変わる前に、誰もがそれぞれお相手を見つけているように思う。流川はソファの真ん中に座らされたまま周囲を観察した。もしかしたら、すでに消えているカップルもいるかもしれない。自分のそばで座っているチームメイト達は、あぶれたのか、それともこれから起こるイベントが終わるのを待っているのか。
ふと顔を上げると、距離を取ったところで花道がこちらを見ていた。歩きながら、ほんの少し顎を上げた気がする。目線だけで花道を追って、流川は小さくため息をついた。
『トイレ…』
流川の声は周囲には聞こえなかったようだが、立ち上がる流川を引き留める腕が伸びた。すでにカウントダウンは始まっていて、あと30秒というところだろうか。
さりげない様子で奥のバスルームに向かった。後ろから数字の大合唱が聞こえる。廊下で振り返っても、誰もこちらを見ていないようだった。
バスルームのドアは少し開いていて、花道の片目がこちらを見ていた。流川を確認してから招き入れる。ずっと無言のままだった。
「なんだ?」
ドアの前に立った流川は両腕を胸の前で組んだ。
花道は何も言わないまま流川の前に立った。ドアの向こうから絶叫のような声が聞こえ、日付が変わったことがわかった。いつもならあの中にいて、頬にキスをされたり、ハグし合ったりした。今年は花道と二人きりでバスルームの中だった。想像もしなかった年越しに、流川は少し笑った。
花道が流川の腰をグッと引き寄せて首を傾ける。流川は腕を組んだまま素直に目を閉じた。触れるだけではなかったけれど、流川はただじっとして花道に応えた。薄目を開けて花道が離れていくのを確認した。
「こんなとこで…テメーは…」
それほど怒りは感じなかった。家以外でキスをするのはこれが初めてだったと、ずいぶん後になって気が付いた。
年越しのキスなのだろうか。昨年はまだそんな関係ではなかったから。
結局、花道は一言も話さないまま、流川を廊下へ促した。時間をずらすつもりなのか、花道はバスルームに残っていた。
流川が広いリビングに戻ったとき、乗り遅れた感じがした。もっとも、同じような声は出せないので、かえって有り難いと思ったくらいだ。
ハッピーニューイヤーという声と、ハッピーバースディという単語が飛び交う。腕を引かれ、用意されていたケーキの前に連れられる。
「やっぱり今年もか…」
苦笑とため息とない交ぜの気持ちで、流川はため息をついた。
その後、ケーキを食べているのになぜかケーキを顔に押しつけられたり、ビールを頭からかけられたりする。覚悟してきたとはいえ、やはりため息が出る。こんなことが楽しいのだろうか、と不思議に思うけれど、いじめられているわけではないとわかる。有り難いような困るような気分で、流川は比較的汚れても気にならない服装で参加することにしていた。
誰かの着替えを渡され、バスルームに案内される。もう何度か使用しているし、つい先ほど花道とキスをしたところだった。
「うちの何倍あるかな」
明るくて広い。トイレと湯船がある。まるでホテルのようだと思う。自分たちが住んでいるところは、二人が立つといっぱいになる、というくらいだ。それでも日本のユニットバスよりはスペースはある。
髪の毛や胸などのクリームを見て、情けなく感じる。毎年のこととはいえ、おかしな気持ちになる。まだみんなが若いからか。誰かの誕生日のたびに、こんなことがあった。
シャワーを浴びて、バスタオルを下半身に巻き付ける。ドライヤーで髪を乾かしながら、ふと花道は何をしているだろうと思った。花道ならみんなと同じように絶叫できるかもしれない。昨年も一緒だったように思うけれど、あまり思い出せなかった。
ドライヤーを片づけているときにノックの音がした。他にもバスルームはあるけれど、流川がいることを知らない誰かが来たのだろうか。それとも花道だろうか、と流川は想像した。
カギを開けると、知らない黒人の女性がいた。何人もの人が名前を紹介していたけれど、流川は一人も覚えていなかった。
流川が問いかける前に、スルリとバスルームに入り、後ろ手にカギを閉めた。そのことに、流川は思わず後ずさった。
この状況はまずいのではないだろうか。何かあっても証言者はいない。訴えられたら流川が負ける。そうなると、ここでバスケットが出来なくなるかも知れない。流川にはそんな発想しかなかった。
お尻が洗面台にぶつかって、流川は追いつめられている気がした。そうしている間にも、相手は自己紹介をしながら近づいてくる。流川に興味がある、と言われても、まだ素直に喜べなかった。
流川の隣に立ち、同じように洗面台にもたれた。少し話がしたい、と言われて、流川も肩の力が抜けた。間違っても手が触れないように、両腕を組んだ。
お互いの年齢を、お互いが驚いた。今度一緒にバスケットをしようと言われて、流川は驚いた。少しずつ冷静に話せるようになって、改めて顔をじっと見つめた。
美人だとか、豊満だとか、そういう感じではない。明るそうで、健康的だ。話していて落ち着くので、居心地は悪くないと思う。だからといって、いきなりセックスはできそうにない。相手に期待されても困るので、流川はずっと両腕を動かさなかった。
『私に興味ない?』
『…そんなことはない』
流川は曖昧な返事をした。肌の色のことも聞かれ、流川が気にしないことを伝える。アメリカにいたら、自分も黄色い人種と呼ばれるのだ。
気が付くとジリジリと距離をつめられ、流川は横の方へずれていく。洗面所の端が来て、バランスを崩して便座の上に座り込んだ。逃げる自分が情けない、と思う。けれど、うまくこの状況を終えることができなかった。
その膝の上に跨るように座られて、流川の背筋が伸びた。流川は未だにバスタオル一枚で、女性の柔らかい太もももはっきりと感じる。両腕をゆっくり肩に伸ばされて、流川は首だけで仰け反った。
『今日、誕生日なんでしょう? おめでとう』
そう言われながら、触れるだけのキスをされる。はっきりと断らなければ、と思うけれど、この状況に興奮している流川は動けなかった。勃起していることを感じ、ああノーマルな男だ、と自分で思った。
どんどんと深いキスになっていって、これはますますまずい、と思う。かろうじて両腕は便座を掴んだままだった。けれど、キスを受け入れているのに腰に手を回さないのも失礼なのか、と考えた。
そのとき、またバスルームのノックの音が聞こえた。激しい音でしつこく鳴らされて、二人ともドアの方を向いた。
たぶん今度こそ花道だ、と流川はホッとした。
助けられた、と思うのは不本意だけれど、盛り上がった相手の勢いを止めるのには十分だったようで、もうキスに戻ることはできなかった。
花道の声がはっきりと聞こえて、流川はため息をついた。
『ごめんやっぱりデキない』
『……ウワサは本当だったの?』
『…ウワサ?』
『カエデはゲイで、花道とデキてるって…』
流川は思わず笑った。こう何度も言われると、どこまで噂が広がっているのか不思議に思う。おそらくこの子を狙った誰かの入れ知恵なのだろう。
『オレはホモじゃねー……けど、アイツの声を聞いたら萎えた』
本当は、花道の声で冷静になれた。状況に流されそうになった自分が怖かった。結構性的なことに臆病な自分を鼻で嗤った。
相手の女性も吹き出すように笑ったので、流川もやっと体の力を抜いた。
立ち上がって、流川に手を差し出した。その手を流川は素直に取った。
ドアまで軽く背中を支えながら歩き、促した。
『ねぇ…お願いがあるんだけど…』
それっぽくして欲しい、という言葉の意味がすぐにはわからなかった。流川はこれ以上恥をかかせてはいけないと気が付いた。誰も見ていないかもしれないけれど、誰かが見ているかもしれないのだ。
ドアを開けると、花道がいた。流川が女性の肩を抱いて現れたので、すぐに道を譲った。
そのまま廊下に出て、流川は前屈みになり頬にキスをした。向こうから見ると唇にしているように見えるところに。
女性に両腕で首にぶらさがれ、誕生日の初めてのキスが自分だ、と宣言された。流川はそれには何も言わず、笑顔で去っていく彼女を見送った。
目線を戻すと、花道が壁に両手をついている。下半身にバスタオルを巻いただけの自分をどう思っているのか、とてもきつい視線だ。
花道が嫉妬している。
そう思うと流川は面白く感じて、無言のままバスルームに戻った。