奇 跡
「ケンカばっかじゃねーか…」
シャワーの下で流川は呟いた。
目が覚めたとき、自分の居場所がわからなくて驚いた。ホテルの部屋で、花道に連れられてきたことを思い出す。部屋の中はシーンとしていて、人の気配はない。時計を見ると、23時だった。
二人の生活を思い出してみた。小競り合いが多かった気がするのだ。花道は質問にはそうでもないと答えていた気がするけれど。
深い関係になってからも、手も足も出ていた。
部屋についている浴衣を着て、その短さをおかしく思う。ベッドに座ってテレビを着けると、聞いていなくても理解できる日本語が流れてくる。ああ日本にいるな、と感じた。サイドテーブルに置かれたペットボトルの水を取り、流川は一口飲んだ。
「ぬるい…」
出しっぱなしなのだから仕方ない。日本なのだからお茶があるはずだと思い出し、熱い煎茶を入れた。
「…ダセ…」
今の自分はとてつもなく情けない姿なのではないだろうか。何かを期待して部屋を取ってみたものの、結局一人きりだ。夜中に実家に帰るよりは一人でゆっくり眠りたかったのだ、と自分に言い聞かせてみる。それもまた自分に追い打ちをかけた。
「キスなんかするな…どあほう…」
部屋の電気を消しながら、流川は呟いた。
今度会ったら、自分からキスしてみよう。本当にそれが出来るかわからないけれど、そんな目標を立てた。花道はその頃、三次会の中にいた。二次会からそのままの流れだからか、人数もまだ多かった。未だに同じ顔ぶれで話しているのは、誰も積極的に声をかけることができなかったからだろう。またちょっとした同窓会気分でもあり、話題は尽きなかった。
花道は上の空だった。抜け出すタイミングがわからず、それでも今すぐ流川のところへ走っていきたい気持ちが抑えられなかった。
三次会が終わる気配を見せた頃、花道は真っ先に立ち上がった。
「桜木? このあとカラオケ行くだろ?」
「あ……いや……そのオレ…」
何の言い訳も思いつかなかった。もっと疲れているそぶりでも見せていれば良かっただろうか。
「え! まさか桜木が誰かと約束した……とか?!」
「ご……ごめんミッチー…みんな」
それだけ言って、元チームメイトたちから離れた。
カラオケへ向かう集団は駅の方へ流れていった。花道は駅とは逆にあるホテルの方へ勢い良く走った。
お酒のせいなのか、走ったせいなのか、胸の鼓動が速い。花道はホテルを見上げて、一層緊張した。
堂々とした態度でロビーを抜けたけれど、エレベーターが部屋のある階に止まっただけでドキッとした。部屋の前でしばらく気配をうかがう。けれど、あまり長く廊下にいると怪しまれるかもしれない。
「えーい」
小さなかけ声を出しながら、花道はカードキーを差し込んだ。流川以外の誰かがいるのではないかという不安が、花道を躊躇わせていたのだ。
ドアを開けると、静かな寝息が聞こえてきた。パタンというドアの音で起こしてしまわないかと心配になり、ゆっくりとドアを閉めた。短い廊下をソロソロと歩くと、薄暗い中に見慣れた黒髪が見えた。
流川は一人で寝ているようだ。
花道はホッとしたけれど、もしかして誰かが帰ったあとなのかもしれないと深読みした。けれど、流川がいない方のシーツは綺麗なままだ。ゆっくり近づいても流川は何の反応もなかった。
「あれ……浴衣着てる…」
さっぱりした感じを見ると、シャワーを浴びたのだなとわかる。もしかして、シャワー室でだけ誰かと、とまで考えたけれど、考えすぎかなと自分に言い聞かせた。
入り口の薄暗い明かりとフットライトしかないけれど、流川の顔はわかる。ペットボトルの水は減っているが、お茶を飲んだ形跡もあった。
「湯飲みは一つ!」
花道は流川のそばに座り込んだ。
ずっと流川に会いたかった。自分から移籍したとはいえ、想像以上に苦しい世界で、そこに流川がいればもっと自分は頑張れるのにと思った。それは甘えなのかもしれないとも思う。
右手で流川の頬を軽く撫でる。はじめは何の反応もなかった流川が、少し眉を寄せて瞬きをした。
ゆっくりと睫毛が上がっていく様子を、花道は至近距離で見つめていた。
「…桜木?」
「……うん…」
流川に呼ばれて、また心臓が音を立てた。
布団の中にあった流川の右腕がゆっくりと出てきて、花道の首筋に置かれた。優しい力で引き寄せられて、花道は流川とキスをした。どちらがしたのか、されたのか、わからなかった。
触れるだけだったキスを離して、また近づける。少し深いキスになったとき、花道は流川の両頬を手のひらで包んだ。
流川が両腕を花道の首に回したとき、花道は腰をベッドに上げた。唇を離したまま流川に覆い被さると、表情は見えなくなった。けれど、穏やかな空気を感じる。流川は自分を拒否してはいない。そう感じると胸が熱くなった。
「桜木…」
「……ん?」
額に額を合わせるようなところで、流川が少し笑っている気配を感じた。
「ゴムとアレ…買ってこい」
「………はぁ?」
流川の腕が花道から滑り落ちて、流川がまた眠ったことに気が付いた。
「え……寝ぼけてた……のか?」
けれど、花道の名前を呼んだのだから、相手が誰かははっきりとわかっているはずだ。
せっかくの甘いムードが切れて残念だけれど、実際それらがないと先へ進めなかった。
しばらく逡巡したあと、花道は立ち上がった。
「しょ、しょーがねーなーーもう……寝るなよルカワ」
一応そう言っておこうと思う。もうすでに眠っている気もするけれど。
花道はまたカードキーを握りしめ、部屋を後にした。