奇 跡
流川の家の玄関で家族にまた挨拶をされたあと、花道は外の強い日差しにホッとした。
「あちぃ…」
自転車のスタンドを外しながら、花道は思わず呟いた。
両腕を組みながら門扉の前に立っていた流川も眩しそうに目を細めている。
「もー中入れよ」
花道が走り出そうとして振り返ったとき、もう流川はそこにいなかった。
自分で入れとは言ったものの、もう少し見送ってくれても良いのに、と同時に思っていた。
流川の部屋で、明日の帰りの約束をした。もしも変更があったときのために、と初めて電話番号を書いてもらった。アメリカにいた頃はさほど珍しいとも思わなかったけれど、今は新鮮な気持ちだった。
花道は午後から桜木軍団と遊ぶ予定だった。流川は親戚やらバスケット関係者に挨拶に行くらしい。果たして自分は良かったのだろうか、と今日になって思ったけれど、すぐに面倒だと思ってしまう。安西にはもう会っているので、それ以外は別にいいかと判断した。流川のように全日本に喚ばれていないので、仕方がないと思うことにした。
その日の夜、花道はまた自転車を走らせていた。明日のことで流川に変更の電話をしようと思ったけれど、家に電話するには遅すぎる。知らせなくてもあまり問題はない気がするけれど、花道は一目でも会えたらいいなと期待しながら、流川の家に向かった。
「自転車のキョリか…」
少し走れば会えるところにいるのだ。離れているのが惜しいと心から思う。けれど、まだどこか違和感を感じるのは、日本にいるせいなのだろうか。高校生だった自分たちからは、今の二人は想像できなかった。日本にいると、それが夢のようにも思える。昨夜の甘い時間がなければ、信じられなかった。
流川の家が視界に入ったとき、花道の胸はドキドキし始めた。好きな人の家、というだけで、どうして興奮してしまうのだろう。こんな時間にフラリと出てくるとは思えない。それでもそばにいると思うだけで幸せを感じるのだ。
流川の部屋は電気がついている。花道はしばらくじっと見上げていたけれど、それから意を決して小さな石を窓に向かって投げた。
「案外むずかしーなー…」
強すぎても弱すぎてもダメで、コントロールは良くても距離が足りなかったりする。あんまり長く家の前でウロウロしていると通報されてしまうかもしれない。花道が、次がラストと決めたとき、窓が小さく開いた。
「ルカワ…」
シルエットしか見えないけれど、確かに流川だった。じっとこちらを見ているのがわかる。その後すぐに窓を閉めて、部屋の電気が消えた。
「あ…もしかして…出てくる…かな…」
そう思うと、花道はまた気を付けの姿勢になった。
それからすぐに、Tシャツにショートパンツの流川が玄関のドアを開けた。
「…桜木?」
「…うん」
赤い髪を掻き乱しながら、花道は頼りない返事をした。何も言わなかったけれど、流川は一度家に入り、鍵を持って出てきたようだ。
門扉を閉めて、自転車の荷台に座る。花道はまだ立ったまま、流川をじっと見つめていた。
散歩にいこうとか、明日の予定についてとか、花道は言おうと予定していたことが何一つ出てこなかった。けれど、流川は黙ったまま花道に付いてこようとしている。花道は心の中で「行くぞ」とかけ声をかけて、自転車を滑らせた。
花道は海岸を目指した。湘北バスケ部がよく走っていた砂浜は、二人にとっても思い出深い。そして、住宅街を歩くよりも、人目に付きにくいと思った。
しばらく砂浜を歩いていたけれど、流川が座ったので、花道もそれに倣った。
じっと海を見つめていると、静かで心地よい空間だと感じる。ずっとこのままいられたらいいな、と花道は思う。日本にいること自体、今の自分たちにはアウェイな気がしていた。けれど、懐かしいと思うのは、ここが故郷だからだと強く感じた。
「あのなルカワ…明日のことなんだけど…」
花道は流川の方を見ないまま、静かに説明した。二人で電車で帰るつもりだったけれど、桜木軍団が車で送っていきたいと申し出があったのだ。
「オメーがイヤじゃなければ…車でいかねーか?」
流川はすぐに返事はしなかった。自分の親も同じような提案をしてきた。それを断っている。それなのに、他人の車に乗ってよいものか。また、桜木軍団とはそれほど親しくもない。気さくな男たちだとは思うけれど、道中気まずいのではないだろうか。けれど、桜木軍団は自分たちの恩人なのだ。湘北バスケ部を助けてくれたことを流川は忘れてはいない。
「…わかった」
流川の返答に、花道は嬉しくなった。
それからまたしばらく沈黙が続き、二人ともがこんなにのんびりする時間は久しぶりだと感じていた。
流川は横目で花道を見て、薄暗い中でその表情を確かめようとした。そのまま上体を倒し、ゆっくりと花道にもたれていった。
「えっ!」
花道の大声が近くで聞こえても、流川は体を起こさなかった。花道の胸あたりに頭が乗る。そのままズルズルと膝まで落ちそうだったので、体を元に戻した。
花道がこちらを見ている。今のは何だったんだろう、という顔をしていることが想像できた。
それから何分か待ってみても、流川はまた動かない。花道はゴクリと唾を飲み込んだ。
「あの…ルカワ…チューして」
こんなお願いはしたことがなかった。けれど、先ほどの流川が自分への甘え行為なのだとしたら、自分も同じように甘えてみようと思った。
「…はぁ?」
流川の呆れた声が聞こえて、花道は唇を尖らせた。
ため息をついた流川が花道の方を向いた。ゆっくりと近づいてくる顔はあまり見えないけれど、例のあの表情をしているに違いない。そう想像するだけで、花道はドキマギした。
静かに触れるだけのキスをしてから、首の角度を深くして包み込むようなキスをされた。花道はギュッと目を閉じて、その感触を味わった。
「チンコたった」
せっかくの甘い空気が、流川の一声でぶち壊された。このセリフもよく使っていた。思えば、少しでもムードが盛り上がると、男同士のドライな関係に戻そうとしている気がする。
「ま、またオメーはそんな…ムードねーなー…もー」
「……ムードなんかいらねー」
小さく流川が笑いながら、またキスをした。花道は両手を後ろ手についたまま、じっと流川の動きを見ていた。こんな外で、何度もしてくれると思わなかった。
どれくらいそうして座っていたのかわからないけれど、似たようなタイミングで立ち上がった。花道が自転車を押しながらゆっくりと砂浜を歩き始めると、流川も隣に並んだ。砂に足を取られて、ときどき肩がぶつかった。
両手で自転車のハンドルを握っていた花道の肘あたりに、流川の指が静かに絡められた。花道は声が出そうな程驚いて、すぐに離れていった手のひらを残念に思った。偶然に重なるところではない。流川が軽く腕を組んだのだと思うと、花道の頬は熱くなった。
花道は左手で流川の右手を掴んだ。自転車がバランスを崩し、慌てて右手で支える。流川の手のひらは逃げなかった。歩道に出るまでの短い時間だったけれど、手を繋いで歩いた。それだけで花道の胸は温まった。
また二人乗りをして流川の家まで戻る。その間も一言も話さなかった。無言のまま流川は門扉の中に入り、花道の方に振り返った。
「じゃ…じゃあ…また…明日…」
花道は辿々しく言った。こういう挨拶を、流川とほとんどしたことがなかった。
流川が黙ったまま頷いたのが見えた。もう一度キスしたいなと思うけれど、その勇気は出なかった。
自転車に乗り、すぐに流川に背中を向けた。今回は何も言わなかったけれど、きっとまたすぐ家に入るに違いない。絶対いるはずはない。それを確かめるだけだ、と言い聞かせて、花道は勢い良く振り返った。
門扉の内側に、流川は立ったままこちらを見ていた。
自分の強い期待から幻覚を見ているのかと思ったけれど、瞬きしても流川は消えなかった。
花道はすぐに自転車を止めて、しばらくして右手を小さく挙げた。よく見ると、流川は門扉に両手を乗せている。ずいぶん可愛いしぐさだと見ほれていると、その右手が小さく動いた。花道と同じような動きをして、それが流川の挨拶なのだと理解した。
花道は瞼が熱くなってきて、慌てて自転車を走らせた。
あんな流川は知らない。
こんなにも、10歳代で憧れたたくさんのことを流川と叶えられるとは思わなかった。会えない時間や電話さえ出来ない夜に、ほんの少し顔を合わせる。手を繋ぎながら、人目を忍んでキスをして、別れがたい気分を味わいながらそれぞれの家に帰宅する。なんとなく、流川も同じように思っていた気がした。
高校時代に流川に恋していたら、こんなことが出来ただろうか。
花道は首を振りながら、今の自分たちだからだと強く思った。
感動屋だと自分で思うけれど、流川に関したとき、本当に涙もろくなったと驚いた。涙が流れるのを止めずに、花道はペダルを強く漕いだ。
次回更新は、6月26日(金)です。たぶん…