無 題 

 

 
                              

 花道は早朝のランニングに出ながら、昨夜のことを振り返った。
 流川が帰ったあと、それまでのことが現実と思えず、お茶のついたこたつ布団や湯飲みを確かめ、自分の頭をぐるぐると撫で回した。流川が立ち去った直後なら、座っていたところに温もりが残っていたかもしれない。その考えに至ったとき、花道は大きく首を振った。
「いかん…」
 ギュッと目を閉じて、記憶が飛ぶように首を振り続けた。
 現実だろうが夢だろうが、もうどちらでもいいのだ。自分の誕生日はもうすぐ終わる。流川との不思議な時間も、もう二度と来ないはずなのだから。
「なんかヘンなこと言っちまったけど……まぁすぐ忘れるだろ」
 わざと大きな声を出してみた。

 その日、流川を確認した瞬間だけ気まずく感じた。けれど、そういう感情を隠しながら日常に戻ることはできた。流川の方もこれまでと全く変わらないように見えた。
「やっぱり……ユメ?」
 そう思うくらい、何も変わらない。
 昨日の自分の部屋にいた流川と、コートに立つ流川は、実は別人なのかもしれない。そんな思いから、花道は何度も流川を目で追っていた。
 居残りの練習も、昨日と同じだった。流川は花道の方を見ないし、花道も昨日のようにチラチラと流川を見てしまう。それでも二人に会話はなかった。
 昨日のように突然流川が話しかけてこないだろうか。
 花道は心のどこかで期待していた。けれど、流川は花道の視線を無視するように片づけを始め、静かに体育館を出ていった。
「な…なんで…オレってバカ」
 なぜ期待なぞしてしまったのだろう。昨日だけのことだと自分でもわかっていたのに。
 想像以上にがっくり来た自分にも驚いた。
 流川のことを意識するのはもう止めようと、花道はしばらく自主練に集中した。

 花道が廊下に出たとき、部室の明かりがついていることに気が付いた。
「あのヤロウ…消し忘れたンか」
 勢い良くドアを開けると、流川が椅子に座っていた。花道に気付き、しっかりと目線を合わせる。持っていたバスケ雑誌をゆっくりと閉じた。
「ルカワ?」
 入り口に経ったまま、花道は流川を見下ろした。
 流川は何も言わなかった。
 沈黙が流れる中、花道は思い出したように急いで着替えた。いつもと違う流川に動揺していた。
 着替え終わる頃、ようやく流川が口を開いた。
「桜木」
「は…ハイ!」
 花道はロッカーに向かって背筋を伸ばした。ビクビクしている自分を認めたくなくて、花道はできるだけ強面で振り返った。
「ちょっと時間あるか」
「あ…ああ…?」
 花道の曖昧な返事を気にせず、流川は黙って歩き始めた。
 部室で話をしようということではないのだな、と花道は流川の背中をじっと見つめた。
 ふわふわした気持ちで花道は流川の動きを見ていた。おそらくいつも通りに自転車を出し、校門を出る。何の不思議もない動きだろうけれど、花道はたぶん初めて見る。これまで、コート上の流川しか意識したことがなかった。流川の家はどの辺なのだろう。

 前を歩く流川は何も説明しない。花道も、初めて通る道へ出ても、何も聞かないでいた。
 しばらくしてコンビニが見え、流川が待てと合図をした。実際に言葉にされたわけでもないのに、花道にはわかった。
「え…エラそうに…」
 声がかすれていることに自分で驚いた。
 コンビニの駐車場から少しずれて、なんとなく暗がりの方へ向かった。いつの間にか流川の自転車を受け取っていて、自分に自信がなくなってきた。
「ナニ買ってんだ…?」
 流川がレジにいる。見えないけれどお財布を出しているのだろう。花道は心の中で実況中継をし始めた。
「キツネがコンビニを出ました。こちらへまっすぐ歩いてきます。手にナニか…持ってます」
 ここまで話している間に、流川が目の前に立った。
 まっすぐに視線を合わせてくる流川に、花道も精一杯負けじと睨み返した。
「これ」
 そういいながら、流川は花道に手に持っていた袋を差し出した。
「…なにそれ」
「…食え」
 小さな紙に包まれた中身は、湯気を立てたコロッケだった。
 頭の上にたくさんのクエスチョンマークを浮かべながら、花道は受け取った。顔に近づけて匂いを嗅ぐと、お腹が勢いよくなった。
 一気に半分をかじり、その熱さに目を閉じた。
「…うめっ…」
 心からの声が素直に出た。
 ふと流川を見ると、じっとコロッケを見ている。花道にくれたけれど、自分の分があるわけではないらしい。
 きっとあげても食べないだろう。そう思いながら、花道はコロッケを差し出した。
 まるでそうされるのがわかっていたかのように、流川の動きは早かった。花道がかじったコロッケを、何のためらいも見せず流川は口にした。
「あひっ」
 いつもより高い声でそう言ったのが面白くて、花道は流川をじっと見つめた。数秒後に我に返って、慌てて残りを口に押し込んだ。包まれていた紙を丸めて、なぜだかポケットの中にしまった。いつもならそんなことはしないのに。
 ゴクンと飲み込んだあと、花道は流川の言葉を待った。なんとなく、このタイミングで話す気がしたから。
「昨日…ケーキ買ってねーから」
「……ケーキ?」
「…食いたいって言ったじゃねーか」
 流川が口の端で笑った。何の話だろうと首を傾げてから、すぐに思い出した。好きな人と過ごす誕生日について。
「練習のあとだし…
オレはケーキよりこっちがいい」
「…はぁ…」
 未だにハテナマークが消えない。いつも以上によくしゃべる流川にも戸惑った。
「桜木」
「は…はい」
「オレは、てめーのことはキライじゃない」
「……へっ?」
「けど…」
 流川が俯いて自分の髪を乱した。誰と付き合いたいとかはないけれど、恋愛対象は女性だ、というようなことを、流川が小声で言った。花道はなんと返事をしたら良いかわからず、ただ呆然とした。
 しばらくして、花道が帰る方向を示し、流川は自転車を取り戻し帰って行った。
 その後姿が消えても、花道は動くことができなかった。



 

2017. 4. 1 キリコ
  
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