無 題
次の日の朝、一睡もできなかった花道は怒ったような表情で登校していた。
「ムカつく…」
実際になぜか腹が立って仕方なかった。なぜイライラするのか考えだすと、あまりにも複雑すぎて混乱した。
この一ヶ月の自分が何をしていたのか不思議だったし、以前よりは自分に対して優しい流川もおかしい。キスされたことも変だ。そして何よりも、そのキスがあまりにもかっこよかったのだ。
「ハジメテっつったくせに」
頬に手をそっと当てられて、俯いたまま少し目を開けたとき、近づいてくる流川の顔が見えた。真剣な表情がどんどんアップになってきたのだ。たいして明るくもない体育館なのに、はっきりと見えた気がした。
「オレなら…オレならもっと…」
自分ならどうするだろう。そうなのだ。相手にされたキスという点にも腹が立つのだ。
男なら、自分からキスしたかった。
「ち、チガウチガウ!相手はアイツじゃねぇ」
歩いていても電車に乗っていても、花道は一人で暴れながら独り言を言っていた。
ぼんやりと授業を受けながら、例えば自分ならどうするだろうと考えた。
もっとロマンティックな場所で、何回目かのデートで、夜景の見える場所とか、ちょっといいレストランに行った後送っていくとか、いろいろ具体的なことはイメージできた。けれど、相手が可愛らしい女性で想像することができなかった。妄想よりも、昨日の現実の方が印象が深すぎた。
「アイツのせいで……」
触れられた瞬間を何度も思い出した。重ねられた手のひらは自分より冷たかった。お互いに乾燥した唇だったからか、さらりとした感触だった。それがギュッと押し付けられて、離れたあと、至近距離から見つめられた。ほんの少しだけ。
「大真面目にファーストキスとか言うなよ…」
花道は熱くなった頬を自分の腕で隠した。教室の一部が凍り付いたのを、花道は気が付かなかった。
放課後の部活の時間に、花道は真っ先に体育館に向かった。どれほど急いでもホームルームが遅くなれば多少前後するものだ。流川はまだ来ていなかった。
どんな顔をして体育館に入ってくるのか。
どんな表情で自分を見るだろうか。
花道は入口をチラチラ見ながら、心臓がドキドキしていることを自覚していた。
やっと見慣れた黒髪を見たけれど、流川はいたっていつも通りだった。少なくとも花道にはそう見えた。花道を見すぎることはないし、視界に入れないようにしてる様子でもない。
あまりにも普通の流川で、花道の肩が落ちた。
もっと緊張とか情緒とか、そういうのを持ってほしい、と思ったそばから、
「アイツにそんなのあるわけねーか」
悔しまぎれに花道は毒づいた。
今日一日、花道はどれほど独り言を言っていたのか、自分でわかっていなかった。
流川は、練習を終えて着替え始めたとき、小さな深呼吸をした。緊張などしていなかったけれど、どこか肩ひじ張っていたような、力が入っていたことに気が付いた。自分なりに、昨日のことを意識しているのか。花道に対して、いつも通りであらねば、という気持ちがあったのは確かだった。ようやくその視界から外れて、肩の力が抜けたのだ。
とはいっても、今日はここへ来る気がする。
流川がそう思ったそばから、賑やかな足音が聞こえた。
果たして花道はどういう行動に出るだろうか。流川はほんの少しだけ振り返って花道を見た。
次の瞬間、ガシッと音がしそうな程の勢いで肩を掴まれ、花道の方に向かされた。流川はすぐに殴られるバージョンかと身構えたけれど、花道は怒った表情ではない。ただ大きく眉を寄せて、必死というか一生懸命に見えた。
肩に指が食い込むのではないかと思うくらいに力を込められ、流川でも痛いくらいだった。そのまま花道が顔を近づけてくる。
「ああ…このパターンね…」
そんなことを心の中で思いながら、花道の顔を凝視した。
本当に真剣な表情で、その顔がだんだん中央に寄って来る。ギュッと目を閉じたまま、唇を大きく突き出してきた。
これが花道のキスなのだろうか。
笑ってはいけないと思うけれど、見たこともない表情に、流川はこらえきれずに吹き出した。
花道はハッとしてすぐに肩から手をどけた。つい今まで赤かった頬がもう元に戻っている。少し困った表情になり、なんとなく泣き出しそうにも見えた。
いろいろなことを瞬時に感じて、深く考えずに流川は花道の手を握りしめた。離れていく両手の右手だけ。
自分でも驚いたけれど、花道も大きく目を見開いている。無言のままギュッと握りしめると、花道も握り返してきた。
そのままゆっくりとした動きで、花道が空いている手で流川の手を握りしめた。
赤くもなっていない真剣な表情の花道が近づいてくる。流川の両手をそれぞれの手で力強く握り直す。
唇が触れてから、流川は目を閉じた。花道が離れていっても、流川はしばらくそのままでいた。
「これが…その…オレ様の…アレだ…えっと…」
いつもの花道らしい口調が出てきて、流川は眉を寄せた。さっきほんの少しかっこいいと思った気がするのに。
そんなセリフを吐きたいならちゃんと吐け。
「…だせー」
流川は自分の言葉を口の中で止めた。
花道は決め台詞に失敗したはずなのに、流川を指さしながら、部室を出て行った。
再び笑いが込み上げてきて、流川は少し俯いた。
実は胸が一瞬ギュッとなった。けれど、これだけは一生言ってはいけない気がした。
2017. 9. 1 キリコ
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また10月1日に無事にお会いできますように!