世界が終わるまで

えにし02


◇ ◇ ◇


 流川楓は京都に修学旅行に来ていた。小学校最後だとか、グループ行動とか、歴史すら興味のない彼にとって、この小旅行はすでに楽しくないものだった。初めて乗る新幹線も、他の男の子たちのようにワクワクしたりしない。11歳にして、すでにバスケット中心の生活を送っていたから。
 京都の町は、神奈川で生まれ育った彼には多少新鮮だった。あまり旅歩いたこともなく、同じ日本でもいろいろなところがあるのだ、それくらいは感じた。
 朝も早くから強行軍に移動の割に、子どもたちは元気だった。班ごとに目的地へ歩き、チェックポイントを回る。細くくねった道を上り下りし、何度も迷いそうになる。基盤のような目の道に入り込むと、本当にわかりにくい。しかし、歩きにくくても、日頃から運動している流川は疲れも見せなかった。
 薄暗い神社の横を肩を寄せ合った通り抜けたり、地図とコンパスを片手にリカの実験のようでもある。教室での授業よりはマシだと、流川は少しホッとした。
「ねぇ流川、どう思う?」
「…知らねー」
 任せきりだったのに、いきなり意見を求められるはずはない。流川は自分より背の高い女子が気にくわなかった。だから、返事は一層素っ気ない。
「さっきから、ただ付いてまわってるだけじゃない。ずるいわ」
 リーダーを取りたがるタイプだった。恩着せがましいのも好きではなかった。これまで放っておきながら、いきなり他人のせいにする。流川はムッとして今度は返事もしない。その後も流川に対して文句を言い続け、同調した他の女子からの攻撃にもうんざりした。同じグループの男子たちは、女子たちにも流川にも何も言えないでいた。
「バカくせー」
 小さなため息とともに吐かれた言葉に、誰もが固まった。そして、後先考えない子どもらしい行動に移ってしまった。
「もー勝手にすれば!」
 そして、流川が『金魚の糞』と呼ぶ全員を連れ、流川一人を置いてけぼりにしたのである。
「……まーいっか」
 流川は両手を広げて、自分一人の方が楽だと肩をすくめた。
 この年齢で、すでに単独行動を好み、連まないタイプだった。ただ、後で先生に怒られるというところまで想像できないのは、やはりまだ子どもな証拠だった。

 

 大通りで道を尋ねれば、という発想は正しかった。けれど、流川はいつまでも細い道を抜けることができない。すでに元いた場所もわからないため、方角もわからない。ポケットに入れていたはずの地図すら、見つけられないでいた。
「…誰か一人くらいいるはず」
 そう思うのに、誰にも出くわさない。垣根の高い家のドアベルを押してまで、とも思う。それでも流川は天高くある太陽を見上げて、まだのんきな気分だった。
 交差点の中央に立ち、右か左かまっすぐか、のインスピレーションを待つ。目を瞑って空を見上げると、眩しいのが楽しかった。
「あーバスケしてぇ」
 初夏の陽気が漂うけれど、まだまだ爽やかだ。雨が降っていないのならば、コートに向かいたい。やはり親の反対を押し切ってボールを持参すべきだった、と流川は真剣に後悔した。
 右、と決めた瞬間、左側から穏やかな風が流れてきた。いつもなら気づきもしない小さな突風に、流川は振り返った。
 道はすぐに湾曲していて、先の方まで見えない。けれど、静かな空気の中から、聞き慣れた音が聞こえた。最初は自分の願望かと思ったが、耳を澄ませても間違いはなかった。
「…コートがあるのか」
 それとも学校だろうか。バスケットボールが跳ねる音が、確かに聞こえる。
 流川は自分の第一の感を無視して、左の道へ引き寄せられるように進んだ。

 覆い茂る森のような神社にたどり着き、流川は多少躊躇った。けれどその奥から聞こえる音は、先ほどより大きくなっている。こんなところにコートがあるだろうか、と不思議に思ったが、ここは京都だからという回答で自分を納得させた。土と石の上を歩きながら、その音が体育館で響く音だと、流川は気付いていなかった。
 本当に神社や寺が覆い町だ。流川はゆっくり歩きながら、心の中で感想を述べる。古い建物や雰囲気は、子どもには不気味とも思える。その畏怖感を、さすがの流川も感じていた。けれど、バスケットへの興味が上回った。
 建物の裏側へ回ると、キュッキュッとなる靴の音まで聞こえる。何かの試合だろうか、と流川は足を速めた。見学くらいはさせてくれるだろうという流川の期待は、角を曲がった時点で裏切られた。
「…あれ…?」
 そこには小さな祠のようなものがあるだけで、あたりは急に静かになった。
 先ほどまで、空耳ではなく聞こえていたはずの音が、今は全くしない。それどころか、静かすぎて耳が痛いほどた。文学的表現ができない流川がそう思うくらい、不気味な静けさだった。
 さすがに深入りしすぎたか。流川は舌打ちをして、元来た道を戻ろうとした。
「…何が聞こえた? ぼうや」
 急に後ろから声をかけられて、流川の心臓は驚きで止まりそうだった。そして、振り返ってみた顔が、昔話に出てくるようなお婆だったため、冷や汗まで出そうだった。
「……誰だ」
 目が合うと、意外と優しそうに笑う。ホッホッと小さく声も出し、一度俯いた。
「おや…驚かせたかぇ。見ての通りの婆じゃのに」
「…どっから現れた…」
 俯いた顔を上げた後は、怖い鬼になっているかもしれない。流川は絵本やアニメを記憶している。優しい顔をして、自分を食べてしまうかもしれないのだ。足を引きずるように、一歩ずつ流川は後ずさった。
 けれど、お婆は顔を上げても穏やかな表情だった。
「…お前さんは何を聞いてここに来た?」
「……何って…バスケット…」
 そういえばそうだった。バスケットをしているはずのここに、なぜこんな年寄りだけが座っているのだろうか。少し安心したためか、流川は素直に答えた。そして、ようやく巡り会えた人間に、道を尋ねた。
「…ばーさん、ここどこ? 大きい道はどっちにある?」
 急に質問しだした少年に、お婆は笑って答えない。やはり人間じゃなくて妖怪の類なのだろうか。流川はこれまで信じていなかったものを、自分で認めていた。
 現実的な少年をそう思わせるくらい、京都の町は独特の雰囲気を持っていたのだ。

 いつの間にか、流川はお婆の隣に座っていた。話し込むではないにしろ、ずいぶんいろいろなことを自らしゃべる。無口な流川が、お婆の前では自然に口を開いた。
「ぼうやはバスケットとやらで身を立てるのかぃ」
「…ぼうやじゃねぇっつってんだろ、クソババア」
「おや、ずいぶん口が悪いものじゃ…ホッホッホッ」
 軒下にぶら下げた足を、二人で同じように前後させる。身長に伸び悩む流川よりも、お婆の体はもっと小柄だった。
「…バスケ、スゲー好きだ。もっと身長ほしい」
「まだまだこれからじゃろうて」
「そう思う? 俺、もっと上手くなりたい」
 子どもらしいたくさんの欲に、お婆は皺だらけの顔をますます崩した。
「…ぼうやはきっとすごくなる。さっきの音を聞いたなら…」
「……えっ?」
 お婆の声がだんだん小さくなり、流川はぼうやではないと訂正を入れるのも忘れて聞き直した。けれど、それ以上は何も言わない。
「それには巡り会ったけれど、肝心の相手には出会ってないようだね…」
「……ばーさん?」
「ぼうや、名は何といったかね?」
「さっきも言った。流川楓…紅葉の木のカエデだ」
「…いい名前をもらったね…すぐそこに有名な南禅寺があるよ。そこに縁があるのやもしれないねぇ」
「ナンゼンジ? エニシ? 何それ」
「…楓、手を貸してごらん」
 説明も不十分のまま、流川は素直にお婆に手を預けた。お婆のカサカサの手は、温かくも冷たくもない。強く握られたわけでもないのに、流川は手を引くこともできなかった。
「…ばーさん?」
「……梅が桜に変わる時代…」
「…はっ?」
 お婆は閉じていた瞼を見開いた。鬼のことをすっかり忘れていた流川だが、お婆の目はさきほどまでと違った光を宿していた。けれど、その声は低く優しかった。
「お前さんには強い縁で結ばれた相手がいるよ…」
「……何の話…?」
 にっこり微笑むお婆の顔は、流川にはただのしわくちゃの年寄りだった顔が、急に若い女性にも見えた。さっ気まで自分が考えていた言葉を思い出した。
「……やっぱり妖怪?」
「…ホンマに失礼なぼうやだねぇ…」
 お婆は婉然とした目つきを向けた。
「…あんた誰…?」
「ま、その縁を繋いだのはわしだからね」
 流川にしては気長に相手をしている。わけのわからない話を、大人しく聞いていた。そうしなければならない雰囲気だと、流川は肌で感じた。
「…楓、聞きたいかぃ」
 初めてその名を呼んで、お婆は流川に少しすり寄った。質問というよりは、すでに流川の返事なぞ聞くまでもないという問い方だった。
「……だから何を?」
「この世のすべては『縁』で結ばれておるのじゃ」
「…すべて?」
「輪廻転生しても、結ばれた縁によってどの世でも出会う相手」
「…リンネ? 人に会うってこと?」
「人間とは限らないけれど、わしが結ぶのは人と人」
「…ばーさんが結ぶのか? どうやって?」
 流川の脳に浮かんだのは、結ばれたヒモや運命の赤い糸のことだった。その考えが読めたかのように、お婆は小さく笑った。
「目に見えるものではないぞえ…」
「……じゃあ、どんな…」
「…見てくるかえ…? 前世を」
 流川は眉を寄せて顔を上げた。そして、瞬きをした瞼を再び開くことはできなかった。

 

◇ ◇ ◇


 


2003.2.23発行
2012.4.6UP
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