世界が終わるまで
えにし03
◇ ◇ ◇
目が覚めたとき、すぐ認識できたのは一生懸命歩く蟻の姿だった。小さな石ころにつまずく姿を瞼に浮かべたまま、流川は何度か瞬きした。何も思い出せないまま、とにかく自分が土の上に倒れていることだけはわかる。少しずつ体を確認したが、どこにも痛いところはない。耳を澄ましても、鳥の声以外聞こえない。流川は上半身だけ起こすことにした。
「…どこ…?」
首を捻れる限り回しても、高い木々が続くばかりだった。どう見ても、山の中だ。
自分は何をしていたのか。
「……修学旅行」
乾いた口の中からは、かすれた声しか出ない。自分が京都に来ていたことを思い出せても、ここがどこなのかわからない。迷子になったにしても、ずいぶんと山奥な気がする。
流川はしばらく考えたあと、とにかく歩くしかないと決めた。
「道がねー」
ずいぶん経って、さすがの流川も不安を覚え始めたとき、遠くで馬の嘶きが聞こえた。驚いてその方向に目を向けると、蹄の音が近づいてくるのがわかる。何だかよくわからないけれど、流川は本能的に逃げた。
恵まれた運動神経をもってしても、走り慣れない山道は大きな障害だった。雑草が師に絡み、浅い傷を作る。顔に枝がかかり、視界を遮られる。人の声、どう聞いても怒鳴り声が遠くに響き、子ども心にも危険だということがわかる。けれど、可能な限りの全力疾走も、いつまでも続かなかった。
「おられたぞおお!」
互いに連絡を取り合い、流川を囲むように追ってくる。わかっていても、もう逃げ道もなかった。
「あっ」
草で見えなかった大きな石に躓いて、流川は腕や足を切った。それよりも、木の根で頭を強く打ち、起きあがることができなくなった。近づく足音に、「来るな」と呟いたけれど、その声にならない叫びは誰にも聞こえなかった。流川が運ばれた先は、どこまでも薄暗い廊下が続く大きな屋敷だった。殺されそうになったと感じたのは間違いではない。本能的にそう構えるのに、思い通りに声が出ない。震える自分を認めたくなかったが、非現実的な今の現状では、ただ夢が覚めるのを待つばかりだった。
「…姫を無事に…」
垂れた御簾に跪き、流川の手を取って座るように無言で伝える。そして、中に向かって簡単な報告をした。
「まこと姫か?」
「…はっ…いささか見慣れるお召し物でおられますが…」
低い老婆の声に丁寧に答えた。流川をぞんざいに扱っているようで、そうでもないらしい。けれど、自分が連れてきておきながら、流川を見る目つきは疑わしげだった。
「……姫じゃねー」
「お戯れを、姫」
「…その声は…まさしく…惟当、ご苦労様でした」
見えない相手に一礼して、惟当と呼ばれた男は去っていく。置き去りにされた流川は、呆然とする間もなく、引きずられるように御簾の内に入れられた。
「なっ…なにす…」
流川の意識は、相手が誰かを確認する前に途切れた。意識が薄れゆく中で、女性が泣く声と謝罪の言葉だけが耳に残った。「…奥方様…これでよろしかったのでしょうか…」
先ほどの老婆は、この身分の高い女性の女房であり、幼い頃よりずっと遣えていた者だった。だから、女主人は遠慮なくその前で泣き、思うところを述べる。
「…わかりませぬ…ですが三条、悪いのはわたくし。それだけは確か…」
そうしてさめざめと涙する姿は、宮廷中を魅了した姫のままだった。
「許しておくれ…姫」摂関家の流れを汲む家柄のこの屋敷には、仲の良い夫婦から一人の娘が生まれていた。秋の、楓がその色を最も色濃くしたときだったため、のちに紅子(あきこ)と呼ばれるようになった。穏やかで教養もあり、弦楽に精通した父母の影響と、父母の想像以上に美しく育った娘は、今日の都の貴族たちが競って得ようとする相手だった。たいていは贈った歌を無視するしかないような低俗な輩が多く、姫は相手を慎重に選んだ。父母も警護に力を入れた。この時代としては珍しいことである。
そして、教養豊かな姫に劣らない会話と歌、そして器量を持った右大臣家の長男が、ついに姫を射止めることになった。かなり年上だったのだが、男は姫に熱中し、姫も脇目も触れず彼に尽くした。
「…殿、わたくし懐妊いたしました…」
誇らしいのと不安とを混ぜ合わせた、妊婦独特の表情を浮かべた紅子の手を取り、男は言った。
「紅子、私は女子しかいらぬ」
予想外の言葉に、紅子は戸惑った。
「…殿…?」
「私には娘がいない。帝に女御として差し出せる女子がほしい。そなたならば、身分も卑しくない」
まるでそのためだけに結婚したと、やっと白状したように聞こえた。そして、紅子の感じたことは、間違いではなかった。
それ以降、妊婦のもとに通うことを避け、男は新しい姫の元へ通い出す。ときおり文を寄こしたが、それはまるで健康状態を確認するだけのもので、そこに甘い言葉はなかった。
紅子姫は、つわりに苦しみ、毎日泣いて暮らした。男を心の中で罵ってみては、大事なお腹の子の父親だと自分に言い聞かせ、ただひたすら女子であるよう、神仏にお祈りsた。
「もし…男の子だったら…」
「姫、考えすぎてはお腹の子に障りまする」
青い顔をして考え込む姫を、三条は常に慰めた。ただでさえ精神的に不安定になりがちな妊婦に、憎きことをいうお殿様だと、三条は見えない相手を睨んだ。
そして、紅子姫は、自分よりも美しい男の子を産んだのである。「あのとおき…正直に申し上げてしまえば、わたくしは捨てられる…そのために、姫を…」
「…紅子姫さま…」
自分の息子を姫として夫に報告し、そのおかげかまた自分の元に通い出した男を、紅子姫は愛していた。けれど、嬉々として先々までの準備をする夫に、当然不安いっぱいだった。いつばれるのだろうか、ばれたらどうなるのか、そんなことを毎日考えるようになり、紅子姫の精神はますます破壊されていった。そもそも、ばれないはずはないのである。
そして、結局一人娘が11歳を迎える正月に、男は入内を妻に伝えた。
「さすがそなたと私の姫、これ以上の器量と教養を持つ娘は宮中にもいない。帝の覚えもきっとめでたいはず」
酒を片手に高笑いする殿に、周囲に女房達もそれぞれに喜んだ。帝に見初められ、その子を産めば、その家は出世間違いないのである。それどころか、父親はその外祖父として権力を振るうことも夢ではないのだ。男がはしゃぐのも、ムリはなかった。
その夜、紅子姫の精神が音を立てて崩れていくのを、三条はそばで見ていた。見守る以外、何もできなかった。
「…三条…姫をこれへ…」
「…もうおやすみでございますが…」
「よいから!」
三条の知る限り、紅子姫が声を荒げたことはない。それが、鬼のような顔をして三条を振り返った。
「…姫さま…」
「姫は…姫は…ゆ、誘拐されるのじゃ」
わけのわからない言葉を聞いて、三条は固まった。女房として生きてきて、初めての経験だった。
その後、一ヶ月も経たないうちに、姫が戻ってきたのである。
2003.2.23発行
2012.4.6UP
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