世界が終わるまで

えにし04


「ケガレって何だ…」
 その言葉だけを残し、流川を寺に連れてきた連中は立ち去った。白い着物を着せられて、何もない部屋の中央に座らされる。ここがどういうところなのかもわからないが、流川の部屋を訪ねるものもいない。それはそれで有り難い気もした。
「…ここ…どこ?」
 薄ぼんやりとしか思い出せないにしても、自分が『流川楓』で、京都に修学旅行に来ていたことだけはわかる。それ以外のことは全くわからない。そして、今現在の状況もさっぱり飲み込めなかった。
「…俺は男…って言っちゃいけない、って何だ」
 三条という老婆に、流川はそう念を押されたのである。
「姫じゃねー」
 迫り来る不安から、流川はよく独り言を言った。蝋燭にともされた部屋は、自分の周り以外は暗い。外から聞こえる不気味な声や虫の音も、流川をビクつかせるものでしかない。
 お腹を空かせながら、冷たい床をじっと見つめる。少し考えられるようになっても、その答えは非現実的過ぎた。
「…やっぱ…夢?」
 ここは、20世紀ではない。そんな気がするのだ。
「だって…変なかっこ…」
 修学旅行に来る前に、そんな資料を見せられたのではなかったか。その教師の顔も思い浮かばないけれど、流川はそのせいでリアルな夢を見ているのだと思うことにした。
 どんなに空腹で、苦しくても、目が覚めたら笑えるに違いないと思った流川は、自分の体をくるむようにして丸くなり、強引に眠りについた。
 その後、音も立てずに入ってきた人物に、流川は目覚めることもなかった。そして、永遠い目を開けぬように、眠らされたのである。

 20世紀の流川は、バスケットのビデオを観ていた。当時はVHSではなくベータであり、それも高価なものだった。流川は自分の真剣さで、両親を説得したのである。ゲームやお菓子でもなく、バスケットばかりの息子を、両親は可愛がっていた。寝起きの悪い息子に対し、母親は毎朝格闘しなければならない。けれど、他に手のかからない息子への、ささやかな触れ合いだった。
 今日も母の声で目覚めるはずだった。
「…おい、大丈夫か?」
「……ん…もうちょっと…」
「おっ 生きてんな…」
 その声は母のものではないけれど、特に悪意はこもっていない。眠りから目覚めなくても、流川はそんなことを感じた。そして自分の体を軽々と抱き上げ、どこかへ歩く単調な揺れが続く。まだ夢の中か、流川はそう思っていた。

 流川が目覚めたとき、自分がまだ白い着物を着ていることに気が付いた。
「とりあえず、洗面所…」
 へ向かおうと立ち上がりかけたが、流川の足腰はかなり弱っていた。
「…あれ…?」
 腰をさすりながら、流川は辺りを見回した。さっきまでいたがらんどうの寺ではなく、そこは狭く汚い小屋の中だった。
「お…起きたのか…おーい、緒羽太」
 突然見知らぬ男の子が現れ、そして外に向かって誰かを呼ぶ。
 流川は目覚めて思った。自分はまだ夢の中か…それとも、本当に異世界なのだろうか。
 戸口のところで手を付いて、荒い息を押さえながら入ってきた緒羽太と呼ばれた少年は、流川をまっすぐに見つめてきた。
「…お前…」
 急に顔を赤くして、緒羽太は後ずさった。流川には、理解できない反応だった。
「…あんなに可愛い子だと思わなかった…どうしよう…」
 最初に流川に声をかけた少年を引きずり出して、外でコソコソと話す。当然流川には聞こえなかった。
「お前ら、誰?」
「…今の、あんたがいったのか?」
 緒羽太という少年が、流川の言葉に驚いた。どこから見ても綺麗なお姫様なのに、口調がぶっきらぼうすぎた。あんぐりと口を開けて呆ける友人を押しのけ、清太と名乗った少年が話しかけてきた。
「…お姫さん…あんたはどうしたんだ?」
「……俺は、流川楓だ」
「…おい、緒羽太…流川家ってあったっけ…?」
「…俺に聞くなよ…」
「この時代はいったい何だ…テメーら、いったい何なんだ」
 まともに口を利く同年代が現れ、流川は少しずつ自分を取り戻しつつあった。気が高ぶったせいで、不安を押しのける余裕もなくなってしまった。
 綺麗な切れ目の両端から、大粒の涙がこぼれ始め、緒羽太も清太もオロオロし始める。
「あ、ちょっ…えっ…どうしよう、清太…女の子泣かしたら和尚に叱られる…」
「俺は女じゃねー」
 何日も空腹でいた流川の体力は限界だった。かすれた声もそれを最後に、また口も目も閉じられた。
 ふらりと倒れたお姫様を、緒羽太は猛スピードで捕まえた。頭を打つ前に受け止めて、また静かにふとんに休ませる。
 眠ったまま涙を流すその顔を、緒羽太はじっと見つめた。
「なあ…清太…、何だと思う? この子」
「……さあ?」
 和尚様に相談しよう、それだけは二人とも同時に考えた。

 結局、和尚と呼ばれるこの孤児達の保護者は、流川を女の子だと皆に伝えた。動きにくい体と、説得に疲れ果てた精神は、あの流川を諦めさせることに性交した。どうせ夢から覚めれば終わり、と思ったのもある。
「山辺、楓姫の髪を梳かしてあげなさい」
「はい」
 自分より大柄なその姿は、何か思い出させるものがあった。けれど、固有名詞は浮かばない。日頃野良仕事をしている子どもに、薬のせいで非力な流川がかなう相手ではなかった。
 爪に土が入り、薄汚れたままの手は、想像以上に優しく動いた。
「ほら、動かないで」
 流川を座らせ、山辺は櫛を使う。たった一本しかない、歯の欠けたそれは、みなで大切に使っているという。ざらついていても温かい手のひらが自分の耳元で不思議な動きをする。何か変だと気づき始めたとき、川面に顔を映すように言われた。
「できたよ…やっぱりあんた、いいとこの子なんだね」
 背中に向けられた言葉の意味はわからないが、水に映った自分の姿にはただただ驚いた。
「…誰だ?」
 そこには、両耳に細いひもを垂らしたおかっぱ頭が映っている。はっきろと見えなくても、顔は自分に似ていると思った。
「どうしたの?」
 その問いかけは、流川には聞こえなかった。
 自分の手で触れてみても、髪は以前とは確かに違う。下を向くと髪がさらりと流れてくる。横目に鈍い色をした赤いひもが見える。手足は自分のものだが、いくぶん細くなり汚れている。寺に入ったときに着せられた白い着物も、今では色が違ってみえるくらいだ。
「……あれ?」
 これでは、確かに誰の目から見ても、女の子だった。
 夢ならばいいかげんに覚めろ、と心から願った。

 



2003.2.23発行
2012.4.6UP
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