世界が終わるまで
えにし05
古い寺での生活が始まってからも、流川は何の役にも立たなかった。この時代、平民は貧困に喘ぎ、子どもたちも遊んでいることもできない。畑にしろ、売り子にしろ、働かない子は食べられないのである。
そして、一ヶ月以上眠らされていた流川の体力は、ほとんどないと言える。生きていることこそ奇跡だった。その上、田畑を耕したこともない。物を売ったこともない。台所に立つことも知らないのである。始めは物珍しさと自分たちと同じ境遇に陥ったお姫様を哀れに思ったが、これでは食糧を余分に取られるだけである。流川は次第に鬱陶しがられるようになった。
「…朝になったら…」
それを呪文のように、流川は必死で眠った。朝に起きてこない流川をますます嫌がる周囲の様子に気づいていなかった。
流川も、自分のことで精一杯だったのである。
「和尚、あの子何もできないよ」
「俺たちの飯、あの子にやるの、いやだよ」
「…もう少し元気になるまで、待ってあげましょう」
「和尚…何ができるんだよ」
同等の稼ぎをするものは、同じ口を利く。自分を育ててくれている和尚には頭は上がらないが、意見を言って良い相手をすでに心得ていた。外の世界でこの口調ならば、その場で息の根を止められているだろうから。
そんな雰囲気の中、たくさんの子どもたちの中で一部の子どもたちは、相変わらず流川に好意的だった。
「お姫さん、あんた今日も何もなかったろ? あたいの分、少し分けたげる」
「………ありがと」
流川は素直に礼を言うようになった。それは、ただでもらえる有り難みを知ったからだし、この山辺という姉御タイプの子どもが他の子たちのいじめを牽制してくれていたことに気づいていたからである。
食べる内容も粗末だが、それも飛び飛びであえり、流川の体力はなかなか戻らない。そんな悪循環を、この貧乏の中ではどうすることもできなかった。「和尚…俺はどうすればいい」
「…何がしたいですか?」
流川がここに来て二週間ほど経っていた。相変わらずこの世界にいて、流川は途方に暮れていた。けれど、それでは腹がふくれないことを、嫌でも理解したのである。
「…わかんねー…」
流川の口調は明らかにおかしい。和尚は気づいてはいても、貴族とはそんなものかと思うことにしていた。
そして、和尚には一つの考えがあったのである。
「私はね、楓姫…本当の名前は知りませんが、いつかご両親が迎えにくると思うんですよ」
「……とーさんかーさんが?」
「…きっと、お姫様はお嫁入りの準備をなさってたんじゃないかと思うのです」
「…俺が? 嫁入り?」
「……せめて『わたし』と言いましょう、姫」
本来呼び捨てにできる身分ではない、と和尚は笑う。けれど、流川はその貴族とやらの娘ではないのだ。実際に、何の記憶もない。自分はただ京都に修学旅行に来ていただけだ。
「俺…何も覚えてねー」
「…だからね」
和尚は笑顔で肩をすくめた。
「お姫様は盗賊に連れ去られ、記憶が混乱しているのです。その綺麗な髪も、売られてしまったのでしょう。そして…」
「俺は、寺に入れられた…」
そこからの記憶ははっきりしている。あの御簾の向こうにいたのが母親ならば、自分は引き離されたとしか思えない。
「…お嫁入り…婿取りではなく輿入れならば、姫は潔斎に入っていたのではないでしょうか。変な噂が立つ前に」
「……和尚の話、あんまわかんねー」
けれど、自分はここに長くいる人ではないのかもしれない。そんな気はした。
「元気になるまで、ここでゆっくりしていなさい。…何かしたいのなら、台所に立ってみるのがいいかもしれませんね」
深窓のお姫様は、とにかく色が白かった。多少なりとも日に焼けていたはずの流川の肌は、日の当たらない部屋に閉じこめられていたせいで白い。だんだん自分が誰なのか、流川はわからなくなってきていた。
流川は和尚の部屋から出たあと、外に飛び出した。思いっきり走ってみると、すぐに息が上がる。走り込んでいた自分が嘘のようだった。
「ちがう! 俺は、流川楓だ…」
けれど、20世紀とは違うこの世界がどこなのかわからない。自分がどうしてここにいるのかも、全くわからなかった。
「なんで…こんなことに…」
「…楓? どうしたんだ?」
荒い息を押さえるために、流川は太い幹に座っていた。夕暮れ時のこの時間、畑仕事や山へ入っていた子どもたちが、寺へ戻ってくるのだ。
声をかけた緒羽太以外、疲れた顔をただまっすぐ寺に向けて歩いている。楓姫に声をかける気力もないのだ。
「…緒羽太、帰らないのか?」
「清太…お姫さんが…
「…姫じゃねー」
俯いて、出せる声を必死に出した。今は、姫と呼ばれたくなかった。
「俺は流川だ。てめーら、何度言ったらわかるんだっ」
こんな調子で返事を繰り返していたため、みなが憑き物付きの姫だと、そしてただ単に生意気だとして、無視し始めたのである。わかっていても、流川には制御できなかった。
「清太、先帰って、俺のめし、とっといて」
「…おう」
そして、緒羽太は楓姫の近くに座った。
「なー楓…」
「…なんだよ」
少し年上らしいこの子にまで説教をされるのだろうか。流川はそう身構えた。
「俺…前にもあんたを見たことあるんだ」
「………どこで?」
意外な言葉に流川は飛びついた。もしかして、以前の自分を知っているのかと思ったから。
「…刀を持った人に連れ去られてた…」
「………いつ」
「俺があんたを寺で見つけるもうちょっと前だな」
夏の真っ盛りだった、と緒羽太は付け加えた。
「綺麗な着物と綺麗な顔で……でも俺、こわくて助けられなかった…」
自分を馬で追いかけ回したあの武士のようならば、子どもにはただ怖いばかりだ。それは流川にも想像がついた。けれど、緒羽太が見たという自分は、自分ではない。
「ごめんな…楓」
「……緒羽太」
そういえば、自分を楓と呼ぶのはこの緒羽太だけだった。
「さ…帰ってめしにしよう、楓」
「…俺は…いい」
それは自分が働いていないためにもらえないことを知っている口調だった。
「…めしはきっちり食べないと元気にならない。和尚がいつも言ってる」
「……けど俺は…」
遠目で一目見ただけの身分違いのお姫様は、本当におかしな話し方をする。それどころか、一生懸命自分のことを話すこともあったが、それも全く理解できない。けれど、緒羽太は嬉しかった。
「…あんたとあの寺で見つけたとき、よかったと思ったんだ」
「………なんで?」
「早く元気になれよ、お姫さん」
「…姫じゃねー」
「まあ…とてもお姫さんとは思えないもんな…」
疲れた顔に笑顔を乗せて、緒羽太は流川を促した。
流川は自分の瞼が熱いのがばれないようにすることに、必死になっていた。
◇ ◇ ◇
2003.2.23発行
2012.4.6UP
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