世界が終わるまで
えにし08
◇ ◇ ◇
少しずつ、はつ姫は自分の世界を作り始めた。人間どこまでも生きたいと思うらしい。心の中で流川が呆れた。けれど、小さくて不器用ながらも、精一杯いろんなことを覚えようとしている。そうすると、認め始める子どもたちもいるのだ。
「姫、あんたは風呂わかして」
「…はい」
台所仕事も結構重労働だ。見ているだけでもわかる。はつ姫より小さい子の方がよほどしっかりしていた。けれど、任される仕事も増えてきてはいるらしい。
「あれ…今日は風呂の日だっけ?」
「緒羽太、帰ったのか」
気さくに声をかける相手には、流川は「流川楓」として対応している。言葉が通じないこともままるけれど、緒羽太や和尚は根気よく相手になってくれていた。
はつ姫の精神は、まだ流川楓のままだった。
「じゃあ今日の飯は安心して食えるよなー、清太」
「…お前それって…」
清太が止める間もなく、はつ姫は怒りのオーラで包まれ始める。ここまで素直に感情を表現できる相手は、緒羽太くらいだった。このやりとりがはつ姫の重荷を軽くしていた。
この寺の住人は、和尚以外は子どもばかりだ。古い建物で雨漏りもし、風邪で吹き飛ばされそうな扉だ、ったが、子どもたちが生きていける大切な空間だ。それぞれが働いて、互いに助け合うしかない。それがわかっていても、全員と仲良くすることは不可能だった。
「…姫だかなんだか知らないけど、あたいより働きが少ない」
と、いつまでもはつ姫を除け者にしようとする女の子グループもあれば、やけに姫扱いする男の子たちもいる。元々他人に関心のない流川だが、はつ姫も同じなのか、それらの名前を覚えようとはしない。相手にしないのが一番だと知っていた。
「お姫さまなら、なんか弾けるんだろ」
そう言われても今のはつ姫にははつ姫として育った記憶がない。そして、流川にはバスケットしかなかったから。
自分はバスケットを忘れていないのに、どうしてこんなわけがわからないところで大根を洗っていたりするのだろうか。両親の顔を思い出す夜もある。けれど、どうしてみても現状は変わらない。
そんな時、流川はこっそり泣いた。
「…寂しいんじゃねー」
強がってみても、流川もはつ姫もまだ11歳の子どもだった。不思議な生活は、いつまでも穏やかなままではなかった。
「姫、隠れなさい」
珍しく和尚が大慌てで走る。台所で水くみをしていたはつ姫は、突然一番奥の押入に押し込められた。
「…和尚?」
「しっ…声を立ててはいけないよ…いいね」
それは、はつ姫の家からの迎えだった。そんな生やさしいものではなく、生きているのを見つかったのが良くないことなのである。連れ戻された姫がどうなるか、和尚には見当が付きすぎた。和尚は以前潔斎だと説明していたが、姫が服まされていた薬が致死性のものだと知っていたのだ。そして、世間の噂から、緒羽太が助けてきた姫の正体を、すでに想像を付けていた。
「…なんで?」
「……はつ姫、ここから動いてもいけません」
「…それ…俺の名前なのか?」
はっと目を見開いて、和尚は静かにその場を立ち去った。外では馬の音やたくさんの大人の足音が聞こえる。黙っていろと言われなくても、恐怖で口が動かなかった。
なぜ母の元がそれほど怖いのか。
空から見ている流川には、嫌というほどわかっていた。今、家に戻れば、今度こそ間違いなく息の根を止められるだろうことを。実は迎えの者は父の下僕だった。粗略どころか、本物の姫扱いである。結局あっさり見つけられてしまったはつ姫は、暴れながらも輿に乗せられる。見窄らしい格好に眉をひそめる男たちが、流川には気に入らなかった。
「…俺は行かねー」
力一杯暴れても、子どもの体力では限界もある。四肢を押さえつけられ、逃げ道がなくなると、流川は出せる限りの声で叫んだ。
「和尚! 緒羽太! 清太! 山辺!」
和尚以外はみな出払っている。そして、助けようがないことも、すぐにわかった。身分というものに無頓着だった流川だが、和尚は震えてひれ伏すしか出来ないでいたのだから。
「…はつ姫…」
泣いているかのような震える声で、和尚はのろのろと行く牛車を見送った。何の手出しも出来ない自分が悔しかった。馬の嘶きが遠くなった頃、隠れていた女の子たちがパラパラと和尚の周りを囲む。けれど、問うこともできず、また説明することも出来なかった。
ただ、いつも意地悪の筆頭だった女の子が一言呟いた。
「…本当にお姫様だったんだ…」それからのはつ姫は、すでにはつ姫ではなくなった。まして、流川でもない。
あまりにも男言葉で乱暴で、美しかった髪も童子のような外見。その上、歌や楽器の教養がまるでないのである。黙っていればそれなりにお人形になると睨んだ父親は、またおかしな薬を与えたのである。
「…殿…それは…」
紅子姫にもそれ以上責めることは出来なかった。何よりも自分の子を殺めようとした超本人だから。はしたなくも目の前で父を睨む姫を、父は許さなかった。けれど、女の子ではないと疑いはしなかったのである。
「…紅子、素晴らしいことなんだ」
「……何のお話ですか?」
「畏れ多くも今上には、弟宮がおられたのだ」
「……まあ…」
男は熱心に語り出した。それは、今の帝には体の弱い幼子がいるのだが、仮の東宮ということになるくらい、病弱だった。
「身分卑しくなく、出自も確かだ。ただ、孤児としてお育ちのようで…」
汚らしい浮浪児と呼ぶ子どもたちの中に、今上の弟がいる。男はそれに飛びついた。
「前の右大臣さまがその子の後見人となられる。そして、わが姫を東宮妃となるのだ。紅子よ」
興奮して話す夫に、紅子は同調出来なかった。それよりも急速に覚めていく心を感じている。自分は何のために思い悩み、苦労してきたのか。我が子まで苦しめるようなことまでしてしまったのか。
「…殿…それはようございました…有り難いお話でございます」
冷たい笑顔だった。けれど、それにすら夫は気づかなかった。
「はつ姫は…潔斎が長すぎて、少し現世を忘れておられるようじゃ…わたくしが教育し直します。ご安心くださいますよう…」
これで万事滞りなくすすみさえすれば、と男は未来しか見ていなかった。それから一ヶ月後、宮廷内は東宮争いで一色となった。隠蔽されていた皇子の存在に動揺したところをついて、前の右大臣は現職の身内と協力して、強行突破しようとする。今上も必死だった。
そしてその東宮の元へ、はつ姫が嫁ぐことになった。
今のはつ姫は、言葉を発することもできない、ただ笑顔を乗せた人形だった。歌も何も出来なくても、粗野にされるよるはましという父の考えは実行されたのである。
この時代、帝や東宮は御所内に住んでいる。そして、多くの女性に傅かれ、それぞれに部屋をいただいている。そこへ、夫たる今上が通うのが常だった。
そして、まだ13歳の東宮の元へ、初めての妃が輿入れした。まだ貴族の生活に慣れきっていない少年は、美しい十二単の重ね着を見ただけで舞い上がる純粋な子だった。その少年も、とにかく何も話してはいけないと注意を受けていた。
「さあ…東宮様、はつ姫にございます」
嫌らしい笑顔だと、少年は前右大臣をそう評した。さあ、と促されても、相手は御簾の向こうでひれ伏したままなのだ。貴族社会のおかしさを、少年は早くも感じていた。
「…二人きりで話しても良いでしょうか」
「もちろんでございますとも。これは気が利きませんで…」
また不気味な笑顔をこちらに向ける。あんな大人にはなりたくない、と心から思う。寺の和尚が懐かしかった。
人払いをしたといっても、この時代、プライバシーなど存在しない。少年にも気配が感じられる。けれど、慣れていくしかないらしいと達観していた。
「…姫、お顔を上げてください」
ずっと伏したままだった姫が、ゆっくりと顔を上げる。かもじ(鬘のようなもの)をつけた髪の中に小さな白い顔が見えた。少年は、思わず声を上げるところだった。
「……姫…」
かろうじて、それだけで済んだ。少年はマジマジとその顔を見つめるが、その視線は自分を見ていない。焦点が合わない瞳は、以前の姫ではなかった。
「…楓姫…」
小さく呟いても、相変わらすはつ姫には反応はなかった。
◇ ◇ ◇
2003.2.23発行
2012.4.6UP
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