世界が終わるまで
えにし10
◇ ◇ ◇
「結局…はつ姫はそれから一年ぐらい…じゃったの」
「…そうか……で、緒羽太は?」
「そうさの…」
すでに映像を切って、流川がお婆と話を始めた。やはり前世の自分だと信じられなかったのもあるが、ただ可哀相にと思う以外、流川には何も言えなかった。
ところが、花道は少し違った。
あぐらをかいている膝に顔を埋め、肩を震わせている。流川はお婆と顔を見合わせた。花道のそんな様子に、お婆は緒羽太の説明が止まったままとなってしまった。
「…桜木?」
声をかけ、肩に手を置いてみる。花道はびくりと驚くだけで、顔を上げなかった。鼻をすする音が聞こえないから、泣いているわけではないのかも、と流川はため息をついた。
花道は、流川の胸に顔をぶつけるように、激しく抱きついた。
「…桜木?」
名前を呼ぶときつく締め付けられる。熱い抱擁とはかけ離れた花道の行動が、流川には理解できなかった。
流川が身を捩っても離れない。やがて、花道は何かを呟き始めた。
「…ごめん…ごめんな…ごめん…」
「………桜木?」
首を振って、ただ謝り続け、ついに流川のシャツは涙で濡れ始めた。
「…泣いておるようじゃの…」
見てわかることを、お婆は勿体付けたように解説した。
「実はの…少し危うくなってきておっての…。縁切りでも良かったのかもしれんが、わしはまだお前さんたちの…ま、どうせも聞こえとらんじゃろうが…ここで、祖母のもとで、もう一度出会わせてやりたかったんじゃよ…楓、花道」
そして、その後すぐにふっと遠くに飛んだことを、流川は気付かなかった。
「ごめんな…楓…守ってやれなくて、ごめんよ…」
「…桜木……まさか、緒羽太?」
小さく名を呼ぶと、ますます泣き崩れた。おそらくはつ姫の最期の瞬間の緒羽太なのだろうと思う。手放しで大泣きする少年の影を見て、さすがに流川も哀れに思った。
「…緒羽太…お前のせいじゃねー」
低い流川の声と、流川楓そのももの姿なのに、顔を上げた緒羽太は桜木花道の顔のまま、はつ姫を呼んだ。
「…楓…本当か?」
真っ赤な目と、赤く濡れた鼻、汚い鼻水まみれの顔でも、流川は愛しいと思った。
「…ああ…俺、幸せだったと思う」
最期まで好きな人といられたなら、と初めてそう文章に表した。
「…楓…楓姫…俺の…」
「……緒羽太…桜木…」
流川はそう答えて、長い両腕を広い背中に回した。厚い肩に頬を当てて目を閉じると、どこか懐かしい感じはする。それは遠い記憶なのか。それとも昨夜なのか。
流川はすぐに考えるのを止め、たった今皮膚から感じるぬくもりだけに集中した。
「…桜木…」流川が再び目を開けたとき、そこは自分たちの旅館だった。気が付くと、二人は座ったまましっかりと抱き合っている。花道の驚いた声で、流川は体を離した。
「な、何だ?」
花道の不思議そうな顔を眺める余裕が、今の流川にはなかった。この現状が「おかしい」とわかるだけの情報を持っているからである。
流川も花道も首を傾げながら、部屋のあちこちを見回した。
「あ、テレビだ」
おそらく日付を確認したかったらしい。それは、自分たちの京都2日目の朝である。出かける服で、自分たちはまだどこにも行っていないのだろうか。
「……あ、あ、あれーーー?」
花道が頭を抱え始めるのも、今回は無理はなかった。この様子だと、花道も先ほどまでの会話を記憶しているに違いない。冷静さを装いながら、流川は自分こそ先に落ち着こうとしていた。
今度こそ、お婆と出会ったことも前世のことも、すべて覚えているのである。
「……長い夢を見てた…とか」
何度かドラマのように、連続小説だったのだろう。そう言い聞かせようとした。目の前で見ても、流川は非現実的なことはすぐに忘れるタイプだから。
まだ呆けた顔をする花道を、流川はここぞとばかりにバカにする。
「…どあほう、出かける気あんのか…」
「あん? だってそれどころじゃ…」
「……何が」
そう聞かれても、花道は返答に困る。確か、貴船神社に行きたいと流川が言い出し、そして間違いなく自分たちは行ったはずなのに。そして、おかしな体験をしたのでは…と思い出し始めたとき、花道は記憶を抹消しにかかった。
「だーーーーっ!」
「………うるせー」
「ちがう! 俺は泣いてないぞ!」
ほとんど叫びながら、花道は暴れる。それが流川にはおかしかった。同じ夢を見たにしろ、あの花道の姿は生まれて初めて見るものだったから。
ふと、流川はポケットに手を突っ込んだ。
紙切れは入っていることは珍しくはないが、今回はその紙を丁寧に引き出した。
「……まさか…」
それは夢ではない唯一の証拠だった。
何も書かれていない真っ新な紙だけど、自分はそれを知っている。
お婆も、はつ姫も、緒羽太も、やはり本当なのだ。
それに気づいたとき、なぜだか流川の瞼は熱くなった。ポタポタと紙の上に雫が落ちると、そこからうっすらと黒い線や文字が見え始める。黙ったままの流川を怪しみ、花道はようやく振り返った。
一筋の涙の通り跡を、花道は見知っている。緒羽太が見た、はつ姫が見せた最後の人間らしい反応だった。
「……ルカワ?」
すぐに俯いた顔と、手の上の紙を見比べて、花道は心配そうに話しかける。花道はまだ、リアルで具体的な夢だった、と思っていた。けれど、はつ姫を思い起こさせる流川は現実だった。
「……桜木…」
「…おう…」
「好きだ」
「………えっ?」
初めて聞く言葉に、花道は真っ赤になって仰け反った。その首に、流川は巻き付いた。
「…出かけンの、止めよう」
「……な、なんで」
せっかく京都まで来たのに、と思う。けれど、次の単語でまた飛び上がるほど驚いた。
「…昨日の続き…」
「る、ルカ…ルカワ……ど、どーしたんだ?」
肩を押してのぞきこむ顔に、ルカワは自分の顔を近づけた。堂々としていればいいのだと思う。焦らなくてもいいと思う。ときには素直になってみるのもいいのだろう。お婆が笑っている声が、ルカワの頭の中に響いた。
「だって…ずっとなんだろ?」
「……ルカワ?」
「永遠て生やさしいモンじゃねー」
「…はっ?」
自分の下で素直に喘ぎながら、わけがわからない言葉を綴る。突然ストレートに感情を表現されて、最初は戸惑った花道だが、やがて同じように素直に優しくしてみることにした。
「桜木…」
「…あんだ?」
「…世界が終わるまでだ」
腕の中できっぱりと言い切りながら、流川はすぐに眠りに落ちた。だから、花道の返事は夢の中だった。
「…当たりめーだろ…」
◇ ◇ ◇
「前世があるってことは…来世もあるんだよな…」
「……あたりめーだ」
こんなことを話題にするのは、実に25年ぶりだった。突然の花道の切り出しに、流川は驚いた。けれど、自分たちが歩いている場所が京都だからか、とすぐに納得した。二人が日本で活躍をしなくなったのは、十分祖国のバスケットの世界を日本中に根付かせてからだった。有名な選手はたくさんいるが、この二人ほどそのコンビぶりが素晴らしく楽しく明るい人はいなかった。どこへでも一緒に移籍することでも人々の目を引いた。個々の能力だけではなく、その息のあったプレイは、誰の目にも印象に残った。
そんな彼らは、自分たちの地位に満足することがなかった。より強くなって、強い的と戦いたい。そんな思いはいくつになっても衰えなかった。
二人が結婚適齢期を過ぎても、女性との噂が立たないことを、さすがに勘ぐる輩もいた。ちょうどそんな時期に重なっていたのかもしれない。彼らはステップアップとだけ言い残し、日本を去ったのである。
それは30歳代に入ってからのことだった。
「久しぶりだよな…日本」
「……20年…は経ってねーな」
花道の両親も、流川の両親も、すでに他界している。そのときも、日本には戻っていなかった。そして、その後すぐに流川と花道は結婚した。流川は流川姓ではなくなっている。プロポーズらしきものはなかったけれど、ごく自然だった。どちらの姓かということだけは、少し揉めた。
アメリカの巨大都市の近くて、二人はそれぞれ別のバスケットボールチームの監督をしている。そして、久しぶりの休暇を利用して、日本を訪れたのだ。
神奈川で、自分たちの会うべき人たち、会いたかった人と再会した。懐かしくて嬉しい反面、自分たちのことを素直に報告できないことがもどかしい。恥じてはいないけれど、相手を困らせたくはなかった。
そして、他に訪れたい場所として浮かんだのが、京都だった。あれ以来、お婆の夢をみることも、二人でその話をすることも、一度もなかった。
「オイ、ルカワ…あの寺、ねーぞ」
「……こっち?」
古い京都の街は、かつて自分たちが旅行に来たときとあまり変わっていない。ガイドブックも持たず、ただ以前に行った場所を目指した。けれど、流川が最初にお婆と出会った寺は、ついに行き着くことが出来なかったのである。
「森みてーだったし…潰さねーと思ったんだけどな…」
「…桜木…」
「あん?」
「なんつーか…まともじゃねーときしか会ってねー、ばーさんと」
流川にはうまく説明できなかった。けれど、あの場所は誰もが行けるところではないのかもしれない、と今なら思う。神聖な地か、異世界とか、そういうところに迷い込んだ気分だったのだ。
「…なんかよくわかんねーけど…明日、あっちに行くか」
「……おう」
二人は、この年齢になって同時のお婆に会いたいと思った。だから、日本へ、京都へ来たのだ。「確か…千年後っつったぞ」
「……せんねん…ってどれくらいだろ」
「…さあ」
お婆を信じるならば、自分たちはすでに千年のときをそばで過ごしていることになる。
「緒羽太は、楓姫んこと、女の子だと信じてたんだぜ…」
「…そうか…はつ姫だってそう思ってたぞ」
姫として育てられ、自分が男の子だと知らなかった哀れな姫だった。
「でも楓は男の子だったよな…」
「あたりめーだ。あれは俺だ」
「……えっ?」
「いや…体ははつ姫だけど…精神は俺…って時期もあった」
花道は、楓姫の話になると気軽に『楓』と呼べる。そのことが、流川にはおかしかった。
「緒羽太は…はつ姫が死んじまった後、どうなったと思う?」
花道の問いに、流川は立ち止まった。
「気にしてたのか?」
「…いや…知ってる。緒羽太は寂しくて死んじまった…」
「………本当か?」
「ああ…情けねーっって思うか? 俺ァ、ちょっとわかる気がするぜ」
花道は真っ赤な顔をし始めた。明るい日差しの中だったため、隠しようもない。
流川は、そんなことを考える年齢になったのか、と珍しくしみじみと思いふけった。
「来世って…どんなかな…」
「…わかんねー」
「そりゃ当たりめーだけどよ、もうちょっと想像力とかをだなー」
「……どあほう…」
何十年経っても、基本的な会話は変わらなかった。
「日本で死ななきゃなんねーとか、ルールはねぇのかな」
「…どあほう、んなに簡単に切れるもんじゃねぇだろ」
それでも少しはフォローを入れるようになっただろうか。
「…切れねーよな?」
「……心配なら…いつか日本に帰ってくりゃいい」
よくわからないまま、そして完全に信じ切っていないままでも、縁が切れることを多少気にしている二人だった。
目的地である貴船神社は彼らの記憶とあまり変わりない。そこに縁を求めて訪れる人も、相変わらず多い。二人は結社までゆっくり歩いた。「ばーさん、見てっかな…」
「……かもな」
ここに立つと、少し素直になれる。自分たちをさらけ出したところだからだろうか。
「あのよー、ルカワ…」
「…なんだ」
「俺…ばーさんのこと、信じたいような信じられないような気分だった」
「……それで」
「別に感謝なんかしねー。縁を結んでくれたとか言われても…わかんねー」
「…そうだな」
花道がそんな風に思っていることを、流川は知らなかった。不思議だし、現実主義な自分たちが自ら体験したこととはいえ、今ひとつ信じがたい。夢かも、で言い終わるような出来事だったから。
「…ルカワ…いや…その、なんつーか…」
「……?」
「か……かえ、で…」
花道が、桜木花道として、流川を名前で呼ぶのは、これが初めてだった。流川は、目を見開いて花道を見つめ返した。
「来世とかがあるのなら…俺はちゃんとお前を見つけるから」
「…桜木?」
「縁とかがなくても、ぜってーオメーを見つけるから」
「…おう」
「……オメー、俺の一世一代の告白にそれしか言えねーのか?」
「…うるせー、どあほう」
たくさんの自分たちの前世には、いろんな二人がいたのだろう。どの時代、どこにいても、どういう形かで出会っていたらしい。それを信じるならば、来世も楽しみにしようと花道は思う。
「生まれ変わっても会えるかもしんねーけど、今は今だ」
「…?」
「桜木花道様と流川楓は、今だけだ」
「…当たりめーじゃねぇか」
「…俺とけ、結婚してくれて…サンキュー、か、かえ…」
「ヤメロ、どあほう」
「ふぬっ」
「…聞き慣れねーから、ブキミ」
「………このヤロゥ…」
「文句あんのか、このどあほう。もう死ぬみてーな言い方しやがって」
耳だけが赤い流川は、照れたときにでる唯一の反応だった。言葉での悪態とは逆の様子に、花道は怒りの勢いをそがれた。
「…テメーは100歳くらいを目指そうとしてねーの?」
「……100歳?」
「こないだ、100歳の夫婦ってのがニュースになってた」
「……ふうふ…」
自分で言ってしまってから、流川は花道から視線を逸らした。さすがに恥ずかしかった。
「…あと50年生きても、ばーさんにはまだまだ会えねーな」
「お、おう……来来来来来……世くらいかな」
二人は結婚指輪の代わりに、財布の中に5円玉を持ち歩いている。自分たちが生まれた年の製造されたその小さなお金は、アメリカでは当然使いようがない。5円は「ご縁がありますように」と縁をもたらすものであるから。
結社に向かったまま、二人は互いの手を握りあった。来世にも出会えることが確約される気がしたから。世界が続く限り、自分たちの縁も終わらないように。
2003.2.23発行
2012.4.6UP
あとがき