ドクタークリスマスプレゼント
<前編>
シカゴの冬は厳しい。雪も多く、凍り付くような寒さである。クリスマスシーズンのシカゴの街は、グリーンや赤で彩られ、装飾品はその白い街に映えて美しかった。
セイントジョゼフ病院の小児科医ウォルフガング・ミッターマイヤーは、冬休み前の子ども達でごった返した外来で、毎日診察に追われていた。今日も外来中、嘔吐した子どもの吐瀉物が自分にかかり、オペ着に着替えたのは良かったが、屈んで、診察しようとしたとき、子どもに、
「先生、そこ赤いよ」
と突っ込まれるようなところに、昨夜、痕が残され、医者として慌てた。後ろについている母親の目がとたんに厳しくなったからである。もっともそれを付けた相手が同じ医者であり、男性だ、とまでは思わなかったであろうが。
その痕を付けた張本人、外科医オスカー・フォン・ロイエンタールも毎日忙しく働いていた。急患や、飛び入りのオペに、帰れない日も多かった。今日はクリスマス・イブ。世間では早々に店じまいをし、家族が待つ家へとそれぞれ早めに帰っていった。ミッターマイヤーもロイエンタールも、ここ2,3日休む暇もなく働き、今日は何が何でも帰ろうと決心していた。緊急オペで残らなければならない恋人&同居人、ドクターロイエンタールを後に残し、ミッターマイヤーは24時間の休みを楽しむべく、雪の中をウキウキと帰っていった。
徒歩10分くらいにある二人のアパートメントが視界に入ったとき、ミッターマイヤーはかなりホッとした。このまま白い雪の中に埋もれていってしまうのではないか、と思うくらい凄い雪なのである。シカゴに住んでかなりの年数になるが、この雪にはなかなか慣れないでいた。
アパートメントの入り口で、中から慌てて走ってくる女性とぶつかり、キャッという小さな叫び声とともに、その女性は転んでしまった。助け起こそうとしたとき、その女性と目があったが、その目は真っ赤になっており、瞬きとともに大粒の涙がこぼれ落ちた。どこか怪我でもさせたのでは、とミッターマイヤーは焦った。
「ど、どこか怪我でもしましたか?」
相手の女性は無表情なまま、その目と涙がなければ生きていることが確認できないかのような青ざめた顔色をしていた。黙ったまま首を振った瞬間、また涙が飛んだ。そしてその女性はアパートメントの上を見上げ、涙をこらえる、といった表情で噛んでいた唇が震えていた。
「…あの、本当に大丈夫ですか?」
ひょっとして自分の英語が通じていないんじゃないかと思うくらい、今度は反応もなく、まるでそこにミッターマイヤーがいることすら忘れているような顔で、いつまでもアパートメントの上を見上げていた。
突然、ミッターマイヤーがつかんでいた腕を振り払うように、それでも軽く頭を下げながら、その女性は雪の中に消えていった。
「……? 上で何かあったのかな…」
もともと女性には優しく、そして医者であるミッターマイヤーは、その女性の表情と顔色が心配になった。
気分を変えようとキュッと音を立てて方向を変え、アパートメントの自分たちの部屋へ向かった。部屋の前まで来て、見慣れないものがあることに気がついた。かなり大きな籐のかごであり、かわいいピンクのリボンやタオルが見えていた。近づいてい見ると、タオルではなく毛布であり、籐の覆いの影になった部分に少しだけ肌色が確認出来た。
”人形のプレゼント、かな? 最近のはリアルなんだなぁ…タオルとか使ったあともある感じだし。いや、それよりも配送先を間違えてるんじゃ…”
毛布の端に白い封筒に赤と緑ので縁取られたクリスマスカードが見え、宛名を確認する。
『オスカー・フォン・ロイエンタールさま』
”オスカー宛てに人形?! 何かの間違いでは…”
と思ったその瞬間、オギャアという鳴き声が聞こえ始めた。それでもまだ良くできた人形だ、などとのんきに思ったが、ミッターマイヤーは聞き慣れた子どもの泣き声のリアルさに、ようやくその『人形』の体温を確かめた。
「本物だ……」
この雪の中に置かれた赤ちゃんの体温が下がるのは速い。それでも確かに生きている体温である。ここまで来て、ようやくそのクリスマスプレゼントらしい『人形』が本物の赤ちゃんであることを認識した。
大慌てで家に入り、部屋の温度を上げ、赤ちゃんがそれ以上冷えないようにした。クリスマス用に買っておいた食材もそのままに、毛布でくるんだ赤ちゃんをストーブの前で抱き、わけがわからないまま、とにかくロイエンタールの帰りを待っていた。赤ちゃんの頬は徐々に赤みが差してきており、元気な泣き声でお腹が空いたことを訴え始めたところから、もう大丈夫だろう、ミッターマイヤーは判断した。赤ん坊が入れられていた籐のかごの中には、ほ乳瓶やミルク、大量のおむつも入れられており、とりあえず慌ててそろえなければならないものはないようだった。本当はすぐにでもロイエンタールと連絡を取って、事情を聞きたかったが、オペ中だとまずいと考え、できることだけして待っていようと考えた。
いくらミッターマイヤーが小児科医であっても、ミルク作りは得意分野ではなく、ミルク缶に書かれた通りに作った。赤ん坊の大きさや表情、首の座り具合、大泉門・小泉門などより、おそらく生後3ヶ月くらいと判断し、それに合わせてミルク量を決めた。
必死に空腹を訴える赤ん坊に「ちょ、ちょっと待って。今、今すぐ行くから!」などと話かけながら、ようやく出来たミルクを与えると、小さな口でものすごい勢いで飲みだした。
「…飲んでる…」
自分が作ったミルクを飲んでいる赤ん坊にホッとするような、嬉しいような。しかし、誰なのか、わからないのである。ゴクッゴクッという音を聞きながら、だんだん冷静になってきた。
「なんで、俺…こんなことしてるんだ…?」
突然降ってわいたような状況に、ミッターマイヤーは適応できずにいた。しかし、医者として自然と赤ん坊を観察していた。
”表情はしっかりしている。目もしっかり開いている。肌のツヤもいい。血色もいい。…栄養状態は良し。手足の動きもしっかりしているし。特にどこも異常らしきものは見あたらないな…”
髪の色は明るいブラウンであり、大きく開いた瞳は深いブルーであった。
”まさか…ロイエンタールの子ども、なのか…? では、さっきの女性が ……いや偶然かもしれないけど…でも泣きながら置いていったのだろうか…。なぜなんだろう…?”
「早く帰ってきてくれ、ロイエンタール! すごいクリスマスプレゼントが届いているぞ! 全く…どうなってるんだ…」ロイエンタールは深夜遅く帰ってきた。雪を払い、寒さにかじかんだ指先をこすり合わせながら、愛しい同居人を捜した。もう寝てるかも、そう思いながらベッドルームに直行した。ミッターマイヤーは確かにベッドで寝ていた。こちらに背中を向けて、薄暗い部屋に規則正しい呼吸がきこえてきていた。起こすのも忍びなく思い、そのまま部屋を出ようとしたロイエンタールに聞き慣れない言葉というか声が聞こえてきた。
「あぅっ、うー」
ロイエンタールの頭の上に、クエスチョンマークが山ほどになり、空耳に違いないとうち消そうとしても、その声は止まなかった。ベッドをのぞき込むと、ミッターマイヤーの向こう側で、その声の発信源は機嫌よく手足をばたつかせていた。今度は目の錯覚に違いないとうち消そうとしたが、目を擦って見直しても、その「物体」は消えなかった。
「…なんだ…これは…」
そんな言葉しか出てこなかった。病院に勤務していることもあり、別に子どもや赤ん坊は珍しくもなかった。しかし、自分の部屋の中、自分のベッドルーム、そしてミッターマイヤーのそばに赤ん坊がいるのである。
「おいっ、ウォルフ! 起きろ。起きてくれ!」
疲れていようがなんだろうが、起こして問い合わせずにはいられなかった。リビングでのソファで二人は向かい合って座っていた。いつも通りだった。いつもと違うのは、ミッターマイヤーが赤ん坊を抱いていることだ。
「…ウォルフ、…これはどういうことなんだ…?」
両手で自分の顔半分を覆い、ため息をついた。
「…それはこちらが聞きたいことだ」
お互い真剣な眼差しなのだが、ミッターマイヤーの腕の中の『物体』は一人で笑っていた。ミッターマイヤーは帰ってきてからのことを、ぶつかった女性のことも含めて全部話し、ロイエンタール宛のクリスマスカードを渡した。ロイエンタールは黙ったまま、読み始めた。
読み終えても、大きなため息をつき、カードを仕舞いもせず、相変わらず黙ったままでいた。
「……おい…?」
ミッターマイヤーが気になるのも仕方のないことだった。ひょっとしたらこの子がロイエンタールの子どもなのかもしれないのだ。
「この子は…お前の子どもなのか…? さっきの女性が母親なのか?」
その問いにはすぐには答えず、逆に聞いてきた。
「その女の特徴をもう一回細かく言ってくれ」
「…細かく? えーと、目が真っ赤で…いや瞳の色はブルーだった。あとは…赤いショールを羽織っていたから、わからない」
「どんなブルーだった? 俺みたいな色か?」
「…いや。お前のような深いブルーじゃなくって、薄いブルー」
そこまで聞いて、ロイエンタールは視線を横にやり、手で口元を押さえていた。眉を寄せ、考え込んでいるといった感じだった。
「…おい…?」
ミッターマイヤーの呼びかけも全く聞こえない、といった感じでとりつく島もなかった。
突然ロイエンタールはすっくと立ち上がり、「電話してくる。」とだけ言って、そして電話を持って奥の客室まで行ってしまった。
「…聞かれたくない電話かな…」
呟いて、抱いている赤ん坊の顔を見ながら、話しかけた。
「…お前は…ロイエンタールの子どもなのか…?」
目が合うと赤ん坊はニッコリ笑った。先ほどまで、寝かせようと思ってもぐずっていた赤ん坊をとにかくなだめて寝かせようとしたミッターマイヤーは、赤ん坊より先に寝てしまったのである。声にならない声を立てながら赤ん坊は笑っている。かわいい、とミッターマイヤーは思った。それと同時に瞳の色がロイエンタールの左目と似ている気もしてきていた。
何の説明もされず、一人で赤ん坊と向き合っていると、いろいろなことを考えてしまう。
”この子がロイエンタールの子だったら……その女性と結婚するだろうか…。そうしたら俺はここを出なくてはならない…。そして、俺達も…”
ロイエンタールの結婚よりも、自分達が別れなければならない、という事の方に大きく動揺している自分に気がついた。
”俺達が、離れる…?”
いつかは来るであろうその日のことを、最近のミッターマイヤーは考えていなかったのである。まるでこんな時は永遠に続くのかのように思ってしまっていた。そしてその不安や動揺は子どもに伝染した。あんなにも機嫌良くしていた赤ん坊が泣き出したのである。
「ああ…ゴメンゴメン」
あやしながらも、電話をかけにいったロイエンタールが出てくるのを気にしていた。
”誰と…? 何の話をしているんだ…?”
赤ん坊を抱きながら、窓際に近づいた。
「ごらん。雪だよ…今日は寒かったろう…?」
それは赤ん坊に向かって言っているのか、自分に言っているのか、ミッターマイヤーにもわからなかった。ロイエンタールは部屋から出てきて、窓辺に座っているミッターマイヤーに後ろから声をかけた。
「……その子の名前は…フェリックス。俺の子だ、と思う。母親はエルフリーデ」
簡単に単刀直入に説明した。
「フェリックス…」
そう呟いただけで、ミッターマイヤーは振り返らなかった。
「エルフリーデは、1年くらい前かな、割と長くつき合っていた。滅多にしないことがだが、部屋にも来たことがある。でも寄っただけだ」
ミッターマイヤーには、ロイエンタールが人を、女性をこの部屋に上げたことだけで、十分な驚きであった。
「教えてくれ、ロイエンタール。ずっと続いていたのか? …その女性と…」
「…いや」
「子どもが出来ていたことは…?」
やや間があって、小さく答えた。
「……いや。俺は子どもなど望んでいなかった。知っていたら、」「堕胎させていた、か」
大きなため息をついて、ようやくミッターマイヤーは振り返り、ロイエンタールの金銀妖瞳をまっすぐに見つめてきた。
「…お前は、どうするんだ? この子の父親なんだろう?」
自分ではっきりと愛しい恋人に「父親」という言葉を出すことで、現実を見よう、と自分にハッパをかけていた。
「…結婚…するのか…?」
そのセリフを出したとき、自分の胸が悲鳴を上げ、突然両目から大粒の涙が溢れ出た。それと同時に、泣きやんでいた赤ん坊も大泣きを始めた。正直なところ、ロイエンタールはその赤ん坊に近づく気にはなれなかった。突然降ってきたような赤ん坊。そして確かに自分の子どもであることがわかってしまった以上、なんとかしなければならなかった。
”なんとか、と言ってもな…”
ミッターマイヤーを赤ん坊ごと抱きしめたロイエンタールは、そのまま恋人達が落ち着くのを待っていた。赤ん坊の方が単純なのか、しばらくすると泣きやんで、間近にあるロイエンタールの顔を見つめてきた。「あうぁ〜」と、物問いたげともいえる瞳をじっと見つめ返す。赤ん坊は目を逸らさなかった。
”お前も今は目を逸らさないのか。ふっ…今はな……”
泣きじゃくり疲れたミッターマイヤーを連れてベッドルームへ行った。ミッターマイヤーは赤ん坊を離そうとせず、川の字になって横になった。赤ん坊は二人の真ん中で至極上機嫌であり、動かせるすべてを動かして、喜びを表現しているようだった。
「…お前…生まれてからここまで成長するのに、どれだけ手が掛かるか知ってるか?」
泣き顔を枕に埋めたままミッターマイヤーは問うた。
「俺は医者だ」
「…あの女性は…一人でここまで育てたのか。なんで今頃お前のとこに連れてきたんだ?」
話し始めたら、またひっく、と小さく泣き出した。肩をさすりながら、ロイエンタールは静かに話し出した。
「…落ち着いて聞いてくれ。ウォルフ。…エルフリーデは病気なんだ。今入院している。そして、厳しい状況なんだ」
ここまで言うと、泣きじゃくった顔をしたミッターマイヤーは顔を上げた。昼間の女性のように赤い目をしたグレーの瞳は、その金銀妖瞳の真摯な瞳から、嘘ではなことを悟った。
「…なんで…なんの病気?」
「急性骨髄性白血病」
そういえば顔色が悪かった、ということをミッターマイヤーは思い出した。
「俺と別れてから、あいつがどうしていたのかは知らない。しかし、俺がアパートを探してやった。だからオーナーも知っている。彼に聞いたんだ。アパートも引き払って、感染予防のために入院した」
聞いているだけでつらい話であり、医者として、奇跡を信じることが出来ないこんな時はとてもつらかった。
「クリスマスカードに書いてあった。『フェリックスを頼む』と……」
また枕に顔を埋めたミッターマイヤーは、「向こうの親は?」と聞き取れない泣き声で聞いた。
「知らん。…俺のところに連れてくるくらいだから、いないんじゃないのか」
ロイエンタールは相変わらず赤ん坊に手を触れようとはしなかった。
「こ…これからどうするんだ…?」
ロイエンタールは柔らかい蜂蜜色の髪をくしゃりと撫でた。
「……お前はなぜ泣いているんだ?」
大きな暖かい優しい手の感触に、ミッターマイヤーは顔を上げたが、その問いに答えることはできなかった。
”俺はなぜこんなに泣いているんだろう…何が悲しいのか…”
悲しい、またはショックだ、と思うことはいろいろあった。
―ロイエンタールの子ども(いきなり子持ちになってしまった)
―相手の女性の過去の訪問(訪問できるのは自分だけだと思っていた)
―相手の女性の病気(長くはないだろう…子どもを残して…)
―子ども…自分には縁がなかった子ども…
エヴァンゼリンとの間に子どもはなかったが、焦るつもりはなかった。
実はそういう気持ちよりも、ロイエンタールの子どもを産める…実際に産んだ女性に対して、嫉妬している自分に一番ショックを受けていたのかもしれない、と自分で分析した。
”いつの間にそれほどまで、オスカーに……”
彼なしの人生などもう考えられないだろう。そこまで彼はミッターマイヤーの一部になっていた。
泣きじゃくって、いつもの澄んだグレーの瞳もはっきりせず、瞼や頬を赤く染めたミッターマイヤーはいきなりロイエンタールに口づけた。唇は涙でまみれていて、しょっぱいキスになっただろう。間にいるフェリックスは、人に密着できるのが嬉しいのか、ますます喜んで暴れていたが、自分の頭の上で何が起こっているのかは、知る由もなかった。熱烈な、強烈な狂いそうなほど苦しいキスをミッターマイヤーは与えていた。ロイエンタールも戸惑いはあったものの、恋人にされるがままになって、次第に受け答え始めた。フェリックスを抱いていたミッターマイヤーの手が離れ、ロイエンタールに回っていた。二人はその存在を忘れたかのように、深いキスに酔っていった。
その感じを受けたのかも知れないフェリックスは大泣きを始めた。
「僕はここにいる! 忘れないで!」と訴えていたのかもしれない。
その泣き声に現実に引き戻された二人は、キスしたまま目を見合わせた。ミッターマイヤーはフェリックスに謝りながら抱きしめ、ロイエンタールは大きなため息をついた。フェリックスをあやしていたミッターマイヤーは、彼を抱いたまま泣き疲れて眠ってしまった。ロイエンタールはその恋人の疲れた寝顔を、一人で笑っている赤ん坊、自分の息子フェリックスの顔を交互に眺め、これから先のことに思いを馳せていた。
「…さて…どうするか」
1999.7.22 キリコ
2000.12.15改稿アップ