ドクター

 クリスマスプレゼント
    <中編>


 ロイエンタールはミッターマイヤーの寝顔を見つめていた。自分のことで大切な人を泣かせてしまった、と深く後悔していた。ミッターマイヤーとこういう関係になる前のこととはいえ、傷つけただろう。その上いきなり子持ちになってしまったのである。
”子持ち? なぜ俺が…”
 大きくため息をつきながらも、否定できない事実であった。
”あんな気位の高い女が、俺と別れた後、ほいほいと他の男のもとへ行くものか”
 ロイエンタールには妙な自信があった。
 エルフリーデの子なら、間違いなく自分の子だろう、と。

 エルフリーデという女性は、これまで数多く付き合ってきた女性の中でも一風変わった女性であった。出会ったしょっぱなから、にらみ合い、しかし彼女は決して自分から目を逸らさなかった。
 出会ったとき、ボロボロの格好の彼女にすれ違いざま財布をすられそうになったのである。その手首を捕まえたとき真っ正面から悪態をつかれたロイエンタールは、その薄汚い女性の意外な美しさ、高貴さを感じた。えらく気まぐれだったと後から自分でも思ったが、そのままホテルへ連れ込んだ。
より一層ひどくなった悪態は、どうやら照れからくるものもあるらしいものに変わっていった。
 彼女は初めてだったのだ。
 自分とベッドインした後の女性にどやされるのは初めてで、ロイエンタールはこの女性を興味を持った。囲い人などはお互いゴメンだということで、とりあえず住むところと仕事、当座の生活費を与えたのだから、ロイエンタールにしては、かなり親切だっただろう。
 その後しばらくは、面倒を見たお礼をもらうため(半分強引に関係を結んだ、という気持ちもあったに違いない)、彼女のアパートに通った。それも気まぐれを起こしたときのみであったが、これまでの女性の中では最も足繁く通っていた。
 一緒にいて、決してくつろげる相手ではなかった。会えば喧嘩腰で、話すのにエネルギーがいった。

”そういえば、なぜ行かなくなったんだろう……もう忘れたな…”

 真正面から自分にどなるような女性はこれまでいなかった。ロイエンタールの母親ですら、自分の息子を恐れているようだった。よくよく話してみると、教養深く、中流階級以上の育ちを思わせた。しかし、お互い自分のことは多く語らず、ただ何かの討論で一夜を明かすことも多かった。
 エルフリーデと別れて半年ほど経ったとき、ロイエンタールはかけがえのない恋人を得ることができた。
 その幸せな時に、彼女のことはすっかり忘れていた。

 そんなことを思い出していたとき、突然赤ん坊のぐずつきが始まった。
「ふぇっ、ふぇっ」
 何を言っているのかはわからないが、とにかく泣きたいらしい、とロイエンタールは思った。しかし今ここで泣き出されたら、疲れ切って寝入ったミッターマイヤーを起こしてしまうことになる。しばらく見ていたが、本当に泣き出しそうになり、ついに覚悟を決めて、ロイエンタールはフェリックスを抱いてリビングへ出ていった。しかしそれはほとんどラグビーボール抱きであったが…。
 赤ん坊は、抱き上げると泣きやんだ。ソファに下ろすと泣き始める。また抱き上げると泣きやむ。下ろすと泣き始める。
 それ以上大声を出されないためにも、大きなため息をつきながらロイエンタールはフェリックスを抱いてソファに座った。膝の上で自分の手を見つめ、動くのが楽しいのか、一人で笑っていた、といってもニコニコしているといった感じであった。
 ロイエンタールは落ち着かなかった。
 そんな小さな存在、柔らかい存在、自分のことをを全くの無条件で信じているらしい存在。
 すべて、馴染みのないものであった。
「あのな、ぼうず。母親にどのような教育を受けてきたのかは知らないが、子どもは夜は寝るものだ」
 話しかけられた方を向いたが、キョトンとした無心な顔は、ロイエンタールの睨みにも屈しなかった。というより睨まれていることが自覚出来ていなかったのであろう。だいたい3ヶ月過ぎの赤ん坊にしつけもあったものではない。ロイエンタールはフェリックスを抱いてはいるものの、あやしもしなければ、かわいがりもしていなかった。しかし、フェリックスは不思議と泣かなかった。

”眠い……” 
 どんなに奇妙な出来事が起こっても、仕事中、立ちつくし、気を張っているドクターは、非常に疲れていた。ソファの背もたれに首を乗せ、うつらうつらし始めた時、膝の上の人は空腹と不快感を訴え始めた。
「…黙れ」
 といって、黙るようなら赤ん坊の世話は楽でいい、と真剣に思いながら、それでも口に出してみた。
 赤ん坊の世話なぞしたことのないロイエンタールであったが、こんなことでかわいそうなミッターマイヤーを起こす気にはなれなかった。仕方なく、夕刻ミッターマイヤーがしたことと同じようなことを、ロイエンタールはおそらく生まれて初めて行った。
 安心してロイエンタールの手からミルクを飲む姿は、ロイエンタールにとっておかしなものだった。
”俺にもこんな時期があったのだろうか…。誰かの手を無条件で信じていた時が……”
 解剖学や発生学を学んできた医者らしくない気持ちだと自分でも思いながら、しかし自分にはこんな時期は存在しなかったのではないか、とさえ感じていた。
”ものごごろがついたころには、周りにはナニィ(乳母)しかいなかったからな…”
 父親も母親も、自分という存在を認めていない、あるいは否定しているのではないかとさえ思えるほど、会話もない家庭であった。すべてはこの金銀妖瞳のせいであるとロイエンタールは思っていた。
”自分を作った両親ですらこの瞳を否定する。誰も彼もがそうだと思っていた。しかし、ウォルフは違う。あの女も…違った”

 ミルクを飲み終わったフェリックスにげっぷをさせる。自分の肩に抱き上げたときに触れたフェリックスの柔らかい頬や頭部は、奇妙な優しい感覚をロイエンタールにもたらした。軽く背中をさすってやる姿は、遠目で見るといかにも父親らしかった。
 フェリックスは大きなげっぷをした。それとともに、多量のミルクを吐いた。ロイエンタールの肩から背中にかけて。
 ムッとするようなミルクの香りが自分につき、しかし怒るよりも先にその顔色を確かめた。特にぐったりとしている様子はなかった。口からも鼻からもこぼしたミルクを拭いてやりながら妙に心配になってきた。
”なぜ、吐いた…?”
 ミッターマイヤーが与えた時も吐いたのだろうか、などと思いながら、どうにも心配になってきた。
 自分の作ったミルクがおかしかったのではないか、調子が悪いのか、与えすぎただけなのか…。グルグルグルグル頭の中で医者らしくもあり、初めて子どもを持った親らしくもある考えを行ったり来たりさせていた。
今度は膝の上ではなく、腕の中でフェリックスの身体を立てるように抱いていたロイエンタールは、フェリックスのまぶたが閉じていく様子にだんだん慌ててきた。眠っていくと同時にその柔らかい身体が重たくなっていったせいもあったのかもしれない。
 ついに決心して、せっかく眠りかけているフェリックスを抱いて、ベッドルームへ走った。
「ウォルフ! 起きてくれ。こいつを診てくれ」
 呻くような声を上げ、寝返りを打ちながらミッターマイヤーは重い瞼をようやく開いた。
「…何を見るって…?」
「フェリックスが吐いたんだ」
「えっ?!」
 そのロイエンタールのただならない気迫に、普通の「嘔吐」ではない、と感じたミッターマイヤーは飛び起きた。当のフェリックスは連れ回されているにもかかわらず、ぐっすり眠っていた。
「どれくらい吐いたんだ? どんな色?」
「これくらい」
 と自分のミルクのついた肩から背中にかけてをミッターマイヤーに見せた。未だにブルーの手術衣を着ていたロイエンタールの肩から背中は、濃いブルーに変わっていた。
「…よく見えないけど…割と吐いたのかな。 ミルクをやっていたのか?」
「げっぷさせたんだ。その時鼻からも口からもミルクを吐いた。それで、どうだ?」
 どう見てもロイエンタールは冷静ではなかった。せっつくようにミッターマイヤーに次々質問し、まだ眠そうなミッターマイヤーを必死で起こした。
 少々寝ぼけていたかもしれないミッターマイヤーは、あのロイエンタールが慌てるほどなのだ!と大きく勘違いした。普段の小児科医ミッターマイヤーなら、先入観や状況に捕らわれず、冷静に診断が下せただろう。しかし、吐いたその子はロイエンタールの子どもなのである。そして医者である父親が慌てているのである。
「とにかく吸引もしておいた方が…病院へ行こう」

 深夜の雪の中、二人の優秀なドクターは、医療設備の整った救急救命室へ向かうべく、身を寄せ合うように走っていた。赤ん坊の体温の低下も心配だったが、この雪の中を車で行く方が時間がかかるからである。
 勢いよくERの中に飛び込んだ二人の医者は、
「この子を診てくれ!」
 と、同時に叫んでいた。
 たまたま入り口近くを通りかかったDr. ヤン・ウエンリィは、この先輩ドクターの慌てぶりにも驚いたが、それよりもまず診察、と診察室に連れていった。赤ん坊を横たえながら、「報告を」と聴診器を赤ん坊のはだけた胸部にあてながら、ヤンが聞いた。
「吐いたんだ」「ヤン! お前しかいないのか?!」
 二人は同時ではあったが、今度は違うセリフであった。
「ロイエンタール! やめろ! 診てもらうのが先だ。 吸引してくれ、ヤン」
 吐いた、だけでは報告になってないし、いきなり吸引と言われても…、とひそかに思いながら、とにかく赤ん坊を診察した。看護婦も「バイタル安定」と言う。
 聴診器を首にかけ、顔色や全身状態を診ていたヤンは、ややためらいがちに、
「…寝ているだけのようですけど…?」
 そう言いながら、ヤンは初めてこの二人の優秀な先輩ドクターのあんぐりした顔を見ることができた。

 フェリックスはチアノーゼも起こしておらず、借りた聴診器で呼吸音を聞いても、何の異常も診られなかった。苦しそうでもなく、本当にスヤスヤ眠っていた。
 誰も見ていなかったが、一瞬照れたようなバツの悪い顔をしたロイエンタールは、診察室から出ていった。
 一方呆然とフェリックスを見つめたままのミッターマイヤーは、横からヤンに話しかけられた。
「ミッターマイヤー、ひどい顔をしているけど……何かあったのかい?」
 『顔色』ではなく『ひどい顔』と言われたことに少々ムッとしたが、確かにそばの鏡で自分の顔を見ると、目の周りが腫れており、いつもの澄んだグレーの瞳もあまり見えなかった。顔全体がむくんで、誰の目から見ても大泣きした後の顔であった。
 ここでやっと自分の力が抜けていくのを感じ、フェリックスのそばに座り込んだ。その小さな手を握り、自分たちに冷静さがかけていたことを深く反省した。こんな真夜中に赤ん坊を雪の中にわざわざ連れ出したのである。そして同時にロイエンタールの慌てぶりにも驚いていた。
”あのロイエンタールが…さっきまで触れようともしなかったのに。フェリックス…お前、あいつにどんな魔法をかけたんだ…?”
 座り込んで何も語ろうとしないミッターマイヤーに、ヤンも補助をしていたジュディや他のスタッフ達も、よけいなことは何も聞かなかった。
「すまない。世話になった。…帰るよ…」
 誰の顔も見ずにフェリックスを抱き上げ出ていこうとしたミッターマイヤーに、ヤンは、
「ミッターマイヤー…、明日の勤務、変わってあげられるけど…? 明日も休めば…?」
 と耳打ちした。何も聞かずに気を使ってくれる同僚の心使いが嬉しかった。
「ありがとう。…では…代わってくれ…」
 そばで見ると、その目は真っ赤であった。
「Merry Christmas. Dr. ミッターマイヤー」
 その言葉に俯いたまま「うん」と答えただけであった。

 ロイエンタールは出入り口に立っていた。
 ミッターマイヤーの姿に黙ってドアを開け、二人とも黙ったまま帰っていった。 
 そんな二人の姿が、スタッフ間で噂にならないわけがなかった。
「Dr. ミッターマイヤー、さっきまではお腹ふくらんでなかったわよねぇ? いつの間に子供産んだのかしら」
「きっとDr. ロイエンタールの隠し子だったのよ。だからDr. ミッターマイヤーが泣いてたのよ」
 この意見はなかなか的を得ていた。
「じゃあ、もうDr. ミッターマイヤーと別れるの? 別れ話で泣いてたのかしら…?」
「その辺にしておきなさい!」
 くちさがないスタッフの会話はジュディの一言で止められた。
 そばにいたDr. ヤンは頭をポリポリかいていた。彼にはこの噂話を止めることが出来なかったのである。

 部屋に戻ったミッターマイヤーは相変わらずよく眠っているフェリックスを入れられていた籐のカゴに静かに横たえ、自分たちの見える範囲に置いた。そして自身の疲れた身体をソファに沈めた。
ロイエンタールは黙ってキッチンへ行き、二人分の水をコップに注いできた。
「…飲むか?」
「…うん。ありがとう。」
 受け取りながら重い身体を起こした。一口飲んだところで、大きなため息をつき、俯いたままミッターマイヤーは話しかけた。
「ロ、オスカー。頼みがある」
「…なんだ…?」
 コップをテーブルに置きながらロイエンタールはミッターマイヤーの次の言葉を待った。
「…クリスマスプレゼントにほしいものがある」
 自分がひどい顔をしているのが恥ずかしいミッターマイヤーはいつまでも顔を上げなかった。
 ロイエンタールは何も言わず、待っていた。
「ベビーベッドを…買ってくれ。」
 しばらく沈黙が流れた。
「……ウォルフ。それはダメだ。」
 そこでようやくミッターマイヤーは顔を上げた。その顔はまた泣き出しそうだった。
”俺は、ここで育てたい。…せめて母親が入院している間だけでも……”
 エルフリーデが退院できるかどうかはわからないが、ロイエンタールの子どもを手放したくなかったのである。
「クリスマスプレゼントは他にある。だからダメだ。ウォルフ。お前のクリスマスプレゼントで買ってくれ」
 そのセリフにミッターマイヤーはむくんだ顔でもわかる笑顔になり、ロイエンタールに飛びついた。
「明日、いや今日か。一緒に買いに行こう、オスカー。上等なのを買ってやる!」
 かろうじて腫れていない唇で、感謝のキスを恋人の顔に振りまいた。
 ロイエンタールはその背中を優しく抱きしめなでさすり、大きなため息をついた。
 そのまましばらく黙って抱き合っていた。
「でも、オスカー。俺だってもうクリスマスプレゼント、用意してあるんだけど…?」
「喜んでもらうぞ。それで…?」
 遠回しに今くれ、と言ったロイエンタールにミッターマイヤーは、
「お前のを先にくれよ。オスカー」
「…まだ朝じゃないんだがな…」
 そう呟いきつつ、コートから何やら取ってきたロイエンタールはミッターマイヤーに目をつぶるように言った。
「いいよ。早く見せてくれよ」
「いいから、つぶれ」
 つぶらなければもらえそうにない気配に、しょうがなく目をつぶった。もっとも、今のミッターマイヤーの顔では、目を開いていても閉じていても、あまり大差のない顔であったが…。

 そっと右手を引っ張られ、薬指に何かを感じた。
 その感触に大きく目を見開いたつもりのミッターマイヤーは、普段ほども開いていないグレーの瞳をロイエンタールの金銀妖瞳と合わせた。
「…オスカー…」
「もらって…くれるだろうか。」
 せっかく泣きやんだミッターマイヤーの腫れた顔は、また涙で濡れ始めた。
 自分の既婚、同性の恋人オスカー、オスカーの昔の恋人、そしてフェリックス。すべてのことを忘れ、ミッターマイヤーは手放しで喜んだ。しかし理性の端で、”エヴァもこんなに嬉しかったのだろうか” と考えている自分もいた。
 ミッターマイヤーは自分のプレゼントを渡すことも忘れ、ロイエンタールをソファに押し倒した。その行動に驚いたロイエンタールは、ミッターマイヤーに逆にのしかかりながら、ようやくクリスマスイブ(すでにクリスマス当日になっていたが)の甘い夜にを迎えられることにホッとしていた。もちろん考えなければならないことは山ほどあったが。
 ぐっすり寝ているフェリックスは、今度は二人の邪魔はしなかった。
 幸せなイブを過ごしている二人であったが、ロイエンタールは自分の下にある腫れた顔中に優しくキスしながら、
「冷やしておかないと、出かけられなくなるぞ。ウォルフ?」
 そんな問いかけも聞こえているのか聞こえていないのか、ただただ喘いでいる声にならない声しか返ってこなかった。


 その後、疲れているドクター二人はソファの上で折り重なって眠り、目覚めたとき、顔を冷やさなかったことを後悔するクリスマスを迎えたのは言うまでもない。



ドイツでは、結婚指輪は右手にする、と聞いたことがあるもので…今でもそうなのかなぁ…?

1999.7.25 キリコ
2000.12.21改稿アップ

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