ドクターもう一つのバレンタイン
「雪ばっかりだ…」
バレンタインのプレゼントとして、高級ホテルを予約したミッターマイヤーは、自身がロイエンタールとフェリックスのために予約した部屋の窓から外を見てそう感想を洩らした。
シカゴでも高級で有名なホテルが去年改装された。オーナーが日本人に変わったのか、日本びいきなのか、わからないが、スウィートルームの一部を和風スウィートにしたらしい。そして、ミッターマイヤーはこの和室スウィートを予約したのだった。
ロイエンタールもミッターマイヤーも日本に特に興味があるわけではなかった。医者として、日本の進んだ医療については興味の対象となったが、文化についてはほとんど知らなかった。しかし去年の夏、まだ二人が友人であった頃、シカゴ市内にある大きな植物園を訪れたおり日本庭園を見たのである。その時ロイエンタールが「一度は訪れてみたいな」と言ったことと、ミッターマイヤー自身は実家の造園業のおかげで日本の緑がどういうものか漠然とではあるが知識として知っており、日本庭園を見て、同じく「一度は訪れてみたい」と思ったのである。そして、二人には時間的にも金銭的にも(ロイエンタールは大丈夫だろうが)日本まで旅行することは不可能だった。そこでせめて雰囲気だけでも…、とミッターマイヤーは考えたのであった。二人にとって和室というのは、初めてであった。廊下からドアにかけては欧米風なのだが、一度部屋に入ると「靴を脱いで下さい」とある。そして、『ふすま』があり床は畳で10畳間と6畳間があり、入ってすぐの10畳間には『こたつ』があった。
「テーブルにふとんが…」
「それは『こたつ』という、ヒーターの一種じゃないのか?」
「…これがヒーター?」
半信半疑で座椅子に座り、足を入れてみると、確かに暖かい。
「なあ…オスカー。これって暖かいのって足だけだな。結局部屋の中を温める別のヒーターがいるじゃないか…」
そう言いながらミッターマイヤーは、腕もこたつの中に入れてみていた。
「まあ…それは文化なんだろう」
ロイエンタールもそう聞くと非実用的な気がして、とりあえず非難するほど知識はなかったので文化でごまかした。
そのうち、腕まで入れていたミッターマイヤーはいつの間にやら身体全体を入れて、首だけをこたつから出していた。
「何してるんだ? ウォルフ」
「いやこうすると暖かいぞ」
そういって新しい物を楽しそうに体験しているミッターマイヤーのそばに座った。そして抱いていたフェリックスに話しかけた。
「フェリックス、お前も入るか?」
ん? という顔をするとニッコリ笑うフェリックスは、意味はわからなくてもとにかく何にでも反応して笑う。
「ダメだ!! フェリックスが入ったら、たちまち脱水症状を起こしてしまうぞ!」
そう言いながらも自身は首しか出していない恋人に、ロイエンタールは冷ややかな目を向けた。
「わかっているなら出ろ、ウォルフ。お前も脱水するぞ。干からびたお前を抱くのは抵抗がある」
表情を変えずにとんでもないセリフを言われたミッターマイヤーはあわてて飛び起きた。
「なっ! お前、フェリックスの前で何てこと言うんだ!!」
こたつで温まったせいか、照れているせいか、ほんのり頬を赤くしながら抗議したが、当のロイエンタールは慌てた様子もなく、
「まだ言葉は理解出来ないし、出来ても覚えているもんか」
「甘いぞ〜! オスカー。そりゃ言葉はわかってないだろうけど、聞こえているんだ! そんな言葉覚えたらどうするんだ、バカ!」
こんな会話はしょっちゅう家でかわされていることで、そのたびにロイエンタールは、自身よりミッターマイヤーの方がよっぽどフェリックスのことを気にかけてくれている、と嬉しくなるのだ。なさぬ仲…というのもおかしいかもしれないが、恋敵(といって良ければ)の子どもなのである。しかしミッターマイヤーはそのことについてはほとんど触れず、フェリックスを本当に大切にしていた。夕食が運ばれてくる前にお風呂へどうぞ、とボーイに勧められた。それだけでなく慣れない宿泊客のために一通り説明してくれた。
この階にだけ大浴場があること、部屋の外へも浴衣のまま出てもいいこと、夕食は部屋でお鍋であること、などなど、日本で生まれ育っていなければ、およそ馴染みのない習慣に驚く客も多いからだった。
とりあえず着替えて大浴場とやらへ行ってみようということになり、ノリがばりばりにきいた浴衣をはおった。
「なあ、オスカー…これって右前だっけ? 左前?」
なんとなく着方はわかったが、どちらが前なのかがわからなかった。
「さあ、ガウンは左なんだから、左でいいんじゃないか?」
「あ、説明書があった。左前だって…。で、帯は…ぐるぐる適当に巻けばいいらしいぞ」
なんで左なのかはわからないが、まあ男性なら左だろう、と勝手に納得し、とにかく恋人の命令に従って左前にし、帯をしめた。浴衣は長身用というものが用意されており、ロイエンタールにもサイズはあった。大浴場、と聞いてもたいしてピンと来ていなかったミッターマイヤーは驚いた。
「床が石だ…。なんか石が黒いぞ。大きな湯船…じゃないな、石の風呂だ。…なあ、みんな一緒に入るのか…?」
浴衣のまま、大浴場の入り口をのぞいたミッターマイヤーは、その湯気の間から雰囲気を見、すでに脱衣所で浴衣を脱ぎ始めた恋人とその息子に話しかけた。
「そうなんだろう。早く脱げよ、ウォルフ」
「脱げ」と言われて、いつもの夜を思い出したミッターマイヤーは、こんな明るい脱衣所で、他の人はいなくてもロイエンタールに見られるのか…、などと今更なことを考えていた。
もたもたモジモジしている間にも、さっさと裸になったロイエンタールとフェリックスは、いつまでも浴衣を着たままのミッターマイヤーをおいて入っていった。ミッターマイヤーとしては、照れている自分の方が、よっぽど恥ずかしい、と思い、慌ててついていった。
日本風のお風呂、というのは洋風に比べてやや深めであった。
ミッターマイヤーがシャワーで洗い流している時、自身とフェリックスを洗い終わったロイエンタールが、その湯船を見ながらつぶやいた。
「こういう共同風呂みたいなところには…、まだ早いな」
フェリックスは生後半年を過ぎたところであり、自宅での風呂はともかく、家族以外の、そして公共の風呂、という形のお風呂はまだ無理だろう、という話なのだ。
「ああ…、そうだな」
頭を泡だらけにしながら、ミッターマイヤーは目を開けることも出来ずにとりあえず答えた。
後ろでため息をつく声が聞こえ、カラカラカラとガラスのドアが開く音がした。ロイエンタールがフェリックスを連れていったのだろう。
広い大浴場で一人になったミッターマイヤーは、その湯船に挑戦した。
”熱い…”
そう思ったが、徐々にならしていき、肩までつかると、なんとなく気持ちがいいと感じた。
湯船の端は、ガラスの窓であり、外の景色が見えるようになっていた。地上20階の大浴場。裸で湯船につかりながら、外を見ると雪景色なんとていうものではなく、吹雪になっていた。
「なんか…、贅沢だなぁ…」
猛吹雪を見ながら、しかし熱いのである。この不思議な感覚をミッターマイヤーは楽しんでいた。
それにしても、普段、入浴に時間をかけることをしない人間が、慣れない温度の中でいる…、のぼせるのは時間の問題であった。
フェリックスを落ち着かせて来たロイエンタールが戻ってきたとき、ミッターマイヤーは半分湯船に沈みかけていた。
”また、湯船で寝ているのか…?”
顔を茹で蛸にしたミッターマイヤーは、それでも意識はなんとかあり、ロイエンタールを認めた。
「オスカー…、吹雪…」
大きなため息をついたロイエンタールは、冷たいシャワーをかけるべく、熱くなり脱力した恋人の身体を引き上げた。
「つっ! 冷たい!!」
「お前な。のぼせて倒れるぞ」
少し目覚めたらしいミッターマイヤーは、自力でシャワーから逃げ出した。
「だ、だって…、気持ちよかったから…」
仕事を離れると、なぜこんなにも頼りない一般市民に戻ってしまうのか、ロイエンタールはそのギャップもおもしろいと思っていた。患者という人の身体の心配は出来るのに、自分自身については、ミッターマイヤーはやや無頓着の気があるようだった。
ロイエンタールは今度は一緒につかるべく、肩を抱きながら湯船に入っていった。ただし自分は全身浸かったが、ミッターマイヤーには腰までにさせておいた。
「お前はここまでにしておけ」
「…はい」
こういう時ミッターマイヤーは素直に従った。何回も迷惑をかけている、と思っているからかもしれない。「…フェリックスは? 大丈夫?」
「ああ、湯冷まし飲ませて、うつらうつらし始めていたし、大丈夫だろう。それにしても、『ふとん』ってのはおもしろいな。すぐ下は『畳』だろう? ベッドと違って落ちる心配がない」
ミッターマイヤーも畳の上のふとんで寝ているフェリックスを想像した。
「落ちる心配はないけど…、寝返りうつようになったら、どこまでも転げるじゃないか…? 日本人はどうやって育児してるんだ? 寝てる時でも目が離せないじゃないか」
日本でもベビーベットくらいはあるんじゃないか、とロイエンタールは思ったが、話を別の方向に持っていった。
「ウォルフ…畳の上ならどこまでも逃げられるな」
湯船の中から先ほどまでの父親的な瞳はどこへやらな金銀妖瞳で見上げてきたロイエンタールに、ミッターマイヤーは身体を固くした。
「…なんだよ、逃げるって…」
恋人が言わんとすることをその視線でわかってしまったミッターマイヤーは、その手が自分の両足を登ってくることにますます動けなくなった。そして、おそらく顔はのぼせによるものだけでなく、赤くなっていただろう。
ロイエンタールには、いつまでも初な反応をするこの恋人が愛しくてたまらなかった。その足から登らせた手を両腰、両脇をなで上げるように通り、両頬をつかんだ。
そのややふやけた熱い両手に少し引かれながら、湯船の中のロイエンタールと唇を合わせた。
最初は軽く合わされただけのキスがだんだん深くなり、二人ともお湯のせいで温まった以外の身体を熱さを感じていた。
「オスカー…、誰か来たら…」
「他に宿泊客なぞいない」
それが事実かはロイエンタールにもわからないのだが、初めてのシチュエーションにロイエンタールだけでなくミッターマイヤーも熱くなっている。
”止められるものか…”
20代も後半の、しかも子どもまでいる父親が、若く熱く燃えていた。
二人とも、長風呂によるものだけでなくのぼせ気味で部屋に戻ると、フェリックスは転がりもせずふとんでぐっすり寝ていた。フェリックスはすでに寝返りもできのだ。気をつけなければならないだろう。
夕食の『お鍋』というのは、あっさりはしており、食べ始めた時は食欲がなかったミッターマイヤーであったが、見事に平らげた。ただ、小さな皿に盛られた刺身にだけは一回の挑戦で遠慮した。
「オスカー、これ食べて…」
「…お前でも食べられないものがあったのか」
差し出された皿を受け取りながら、ロイエンタールはからかった。
「…生の魚だろ? なんか考えただけでもダメだ。食べてみたけど、舌触りというか、歯ごたえがいやというか…。あ…、ゴメン。お前が食べているのに…」
何も気にせずロイエンタールはそれこそすべて食べきった。
初めて日本酒というのにチャレンジして、ごくごくと飲めるものではなかったが、小さなお猪口でお互い注ぎ合い、ちびちびと飲み合った。
また日頃、休みで家にいても、緊急にそなえて落ち着いて食事したりしにくい二人が、今日は電話やメールから離れ、ゆっくりした時間を過ごし楽しんでいた。
「日本人って、いつもこんな感じなのかな。…いいな、こたつって…」
「気に入ったか。こたつを家に置くか。」
まだお猪口で飲んでいたロイエンタールが言った。
「あの家にこたつ…?」
想像しようと思ったが、どこに置くつもりだろうといろいろ当てはめてみたが、どの部屋にも合うようには思えなかった。
「ダメだな、オスカー。こたつには、畳がいるんじゃないか?」
ロイエンタールは冗談だったのだが、真面目に考えた恋人が愛しくて、楽しく想像した。
「浴衣もいるな…。ウォルフが違って見える」
「そうか? 病院のガウンと大きく違わないと思うんだけど。どう違う?」
ロイエンタールはスゥッと金銀妖瞳を細めながら、恋人の身体を全体を眺めた。
「色っぽいぞ…ウォルフ」
そのウォルフで頬がカーーーッとしたのを自覚しながら、また怒り始めた。
「そういうことをフェリックスの前で言うなって言ってるだろうっ! バカッ!!」
フェリックスは隣りの部屋で寝ているのに、とロイエンタールは思ったが、口で言うとまた怒鳴り始めるに違いない、と考えたロイエンタールは、じゃぁ、と座椅子から立ち上がり身体を寄せた。
「黙ればいいんだろう…?」
耳元で囁やかれ、腕をつかまれたミッターマイヤーは、赤くなった顔をますます赤くした。
「オスカー! まだ食べてるんだ! そ、それに…さっき…」
さっきしたばかりではないか、という言葉は続けられなかったが、ロイエンタールには十分通じていた。せっかく邪魔者が寝ているのだ。チャンスではないか、とロイエンタールは考えたのだ。
しかし、ロイエンタールがミッターマイヤーからお猪口を取り上げ身体ごと腕の中に引き込もうとした時、タイミング良く隣の部屋で泣き声が聞こえ始めた。
”またか…”
不思議ではあるがいつものことであり、ロイエンタールはため息をつきながら自分の座椅子に戻った。ミッターマイヤーが迎えに立ち上がったからである。こんな時、素に戻るのはミッターマイヤーの方がいつも早かった。
ミッターマイヤーはもう泣いていないフェリックスを膝に乗せながら、遅れた食事を取らせていた。それはロイエンタールの目から見て、『親子』の雰囲気であり小さい頃から自分が経験したことのない甘やかさを微笑ましく見ていた。ゆっくりと楽しめた食事のあと、日頃の疲れからか、どちらも睡魔に襲われ始めた。用意された二組のふとんをくっつけて、もう一度大浴場に行こう、という約束も忘れ、寝る体勢に入った。フェリックスも夜はよく眠る。隣の部屋で、ふとんの周りに荷物やざぶとんを敷き、転がってもそれなりに怪我がないようにだけしておいた。
それぞれのふとんに入っていたが、ロイエンタールはミッターマイヤーの方へ改めて入っていった。
「…ウォルフ…?」
「ん…」
呼ばれても返事らしい返事も出来ない恋人を完全に起こしてしまわないように、しかし伝えたいことを耳元に囁いた。
「ウォルフ…。今日は楽しかった」
「ん…」
聞こえていないのかと思ったが、ミッターマイヤーが囁く相手の首に両手を回し、顔を引き寄せてキスしてきた。その口は確かに「ハッピーバレンタイン」とかたどった。
「ウォルフ…」
しかし、次ぎの瞬間には耳元で静かな規則正しい息づかいが聞こえ始め、愛しいこの人が眠りに落ちたことがわかった。頭を抱かれたまま、ロイエンタールは一つため息をつき眠りが訪れるのを待った。
”浴衣が色っぽいって言ったのに…はぁ…”次ぎの日の朝、ロイエンタールが浴衣を堪能したかどうかは、冬の朝日とこたつが見ていたかもしれない。
1999. 9. 5 キリコ
2001.2.6改稿アップ