ドクターエヴァ <その1>
4月になり、シカゴの長い冬が終わりを告げ、春が訪れた。
日中は暖かく、雪も消えていた。エヴァンゼリン・ミッターマイヤーは、ドイツから1週間の滞在予定でシカゴの夫の元へやってきた。同居している夫の両親は、もっとゆっくりしておいで、と言ってくれているが、エヴァンゼリンは夫の邪魔になりたくなく思い、また大切な両親の手伝いを長く休むことに抵抗があった。しかし結婚してからほとんど別居生活の夫に会えるのは、数少ない楽しみであった。
夫であるウォルフガング・ミッターマイヤーは、妻に対し常に優しく、怒ったこともなく、妻のすることに対して咎めたことはなかった。それは、エヴァンゼリンを愛しているから、というのもあるだろうが、ミッターマイヤー自身が自分の思うとおりにアメリカで技術を収得するまで帰らないと決め、妻をドイツに置いておくことに引け目を感じているから、というのもあっただろう。
『世界一忙しい』と言われるシカゴ・オヘア国際空港へ妻を迎えに行ったミッターマイヤーは、この近日中の胃の痛みが気になっていた。エヴァンゼリンに会いたくないわけではない。しかし、ロイエンタールとのことが心にのし掛かり、ミッターマイヤーは自分を責めていた。
”これも…、浮気というのだろうか…”
そんな思いがずっと頭から離れず、夫として妻と遠く離れ、あげくに他の人、しかも男性で友人だった同僚と伴侶となったのであり、妻へ不義理だらけな気がしてならなかった。
そしてついにエヴァンゼリンに会う時が来たのだ。
”胃が痛いのも、ストレス…かな…”
仕事上で大きく悩むことが多い割には、胃炎も起こしたことはないミッターマイヤーが、プライベートのことで身体を壊すわけにはいかず、まして妻に会う前に体調が悪い、などというと、ロイエンタールが余計に心配するだろう。なので、とにかくつとめて明るく、体調不良についても黙っていた。「ウォルフ!」
明るい声で、すみれ色の瞳とクリーム色の長い髪をなびかせて、ミッターマイヤーの妻は夫のそばに駆け寄った。ミッターマイヤーは、笑顔で妻を抱きしめた。
「エヴァ。元気だったかぃ?」
「ええ。ウォルフ。あなたは…?」
満面の笑顔を見ながら、ミッターマイヤーはまた胃がキリリと悲鳴を上げるのを聞いた。
”いや、どちらかというと、腸のあたりがシクシクする…”
しかし、そんなつらさを表情には出さないように努力した。
「ははっ。相変わらずさ。…それより…着いたそうそうで悪いんだけど、同僚が事故で変わりに入らなきゃいけないんだ。だから…」
「まあ、お忙しいところなのに、ごめんなさい。大丈夫です。ホテルで待ってますから」
こんな時、エヴァンゼリンは夫を責めたりはしなかった。
地下鉄へ向かって歩きながら、ドイツの様子、両親についてなどを聞き、自分の周囲のことはエヴァンゼリンが聞いてこないかぎり同居人のこともフェリックスの様子も話さなかった。
またミッターマイヤーだけの家が今はない。ロイエンタールは、自分達のところに泊めるのが自然じゃないか、と言うが、とてもロイエンタールとエヴァンゼリンとを同時に見る勇気もなく、エヴァンゼリンには市内の病院のそばのホテルに滞在予定であった。本当は妻が訪れる今日から3日休みの予定だった。しかし同僚が事故で入院してしまい、どうしても他に変わりがおらず、昨夜遅くにスタッフドクターから連絡が来たのだ。
ミッターマイヤーは、その時の自分の気持ちは決して人には語れないと思った。それが妻であってもロイエンタールであっても、である。
”まだ気持ちは何も固まっていない。今はまだエヴァの元へ帰れない。
しかし…、ここにいていいのだろうか…”
変わらぬ笑顔で夫である自分を見つめてくる妻を目の前にして、ミッターマイヤーの頭の中はますますこのことでいっぱいになっていた。今はエヴァンゼリンといるよりも、ロイエンタールといるよりも、仕事に忙しくしている方が気楽であった。
その日の午後になり、比較的落ち着いていた病棟を後にし、ミッターマイヤーは休憩室で寝ころんだ。胃が、というよりはお腹全体が痛かったのだ。本人の診断は、ストレスからきた胃炎が十二指腸まで来たのか、と思っていたくらいで、吐血も下血もなかったので軽く診ていたのだ。しかし、出血の有無よりも食欲、排泄について気づくべきであった。
”痛い…”
ミッターマイヤーは、腹部を押さえながら、ひたすら寝返りを打っていた。
そこへ同じく休憩に来たヤンが同僚の様子がおかしいことに気がついた。
「どうしたんです?」
「ああ…ヤン。いや、ちょっとお腹が痛くってね」
そういいながら横にした身体のお腹を押さえ、顔を枕にうずめるように脂汗をかいているミッターマイヤーの様子は、とても『ちょっと』なんてものではなかった。
「上を向いて。そう、膝を立てて…。術衣をゆるめますよ」
確認しながら、ヤンは静かに診断していった。
「大丈夫だって…。ストレスだろ…」
「ここは…?」
ヤンが右下腹部を自身の指の腹全体で軽く押さえ離した時、悲鳴のような声がミッターマイヤーからもれた。もう一カ所同じようなことをしても、そこでも同じように呻いた。
「ミッターマイヤー、排便は? 食欲は?」
「え…、そういえば行ってない…。食べる気も起きなかった」
「痛みは移動しましたか? 最初は胃が痛かったとか?」
「ああ、そうだ。…ああ、そうか…」
ミッターマイヤーにもようやく自分の病名がわかったのである。
「血液検査して…、ロイエンタールを呼ぼうか?」
「いやっ、それは…。いや…、そうだな。頼む」盲腸、正式には虫垂炎であるが、これにもいろいろある。
ミッターマイヤーの場合、緊急手術が必要であり、すぐに外科医を呼んだヤンの判断は迅速で的確だった。体温は微熱程度であるが、血液検査の結果白血球が高く、強い炎症が疑われ、まだ嘔吐はなかったが嘔気が見られ、また虫垂炎に特徴的な圧痛が認められたのだ。
「緊急手術だな。ミッターマイヤー」
脂汗の浮く顔を見下ろしながら、ロイエンタールは恋人の身体を心配した。
「穿孔してるのか…?」
「デファンス(筋性防御)が腹部全体に来ている」
はぁ、と大きなため息がミッターマイヤーの口から聞こえた。穿孔の可能性があるのだ。
「お前にまかせる」
「ぜひ、私にやらせていただけませんか?」
二人の会話に後ろから若い男が口をはさんだ。
ロイエンタールはジロッと後ろを振り返り、ミッターマイヤーはロイエンタール以外の人物を初めて認め、驚いて見上げた。
「誰だっけ…?」
同じ病棟にいても、科が違えば新人はわからない。まだ紹介されていない同僚だった。
「紹介しておく、ミッターマイヤー。学生…」
「バイエルラインです。カール・エドワルド・バイエルライン。医学部の4年生です。先日からDr. ロイエンタールの指導を受けています」
ロイエンタールの紹介を遮る形で大急ぎで自己紹介したバイエルラインは、まだ若く、いかにも熱い情熱を燃え上がらせた医学生だ、とミッターマイヤーは好感を持った。
「お前にはまだ早い。」
ロイエンタールはひたすら低い声でバイエルラインを無視しようとした。
「でもっ! 虫垂炎オペは最も簡単な手術ではないですか。何事も経験です」
口ではしっかり反論しているが、決して金銀妖瞳と目を合わせようとはしなかった。ロイエンタールよりもう少し背の高い若い医学生は、ミッターマイヤーの方ばかり見ていた。ミッターマイヤーはその好奇心旺盛な若者がロイエンタールと言い合いしていることに感心した。
「なら、答えてみてくれ。穿孔の可能性があるときの切開方法は?」
ミッターマイヤーは先輩医師らしく、質問してみた。自分の身体を切ろうとする医師見習いである。知識だけでも確認しておきたかった。そしてミッターマイヤーも外科医のロイエンタールも納得いく手術方法を最初から最後までしっかり言い、勤勉さは証明されたといえるだろう。結局ミッターマイヤーとスタッフドクターはバイエルラインを執刀者としてオーケーを出し、ロイエンタールとスタッフドクターの補佐のもと、緊急手術が開始された。
虫垂炎オペは腰椎麻酔であり、上半身は点滴されている以外は全くいつも通りのミッターマイヤーは、自分の下腹部周辺でカチャカチャ音を立てながら忙しく手を動かしているロイエンタールとバイエルラインを見ていた。
”一度オスカーがオペしてるところを見学してみたいと思っていたけど…。まさか自分がされる立場になるとはな”
顔だけで苦笑しながら、その真剣な横顔をじっと見ていた。
ミッターマイヤーは笑っているが、その遮られたカーテンの向こうは内臓が見え、スプラッタ状態なのである。そして、上から手元を照らす照明の角に、ぼんやりとではあるが、自分の内臓の雰囲気や赤い血の色、そして自分では触れることの出来ない内蔵を触っているドクター達が写っていた。
”あー、バイエルライン…、腸を出しすぎじゃないかなぁ…”
まるで他人事のように考えていると、ロイエンタールも同じようなことを指摘した。
視線を恋人に戻し、ミッターマイヤーは今後のことを考えていた。
”いきなり仕事が入ってエヴァをどこにも連れていってやれない、と思っていたけど…これではますますエヴァを放っておくことになるなぁ…経過が良ければ明日あたりには食べられるだろう。そうすれば、退院も早い…。
ま、退院してから考えよう”手術は成功だった。しかしその後の経過は芳しくなかった。
ミッターマイヤーが高熱を発したのである。
その熱がどこから来ているのか、とにかく抗生剤と解熱剤を間欠的に投与されたが、完全にはなかなか下がらず、手術後2日経過した。
バイエルラインは気が気でなかった。ロイエンタールからは睨み倒され、ほとんど口も聞いてもらえず、また自分でも初めての手術で大きな失敗をしたのなら、自分は外科医には向かないのか、とも思った。そして、その相手はこの病院のドクターであり、優しそうな爽やかな先輩だった。調べられる限り調べ、手を尽くせる限り手を尽くしている。外科医とて手術だけしていればよいというものではない。その後の経過までしっかり診なければならない。バイエルラインはこの2日、ほとんど眠っていなかった。
眠れないのはロイエンタールも同じであった。
自分が恋人を執刀し、そして学生にオペさせたのである。ロイエンタールは自分を責めた。
しかし、技術的におかしな点は全くなかった。
その発熱は原因不明だった。こじつけて言うなら、ミッターマイヤー自身の精神状態が関係あったのかもしれない。悩みに悩んだストレスから、抵抗力が落ちていた可能性がある。それくらいしか考えられなかった。
意識のはっきりしないミッターマイヤーのそばには、ほとんど常に妻がおり、ロイエンタールは主治医として訪問する以外、ミッターマイヤーのそばに寄ることはなかった。高熱が続いているミッターマイヤーは、よく呻いた。
ただし、言葉として理解できる呻きは少なく、とにかく苦しそうであった。
エヴァンゼリンはその横で、ういた汗を拭っていた。ロイエンタールの術後経過についての説明にもただ頷き、そして誰も責めもせず、黙ってそばについていた。
ICUにいる夫のそばに出来るだけいたくて、病院内に連泊しようとしていたエヴァンゼリンを、ロイエンタールはホテルに帰るように指示した。このままではエヴァンゼリンが倒れるのではないかと心配したからだ。
「目覚めたときに、奥方が倒れていたら、ミッターマイヤーはきっと自分を責めるでしょう」
その一言で、エヴァンゼリンはとりあえず2日目の今日は帰ることに決めた。ホテルに帰って眠れるかどうかはともかく、ベッドに横になる必要があるとも思ったからだ。
帰る前に、額にキスしようと顔を近づけた時、ミッターマイヤーがまた呻いた。そしてそれは言葉としてエヴァンゼリンに伝わるほど、はっきりしたものであった。
「…うっ…オ、スカ…」
エヴァンゼリンはキスしようとした体勢のまま止まってしまった。
病気になった夫が、意識の朦朧とした状態で呼んだ名前が自分のものではなかったからだ。
”聞き間違いかしら…?”
きっとそうだろう、夫はいつもロイエンタール、と名字で呼んでいた、とエヴァンゼリンは自分の聞いたことを否定し、帰路についた。
しかしよほどうっかりしていたのだろう。ホテルに帰ってから財布を置いて、着替えだけ持って帰ってきたことに気がついたのだ。
「お金がなければ食べられないわよね…」
それに、いくら病院とはいえ、金銭を置いておいて安全である、とはとても考えられなかった。エヴァンゼリンは疲れた身体に鞭打って、その疲れをとる食事のために、また病院に足を向けた。
この往復時間は、約1時間くらいだったろうか。
夫の病室に戻ると、先ほどまで自分が座っていた椅子に、他の人が座っているのが見えた。そして、見なければ良かったと後悔するようなものを見てしまった。
財布を忘れた自分が悪いのだろうか。それとも自分の夫が悪いのか、その相手が悪いのだろうか。
ICUの片隅で、執刀したドクターが執刀された患者の額にキスし、その手を大きな両手で包んでいた。
”…アメリカの外科医は、手術をしたら、キスを送るのかしら…”自分が見たことすべてを否定するために、こんなことを考えた。
そして、無意識に身を隠し、出てきたロイエンタールと顔を合わせずにすんだ。
1999. 9. 10 キリコ
2001.5.29 改稿アップ
<<<BACK 銀英TOP ドクタートップ NEXT>>>