ドクターエヴァ <その2>
次の日、いつもと変わりのない様子でエヴァンゼリンは夫のそばについていた。
そしてミッターマイヤーの熱も下がり始め、意識もはっきりしていた。
「ウォルフ…」
ミッターマイヤーが目覚めて、最初に聞いた声は、高めの女性らしい優しい声であった。ミッターマイヤーはしばらく状況を理解できなかった。自分は夢の中でもう一人の恋人を呼び、そして呼ばれた気がしたからである。
「…エヴァ。心配かけたね」
ベッドで横になったままの夫の首に両手を回し抱きついてきた妻の背中を、優しくなでてやった。
”そうだ…。俺は手術して…、なんでまだ点滴して寝ているんだろう…。
手術は失敗だったのか? …いや、オスカーが失敗なんて。”
すっかり意識が回復した様子をナースが2人の主治医に知らせ、2人が2人とも嬉々として病室を訪れた。
ロイエンタールは病状経過について以外はしゃべらず、わからない程度に微笑んでいた。一方バイエルラインは泣き出さんばかりに喜んでいた。ミッターマイヤー夫妻は、重ねてお礼を言った。
「それで、いつ退院出来る? 主治医殿。」
ミッターマイヤーが2人の顔を見比べながらおどけてみせた。
「バイエルライン。お前ならどうする?」
ロイエンタールは、ミッターマイヤーの手術後、初めてまともにバイエルラインに話しかけた。
「は、はい」
バイエルラインの診断では、まだ不安定であり、抗生剤投与をあと1日続け発熱の状態、白血球数を観察し、このまま熱が下がれば、明日から病人食からスタートを…、という指示であり、ロイエンタールもそれに納得した。確かにバイエルラインが勤勉らしいことはロイエンタールにもよくわかった。
「まだ完全に熱は下がっていない。まだ安静にしていろ。ミッターマイヤー」
「ああ…」
安静期間が長引けば、それだけエヴァンゼリンが帰るまでの時間もなくなってしまう。ミッターマイヤーはその心配をしたが、エヴァンゼリンは顔にも口にも出さなかった。
「ゆっくり休んで、早く良くなって下さいね、あなた」
「…ああ。ゴメンよ、エヴァ」
次の日には、保険のこともあり、また妻という介添え者もおり、また発熱も落ち着いたと診断されたミッターマイヤーは、退院した。退院後、もちろんミッターマイヤーは自分の家に帰った。そこは、ミッターマイヤーとロイエンタールの家であったが、まさか病み上がりの身体でホテル暮らしというわけにもいかなかった。
いつも使ったことのない慣れない客室で、ミッターマイヤーは少しでも休めるように眠った。そしてエヴァンゼリンは主治医の指示通り、栄養のある食べやすい食事を作ることに時間をかけていた。
ロイエンタールは、エヴァンゼリンがシカゴに来てからほとんど家には戻っていなかった。病院で寝泊まりし、フェリックスはハサウェイ夫妻に預かってもらっていた。さすがに連日すぎる、とミッターマイヤーは、家で療養している限りフェリックスの面倒を見ることを提案した。フェリックスを通して会話もしやすいかもしれない、とも考えたからである。
フェリックスは人見知りを始めるころであり、最初見慣れない、抱かれ慣れないエヴァンゼリンに懐かなかった。
「フェリックス。エヴァだ。怖い人じゃないんだよ」
ミッターマイヤーがそう言いながらエヴァンゼリンにフェリックスを抱かせると、ややぎこちなくではあったが、おとなしく抱かれ始めた。やがてすっかり慣れてしまったが…。
エヴァンゼリンにとって、子どもの世話というのは慣れてないことであったが、一生懸命やっていた。
おむつや離乳食は下手で嫌がられたが、ミルクや遊びはとても喜ばれ、エヴァンゼリンもほっとしていた。
自分よりも男性である夫の方が、子どもの世話がうまい、ということに、やや嫉妬心も感じなかったわけではなかったが、口に出すことは女として出来なかった。
「フェリックスは男の俺達にばかり抱かれているし、ちょっと女性に慣れなかっただけなんだよ、きっと」
フェリックスにひたすら優しい笑顔を向けながら、ミッターマイヤーはそうエヴァンゼリンをなぐさめた。しかしエヴァンゼリンはそんな言葉を待っていたわけではなかった。
「将来の勉強になりますわ、あなた」
そう笑顔で言う妻にミッターマイヤーの心臓はドキリとなったきがした。
”将来…、いつか、俺とエヴァの子が…?”
ミッターマイヤーはエヴァンゼリンが来てからすでに4日以上たつのに、夫婦生活どころかキスすらしていなかったのである。
”術後なんだから、その気にならなくたって仕方ない、よな…”
自分にはそう正当化して言い聞かせていたが、実のところ妻に触れるのが怖かったのである。
エヴァンゼリンにすれば約10ヶ月ぶりに会う夫に物足りなさを感じていた。しかしエヴァンゼリンから積極的にいったことはなく、今回も黙ったまま半分諦めていた。
突然頭の中に、ロイエンタールがキスしている姿を思い出し、まるで血圧が上がったかのように胸がドキドキした。
”あの人は…、この人のことを…?”
いくらエヴァンゼリンがドイツにいるといっても、アメリカの国情はそれなりに知っていた。
”でも、あの人は…漁色家だったはず…。やはり医者としての友情のキス…?”
手術後の経過も良く、ベッドから起きあがれるようになったミッターマイヤーは、部屋の中でウロウロ出来る程度に回復していた。
「変だな。ほんの3.4日寝ていただけなのに、足にあんまり力が入らないぞ。」
朝から気分が良いらしく歩き回るミッターマイヤーに、その妻と、その恋人がほぼ同時に同じようなことを言った。
「疲れるぞ」「疲れてしまうわよ」『ウォルフ』
そこまで一緒だった。
3人が、というよりロイエンタールとミッターマイヤーが固まり、なんとなく変な空気が流れた。友人同士でファーストネームで呼び合うのはおかしなことではないのに、二人が固まったため、かえってエヴァンゼリンもおかしく思ってしまった。
その雰囲気を苦々しく思ったロイエンタールは、フェリックスを抱き上げながら、
「行って来る」
突然の恋人の行動に、ミッターマイヤーも我に返った。
「え…、フェリックスを連れていくのか?」
ロイエンタールは玄関口で振り返りながら、ミッターマイヤー夫妻の顔を見渡した。
「今日は二人でゆっくりしていろ。フェリックスも俺も帰らないので。では病人をよろしく。奥方」
いっていらっしゃいまし、とエヴァンゼリンが見送りに出たが、ロイエンタールは決してミッターマイヤーを振り返らなかった。それからの1日をエヴァンゼリンと少しずつ会話していき、窓際でひなたぼっこしたり、食事の後一緒に皿洗いをしたり、だんだんありきたりの夫婦のような雰囲気になっていった。自然と会話は同居人とその息子についての話題が多くなった。
「あいつもさぁ、最初はフェリックスに触れようとしなかったんだ。
それが、今ではすっかり父親だよなぁ…」
その姿を思い出すように、遠い目をして嬉しそうに話す夫に、エヴァンゼリンは、数日前と違う視線で夫を観察していた。
”この人は…、ロイエンタールさんとフェリックスのことばかり…
…でもこんなこと言っても仕方ないわね…。仕事とあの人とフェリックス坊やだけで生活が成り立っているんで すものね…”
夫に対して悪く考えることが出来ないエヴァンゼリンは、自分の嫉妬心さえも邪悪なものとしてうち消した。
夕食前に買い物に出かけようか、と久々の外出をしたいミッターマイヤーは妻にそう言った。
「ええ、では少しだけ…」
エヴァンゼリンとて、夫とゆっくりした時間を過ごしたり、一緒に歩いてショッピングをしたりしたかったのである。
「でも傷口は、大丈夫…?」
「ああ、少し痛むけど、少しくらい歩いてならしておかないと、仕事に戻れないからな」
夫にとって、仕事が第一なのだな、と妻が感じる瞬間であったかもしれない。シカゴの夕暮れは、ドイツの田舎のように山に沈んでいく、というものではなく、高いビルの間に消え、ヨーロッパとは違う雰囲気を醸し出していた。
「きれいだろ、エヴァ。俺はこの街の夕日が好きなんだ」
夕日が沈むのをじっと見つめながら穏やかな顔をしている夫の横顔を、エヴァンゼリンも優しく見つめていた。
二人は二人きりの短い時間を楽しみながら、自然とぎこちなさもなくなっていき、いつの間にか手をつないで大きな夕日が沈むまでそのままでいた。
”ウォルフがぎこちない感じに思えたのは、久しぶりだったからよね。そして病気の後でもあるのだし…”
そんな風に安心したエヴァンゼリンは、自分の考えが間違っていたことを夕食後にわかってしまった。エヴァンゼリンの手料理が、ようやく病人食でなくなった夕食の後、帰らないと言ったロイエンタールが帰宅した。
「すまないがフェリックスを頼む」
「ロイエンタール? どうしたんだ…? 仕事は? 夜勤じゃなかったのか?」
驚いて勢い良く質問攻めの恋人の問いかけには答えず、その妻にフェリックスを預けた。
「奥方。すみませんが、フェリックスを今晩みていただけまいか」
エヴァンゼリンは自分よりはるかに大きいその人に見下ろされながら、その金銀妖瞳を見つめ返していた。ロイエンタールの瞳を割とまっすぐ見たのは、これが初めてかもしれなかった。
「はい…、それはかまいませんが、お出かけですの?」
フェリックスを腕の中に抱きながら、エヴァンゼリンが問うと、デートです、と小さく答えてそのまま出ていった。
あまりにも急に帰ってきて突然出ていったこの家の主に、ミッターマイヤーは唖然としていた。しかしフェリックスがここにいる以上、間違いなくロイエンタールは帰ってきたのであった。
「ロイエンタールは…、何だって?」
「デートしてくるって…」その後のミッターマイヤーは明らかにおかしかった。
傷口が痛み出したから、と部屋に籠もり、妻との会話もフェリックスの相手もしようとはしなかった。
先ほどまでの和やかな夫婦の時間などなかったかのように、ミッターマイヤーは一人の世界に入ってしまった。
「ねぇ、フェリックス…。ウォルフはどうしたのかしら…?」
リビングのソファに座りながら、膝の上に抱いたフェリックスに問いかけた。
問いかけの返事は笑顔だけであったが、その答えは自分で結論づけられそうだった。
夫にキスしたロイエンタール。
ロイエンタールのデートに顔を青くした夫。
これは何を意味するのだろうか。
「ねぇ、フェリックス…。あなたは何か知っていて…?」
フェリックスはいろいろ知っていた。証人になったことも実はあった。しかしそれを伝える術をまだ知らなかった。柔らかな小さな手で、自分を抱いている人の頬に触れ、その顔をじっとのぞき込んでいた。その小さな暖かい手をとってキスを送ると、フェリックスは声を出して笑い、喜んだ。
結局ミッターマイヤー夫妻は、別々の部屋で眠りにつき、夜中に起きたフェリックスの面倒はエヴァンゼリンが見ていた。次の日、検査のためと朝早くに病院に行くから、とミッターマイヤーはフェリックスを連れて部屋を出た。
ほとんど顔も合わさず、会話もそこそこに病院に行ってしまった。
「お仕事してらっしゃるの?」
という問いかけに、主治医の許可が出たら、とだけ返事をしてきた。もしも主治医がオッケーを出したら、夫はおそらく夕方まで帰ってこないだろう。
これまではそれでも良かった。夫は医者として一生懸命働いていた。全力で人々を救おうとしていることをエヴァンゼリンも知っていた。だから忙しくしていても、決して責めてはいけない、とずっと自分に言い聞かせてきた。
だが、今は少し違う。
別のところに嫉妬が向いていることにエヴァンゼリンは気がついていた。
1999. 9. 10 キリコ
2001.5.29 改稿アップ