ドクターエヴァ <その3>
ミッターマイヤーが主治医のもとへ術後の検診に訪れたのは、エヴァンゼリンがシカゴに来てすでに7日目のことだった。その間、ほとんどエヴァンゼリンと一緒にいなかった。実際にはエヴァンゼリンは夫のそばにいたのだが、半分はミッターマイヤーは眠っているときであり、会話は少なかった。ミッターマイヤーは、主治医の一人であるバイエルラインを探し、自分の検診をしてくれるよう頼んだ。ミッターマイヤーはロイエンタールの出勤前に来たのである。
「おはよう、バイエルライン。おかげで元気になった」
「おはようございます。良かったです。オペの後はどうなることかと心配でしたが…」
先輩ドクターより、はるかに長身の穏やかなブラウンの瞳は優しく微笑み、尊敬する先輩を執刀させてもらえたこと、そして元気になったことを心から喜んでいた。
雑談を交えながらの診察は、なごやかな雰囲気で始まっていた。
「…え、俺のこと知ってた?」
「あ、はい。僕は、いえ私は、先輩方と同じ大学で…」
そこまで言って止まった。バイエルラインはミッターマイヤーと年齢は大きく違わないが、同学年でもなく同時期に在学していたはずはなかった。
「あれ、確か俺達と入れ替わりくらいなんじゃないのか?」
「はい…」
実はバイエルラインは、目指していた医大に、大学在学中から潜り込んでいたのだった。それだけ早く医者になる勉強がしたい、というあせった気持ちからであったのだが。
「先輩方が、ソフモアの頃から、知っておりました…」
あまりにもこのコンビは目立っていたのである。そして二人ともドイツからの留学生であり、優秀であることは疑う余地もなかった。そして、バイエルラインは、その二人のうち、この蜂蜜色の髪をした明るい笑顔の先輩に、特に強い憧れと尊敬を持って、同じ大学に入学し、同じ病院を目指してきたのである。
「私は、小児外科医になりたいのです」
「そうか…」
そういって優しく微笑むミッターマイヤーに、バイエルラインはそばでその笑顔を見、会話出来るようになった自分をとても幸せに思っていた。
「じゃ、きっと、いずれ小児科にもレジデンスとして来るよな。その時はよろしくな、バイエルライン」
「は、はいっ!!」
雑談はそこまでにされ、バイエルラインはミッターマイヤーの傷口を診た。
化膿もせず、ややピンクに盛り上がっているだけであった。また発熱もなく、バイタルも落ち着いていたが、バイエルラインには時々先輩が見せる暗い表情が気になっていた。
「先輩? 何かありましたか…?」
診察のことではなく、突然のそんな質問にミッターマイヤーは驚いて顔を上げた。
「え…、あ、いや、別に…。それよりどうだ? もう仕事してもいいか? 主治医殿」
「そうですねぇ、ロイエンタール先輩か、」
といいかけた時、目の前にいた先輩の身体がはねるのではないか、と思うくらいビクッとし、驚いたようだった。
「スタッフドクターに診てもらわなければいけないですけど、…その顔色では、まだ無理なんじゃないでしょうか?」
先ほどまでそれほど悪くもなかった顔色が、青ざめていく様子にバイエルラインはどうしてよいのかわからなくなった。呼んできたスタッフドクターも、そんな顔色のドクターは怖いだけだ、と言い、他のERのドクター達も口々に反対した。
「ミッターマイヤー、もう1日休んだら?」
低い優しい声でヤンが言い、小児科のスタッフドクターも同じことを思っていたらしく、結局その日は帰らされることになった。
ミッターマイヤーは、家に置いてきた自分の妻よりも、外泊したロイエンタールが気になってしかたなかった。しかし、昨夜病院には勤務しておらず、家にも帰って来なかった恋人の、その行動を確認するのが怖くて、ロイエンタールに会うのを避けていた。
預けていたフェリックスを迎えに行き、ミッターマイヤーは暖かい春の日差しの中を散歩に出た。
家に足が向かなかったというのもあるが、なんとなく自分が情けなかったのだ。
”俺は、プロらしくないよな…”
自分のプライベートな気持ちを職場や体調に引きずってしまっていることを反省した。体調の自己管理も出来ず、また仕事まで復帰するのを反対されるほど、動揺が顔に出てしまった自分の未熟さがいやでたまらなくなった。
”なぜ、こんなに動揺するんだろう…? オスカーの外泊なんて、前は当たり前だったじゃないか…”
自分と深い仲になる前のロイエンタールと同じなのに、あまりにも二人の関係が変わってしまったため、ロイエンタールを『漁色家』と責めることも出来ず、また外泊先を問いつめる勇気も出てこなかった。病院から少し離れた湖沿いの公園は、平日でも日光浴や散歩の人で賑わっていた。その静かな一角のベンチにミッターマイヤーは腰掛け、フェリックスを膝の上に抱いた。フェリックスは自分の手を観察するのに忙しいらしく、ミッターマイヤーの方は全く見なかった。ミッターマイヤーも、フェリックスが落ちないように両腕を小さな身体に回していたが、目線も心も、全く別のことろを向いていた。
ミッターマイヤーは、初めてロイエンタールと深い関係になった時のことを思い出した。
”無理矢理…ではなかった…。俺がいいって言ったんだし。
あんな瞳で訴えられたら、断れなかったってのもあったけど…”
では、他の誰かがそんな風にせまってきても自分はオーケーするだろうか、いや相手がロイエンタールだったからだ、とすぐに思った。
”でも、一夜限りのことで終わらせなかった、という点においては、俺も同罪だ。オスカーが悪いんじゃない。
いやむしろ、俺が一番悪いよな…。いくらエヴァと離れているとはいえ…”
しかし、ミッターマイヤーはロイエンタールを欲望のはけ口と思っているわけではない。身体の繋がりも大事だが、それよりも心が通じ合っていることを喜んでいるのだ。
ミッターマイヤーは、これまでの10年間のロイエンタールとの付き合いを振り返り、これ以上信頼出来る男はいない、ということを思い出したりしていた。
”エヴァは…、エヴァとは…心は通じ合っているのだろうか”
今更ながら、そんなことを考えてしまった。結婚して何年か経つが、妻の笑顔以外見たことがないような気がしたのだ。また同じく、自分も常に笑っていなければ、と思っていたのではないだろうか。
”少なくとも、エヴァの前では、つらい顔や泣き顔を見せてはいけないって気がしていたな…。『夫』ってそんなもんだ、と思っていたけど、世の中のだんなさんはどうなんだろう…?”
ロイエンタールとともにあるときの自分はとても自然だ、とミッターマイヤーは自分で感じていた。自分の正直な気持ちを言ったり、泣いたり怒ったり、感情まかせに出来る。
”愛されているって信じられるから…。甘えてるんだな、俺…”
甘えることが出来る、というだけでなく、自分も心から愛しいと想っているからこそ、自分一人のものだ、という独占欲が芽生えていることにも、ミッターマイヤーは気がついていた。
”だから、聞くのが怖いんだ…。想われていると信じると、今度は嫌われるのが怖いなんて…”
すっかりその存在がなくてはならないものになってしまった今、自分はどうするべきなのか、考えなければならなかった。これまでも考えなかったわけではないのだが、いつまでも現実から目を逸らすわけにはいかなかった。”オスカー…”
その名の人を思い浮かべて、心の中で呼んでみるだけで、涙がにじんできた。
”俺は、まるで思春期の恋愛みたいに、周りが見えなくなってるよな”
こんなに自分が情熱的に人を想うことが出来ることに気がついただけでも、自分は何も知らなかった頃より幸せだと思った。しかし、あまりにも切なく、独りでに涙が頬をつたった。
その涙に濡れた頬に柔らかいものが触れて、ミッターマイヤーは我に返った。
フェリックスは自分を抱いているミッターマイヤーを見上げ、小さな手を両頬に置いてきたのだ。何も語らないミッターマイヤーに遊べと訴えているのか、泣いているミッターマイヤーをなぐさめようとしているのか、その小さい手で頬をなでたりつねったりしていた。
「フェリックス…」
愛おしそうにその名を呼び、身体を抱き上げ直し、その額にチュッとキスを贈った。
「愛してるよ、フェリックス。ありがとう…」
フェリックスはようやく自分に気がついた様子に喜び、楽しそうな声をあげた。”愛してる。みんな愛してる。けど…”
ミッターマイヤーは午後になっても、その公園のベンチに座っていた。
一方、その日の朝早く、ロイエンタールはいったん家に戻った。
ミッターマイヤー夫妻を起こさないように、フェリックスを連れて仕事に出かけようとしたのである。
しかし、フェリックスは子ども部屋におらず、預けるためのフェリックス用具一式もなかった。
”変だな…?”
ロイエンタールは、まさかミッターマイヤーがもっと早くにフェリックスを連れて、職場に向かったとは考えつかなかったのである。そろそろ仕事に戻れるかも、とも思ったが、夫婦水入らずの夜を過ごしたあとでもあり、今日くらいは休みを願い出るのではないかとロイエンタールは思っていた。まさか寝室をのぞいてみる訳にもいかず、このまま仕事に行こうと子ども部屋を出ようと振り返った時、ドアのところにエヴァンゼリンが静かに立っているのに気がついた。いつの間に来ていたのかわからず、そして、あまりにも静かに無表情に立っており、ロイエンタールは表情には出さなかったが、内心かなり驚いた。
「おはようございます、フラウ。フェリックスは?」
そう朝の挨拶をしても、ピクリとも顔も身体も動かさず、ロイエンタールは自分の知っているエヴァンゼリンではないのではないだろうか、とさえ思ってしまった。しかし、口を開いたエヴァンゼリンは、普段の口調に近かった。
「おはようございます、ロイエンタールさん。フェリックス坊やはウォルフが検診で病院へ行くのに、連れていきましたわ」
口調も穏やかさもいつものままだった。しかしロイエンタールは何やら違和感を感じていた。
”何だ…? …あの目だ。あの目だけは穏やかじゃない…”
そして、エヴァンゼリンが自分の鋭い睨みにも、全く負けずににらみ返してきていることに気がついた。
”昨夜、何があったか知らないが…、バレたのか? ならば、ウォルフはどんな気持ちなんだろう。”
こんな時でも、自分への非難よりも恋人の心情の方が心配であり、ロイエンタールの心の中はミッターマイヤー中心で回っていることに、ロイエンタール自身気がついていなかった。「お話がありますの、ロイエンタールさん?」
その目は、宜しいですわね、と拒否する選択権などない、と言っていた。
「…うかがいましょう」
まだ太陽は天中に昇っていなかった。
1999. 9. 17 キリコ
2001.5.29 改稿アップ