ドクター

 エヴァ <その4>


 午後遅く、ミッターマイヤーはフェリックスとともに家に戻った。
 部屋の中は静かであり、ミッターマイヤーの小さな「ただいま」に反応するものは何もなかった。
「あれ…?」
 ロイエンタールは勤務だろうが、エヴァンゼリンはどこへ行ったのだろうか、とミッターマイヤーはいるはずの妻を部屋中探したがどこにもいなかった。妻の荷物がもしもなかったら、まるでこのシカゴの自分達のもとに妻が来たのも、気のせいだったのではないだろうか、と思うくらい、エヴァンゼリンが来る前と変わらない部屋だった。
 変わったのは、自分たち3人だろう。
”エヴァを部屋に入れなければ良かった”
 自分の病気がなければ、自分達はどうなっていただろう。3日間の休みをどのように妻と過ごし、その後どんな顔をしてロイエンタールのそばに行けるだろうか。
 フェリックスをベッドに連れていき、自身は上着も脱がないまま、ミッターマイヤーはソファに座り込み、そんなことを考えた。

 ふと思い出したように、自分の部屋に戻り、プラチナのリングを探した。
 エヴァンゼリンが来る前に、部屋ではずし、エヴァンゼリンが帰るまでつけないように、とロイエンタールに言われていたのである。家に帰るとつける習慣だったので、半分無意識に探し始めた。
 しかし、自分の部屋の、低いサイドボードの小さな貝殻の皿に置いた指輪は、その場所になかった。
”変だなぁ…?”
 退院してきたときは、気がつかなかった。その時は、妻が横に付き添っていたし、自分自身があまり起きあがる気力もなかった時期でもあったからだろう。
 ミッターマイヤーは指輪の紛失に慌てた。
”エヴァの目に触れただろうか…? でもわざわざ隠したりしないだろう。…やっぱり、俺がなくしたのか…?”
 床に落ちていないか探そうとかがんだとき、エヴァンゼリンが帰宅し、ミッターマイヤーの部屋のドアを開けた。
「あなた、お帰りになってらしたのね」
 悪いことをして見つかってしまった子どものように、慌てて立ち上がったミッターマイヤーは、咄嗟には妻に返事も出来なかった。
「お買い物に行って来ましたの。最後の夜でしょう? あなたのお好きなものばかり用意するの。楽しみに待っていてね」
 一言も継げない夫の返事を待たず、エヴァンゼリンはミッターマイヤーのそばに寄り、頬に軽くキスを送り、部屋から出ていった。半分ホッとしたような、ドキドキしたようなミッターマイヤーは、突然妻が振り返ったことに、また驚いた。
「ウォルフ? まだ休んでらしてね?」
「あ…、ああ、そうするよ」
 今度こそエヴァンゼリンが出ていった時、ミッターマイヤーは大きなため息をついた。
 妻といることに息づまりを感じるとか、イヤだというのではなく、しかしやたらと気を張っている自分に気がついていた。
”罪悪感から、意識し過ぎているのかな…”
 妻に対して自然な自分を出せないことを、申し訳なく思った。

 シャワーを軽く浴びて、エヴァンゼリンが言った通り、部屋で休むことにした。
”エヴァも気を使ってくれてるんだろう。こっちに来てからほとんど話す暇なんてなかったのに、帰る前日になっても、俺に休め、と言う…。優しいエヴァ。ゴメンよ…”
 心の中で深くわびたミッターマイヤーは、ベッドに横たわりながら、また考え事を始めた。しかし、いつの間にかうとうとしていたらしい。
 どのくらい眠っていたのかわからなかったが、耳元で小さく囁くように呼ばれてミッターマイヤーは、まだはっきりと目覚めることが出来なかった。
「ん…?」
「ウォルフ…」
 甘い高い声が妻のものだとは思ったが、艶を含んでいることに、ミッターマイヤーは驚きながらも目を開けることが出来なかった。
「…エヴァ?」
「…愛してるわ。ウォルフ」
 上から見下ろす妻の表情を、ミッターマイヤーのようやく開けたグレーの瞳は驚きの色を隠せず見つめ返した。
 これが本当に自分の知っているエヴァンゼリンだろうか…、そう戸惑うほど、色っぽく、艶っぽく、そして積極的な妻を見るのは初めてだった。
「…エヴァ?!」
 つい何度も確かめたくなるほど別人のエヴァンゼリンに、夫であるミッターマイヤーの身体を動かすことも出来ず、されるがままであった。
 これまでの夫婦生活の中で、これほど情熱的で激しく、またお互いが、特にエヴァンゼリンがまるで小柄な獣のように、美しく乱れたことはなかった。
 妻は夫が上に来ることを許さなかった。

 何度目かの絶頂で、疲れていたミッターマイヤーはほとんど意識を失った。
 浅い呼吸のまま、眠りに落ちた夫の目の下のクマを見つめ、汗に濡れた柔らかい前髪を梳きながら、エヴァンゼリンは何も言わなかった。しばらくのち、まだ全裸のままの夫の右足の付け根に、濃くはっきりとした刻印を残し、
「愛しているわ、あなた」
 と小さくつぶやき、部屋を出た。

 ミッターマイヤーは、明け方まで目を覚まさなかった。

 
 目が覚めた時、ミッターマイヤーは自分が全裸でなければ、昨夜の妻とその行為を夢だと思っただろう。しかし、どう見ても自分は何も身につけておらず、また自分の身体は綺麗に拭かれているようだったが、それを妻にさせたのかと思うと、かえって気恥ずかしさが増した。
 ミッターマイヤーは時計を見て、自分に驚いている暇はないことに気がつき、慌てて着替えに走った。
 ほとんど仕事着の状態で部屋を出ると、エヴァンゼリンがキッチンで朝食の支度をしていた。ミッターマイヤーには、妻の顔を直視する勇気がなかったが、声をかけないわけにはいかなかった。
「エヴァ、おはよう。あの…、」
「あなた」
 振り返りながら、それだけ言って優しく微笑む妻は、ミッターマイヤーが良く知っているエヴァンゼリンの顔だった。
”やはり昨夜のエヴァは夢…なわけはないよな…”
「もう、お出かけなのね? 食事は?」
 結局は妻の顔を凝視していた自分に、ミッターマイヤーはハッとした。
「ああ、ゴメン。もう行かなきゃならないんだ」
 昨日の夕飯も食べていないのに、なぜかお腹が空いたという感じはなかったのである。
「あなた…、空港に行く前に病院に挨拶に行っていいかしら?」
「…ああ」
 そのまま出ていこうとしたミッターマイヤーは、気を改め妻のそばに戻り、その頬に音を立てたキスを贈った。
「じゃ…、またあとで」
「はい」
 フェリックスを横抱きにかかえるように、ミッターマイヤーは走って飛び出していった。その閉じられた重そうなドアを見つめながら、エヴァンゼリンはそっと手を下腹部にやり、軽くなでながら祈るように言った。
「どうか…、どうか、出来ていますように…。そうすれば、きっとあの人は…」
 自分の元に帰って来てくれるに違いない、とエヴァンゼリンは心から信じた。

 


 エヴァンゼリンはソファに腰掛けながら、昨日の朝のロイエンタールとの会話を思い出していた。
 最初自分はフェリックスについて、尋ねた。相手に拍子抜けさせてやりたかったという気持ちもあったが、可愛いフェリックス坊やの行く末も気になったのだった。
 そのことについて、ロイエンタールは多くは語らなかった。
 ミッターマイヤー夫妻の養子に、という話は、夫であるミッターマイヤー止まりのはずでもあったからである。
 
 そして向かい合って座りながら、ついに本題に入ったのだ。
「ウォルフは私の夫です。永遠の愛を誓ったんです」
 それだけ言った。
 その後、どれくらい見つめ合っていたのか…。正確には睨み合ったのであるが。
 エヴァンゼリンは、ロイエンタールに対して、特に負の感情も持っていなかった。しかし、特別関わりたいと思ったこともなく、夫が実家に連れてきたときも、愛想の良い妻を演じてはいたが、ほとんど真正面から話したことはなかった。
 怖いわけではなかったが、背も高く、妙な威圧感を感じるロイエンタールは、エヴァンゼリンの好みではなかった。
 昨日は、それ以上会話はほとんどなかった。
 ロイエンタールの出勤時間が近づいたのもあるが、話し合っても解決策など見つかるものではない、とお互い思っていたし、きっとロイエンタールの方は、妻さえドイツに帰ってしまえば関係ない、と思っていたのかもしれない、とエヴァンゼリンは思った。

「ウォルフは渡さない…」
 思えば、両親が亡くなって、ミッターマイヤー家に引き取られ、これほど何事かを強く自分から望むのは初めてだった。
 夫とロイエンタールのことを、浮気とはエヴァンゼリンは思わなかった。
 むしろ、本気なだけに怖かったのだ。だから、夫に聞くことは出来なかった。
 また夫も様子はぎこちなかったものの、何も言わなかった。

 渡さない、渡したくないとは思っていたが、エヴァンゼリンは夫には何も言い出せなかった。
 結局、黙って待つことにしたのである。

 

  


1999. 9. 20 キリコ
2001.5.29 改稿アップ

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