ドクターエヴァ <その5>
休憩室で目をつむり、何事か考えているドクターがいた。時々形のよい唇からもれるため息がなければ、寝ているのだと思われたかもしれなかい。
オスカー・フォン・ロイエンタールは、公には一応同居人となっているウォルフガング・ミッターマイヤーの妻エヴァンゼリンがシカゴに来てから、ほとんど家には帰らずにすむような勤務態勢を願い出ていた。
気を遣ったのもある。何しろ年に数えるほどしか会えない夫婦である。自分はひょっとしたら二人の邪魔をしているかもしれないが、この『伴侶』だとか『恋人』だとかいう立場を改めるつもりはなかった。
また、夫婦睦まじいところを見たくなかったのである。もしかしたら、こちらが本音かもしれなかった。エヴァンゼリンがシカゴに着いた日、休みを取っていたはずのミッターマイヤーは仕事に来ていた。前夜から聞いてはいたが、ロイエンタールはちょっとだけほくそ笑んだのである。もちろん心の中だけで。
自分達は、どちらともなくこの一週間同じベッドで寝ても、ただ寝ていただけだった。ロイエンタールが必ずそれとわかる痕をつけるからだ。妻が来るのである。夫婦生活の際、見られては困る、と考えたのだろうか。
とにかく、しなかったのである。”それにしても、俺が…ウォルフを手術することになるとはな…”
思いも寄らなかったことに、ロイエンタールでさえ驚きを隠せなかった。それと同時に、そばにいたのに、体調の変化に気づかなかった自分を責めていた。ミッターマイヤーが心配かけまいと黙っていたにせよ、自分が一番近くで見ていたのである。医者失格だ、とは思わないが、恋人失格かも…と反省した。
手術の後の高熱にどれだけ心配したか、ミッターマイヤーにわかるだろうか、とロイエンタールは舌打ちした。
そばについていたい、という思いも、実際にそばにいた妻のおかげで、遠巻きあるいは主治医としてしか近づくことが出来ず、解熱剤も効かなかった身体を、眠れないほど心配した。エヴァンゼリンをホテルに帰したのは、純粋に心配してのことだ…とロイエンタールは自分で思っている。
”あの時、俺はライバルとも思ってなかったしな。実際に彼女も疲れていたようだし…”そう、あの時はまだ、おとなしく優しい、明るいけど控えめな、貞淑な妻なんだ、と思っていた。ミッターマイヤーと結婚する前から知っていたが、ロイエンタールもエヴァンゼリンの笑顔以外見たことなかったのである。
”守られるべき、『妻』という地位が彼女ほど似合う女性もいないと思っていた。例えば、エルフリーデとは正反対のような…”
つまり、ロイエンタールの眼中になかったのである。愛すべき女性なのだ、とは思ったが、魅力を感じたことはなかった。
ただ、自分がミッターマイヤーと深い仲になってしまい、そのことを心のどこかで遠く離れたエヴァンゼリンに済まないと思う気持ちがあったのだった。
”だから、奪ってしまおう、とまでは思っていなかったのだが…”あの朝の会話で、自分の思い違いを知ったのである。
ロイエンタールは、すみれ色の瞳を思い出していた。
その瞳は、はっきりと輪郭を表し、いつもの穏やかさやエヴァンゼリンらしい優しさをたたえてはいなかった。
真正面から、ロイエンタールの金銀妖瞳を見つめ、決して逸らさず、ほとんど睨んでいた。
怖いなどと思わなかったが、背筋が一瞬ブルっと来たことを、ロイエンタールは認めた。
”女にも何パターンかある。
夫の浮気がばれた時、泣き叫んで夫をどなりつけたり、いやどちらかというと相手の女性を恨むことの方が多いらしいが…。この場合は俺か…?
または、ヒステリックに怒鳴り散らし、物を投げてきたり…、ま、これはさっきのタイプと同じだろう。
泣き寝入り…もいるだろうか”
ロイエンタールは、自身が漁色家なことを棚に上げて、女性分析をしていた。しかし、この考察は経験によるものとも言えた。”エヴァンゼリンは…、泣いていなかった。いや、泣きそうな目はしていた。目の端を赤くして、でも決して涙はこぼすまい、と耐えているのが俺にもわかった…”
それでも、その瞳を決して逸らそうとしなかった、そんなエヴァンゼリンの顔や瞳を正直美しいと思った。
”おそらく、ウォルフが言ったのではなく、何かの偶然でばれてるんだろう。だいたい、俺もポロッと『ウォルフ』などと、呼び慣れてしまっていたから出てしまったし…。しかし、ウォルフは演技が出来ないヤツだ…”
あまりにも考えていることが表面に出過ぎる恋人を、少々責めながら、でも愛おしくてしかたなかった。
”とにかく、泣き叫んで俺に『ウォルフを返して!』とも『別れて』言わなかったし、性急にドイツに帰るように、と夫に言ったとも思えん。彼女はウォルフの医者としての夢を大事にしている”
そうなのだ。
『別れてくれ』ではなく、あのすみれ色の冷たい瞳は、『あなたに奪えるかしら?』、そう言っていた、とロイエンタールは感じたのだ。今ウォルフが自分と付き合うのは、一時的なもので、必ず私のもとに帰るのよ?…そう言っていた、とロイエンタールは受け取ったのだ。
「…いい女だ」
長い間閉じていたヘテロクロミアを天上に向けながら、初めて口に出した。
エヴァンゼリン・ミッターマイヤーは、今日ドイツに帰るはずだった。
もう帰っただろうか…、そう思い、帰ったなら、両手をあげてミッターマイヤーに会いに行こう、と早速行動に移すため、横にしていた身体を起こした。ロイエンタールはエヴァンゼリンを避けているつもりはなかったが、やはりミッターマイヤーとともにいる姿を見るのはおもしろくなく、またそれはお互い様だろう、と思っていたため、エヴァンゼリンがいなくなるのを待っていたのだった。
ロイエンタールがほんの数分前に『いい女』と認めた女性は、ERの入り口そばの受付にいた。横には夫が立っていたが、ロイエンタールに背中を向けており、こちらには気がつかなかったようである。
”まだいたのか…”
それにしても、ミッターマイヤーに会うのは、やけに久しぶりな気がした。
仕事でお互い会えない晩も多いが、しかし間に誰かをはさんで、そのために会えなかったのは、恋人になってから初めてのことだったのである。
ロイエンタールは休憩室のドアの前から動かなかった。
こちらに顔を向けていたエヴァンゼリンがロイエンタールに気がついた。
一瞬目があったが、すぐに目線を夫に戻し、かわいらしい優しい妻の笑顔を見せていた。
”エヴァンゼリンの方が、演技はうまい”
ロイエンタールには、その笑顔がすべて演技に見えてしまうようになったか、とほんの少し反省した。しかし、あまりにも先日のエヴァンゼリンが強烈な印象だったため、今後もそうなのかもしれなかった。
ロイエンタールは、遠くから夫婦の優しい談笑の雰囲気を、おもしろくなさそうに腕組みしながら見ていた。
エヴァンゼリンは本当に帰るところらしい。小柄の身体の後ろにはスーツケースがあり、最後の抱擁をしているらしかった。
ふん、とロイエンタールが鼻で笑った瞬間、夫婦は最後の接吻をしているらしかった。
”俺は、他の誰でも、ウォルフとキスするのを見るのは、好きじゃない”
そう思い、目を逸らせようとしたが、そうするよりも早く、遠くのすみれ色と目があったのである。
ロイエンタールはその瞳を一生忘れない、と思った。
”今回、最後の挑戦状か。わざわざERの中で見せつけてくれてるんですか、フラウ?”
こちらも負けずに遠くから睨んでやろう、と思ったときには、エヴァンゼリンは夫の方へまた目線を戻していた。
”そちらがそういうつもりなら…、俺は遠慮せんぞ。エヴァンゼリン・ミッターマイヤー”
この一週間、激務に追われ、プライベートでも気を使い、疲れたロイエンタールは早めに帰宅し、明日からの休みを楽しみに待った。
しかし、ロイエンタールとは正反対に、ミッターマイヤーは手術で休んだため、これから激務の入るところだった。手術したあとでもあり、家に帰ってきたら、ゆっくり休ませてやらなければならない、と理性では思いながらも、きっと自分の理性を押さえられないだろう、とロイエンタールは自覚していた。
家には、エヴァンゼリンが夫のために作った食事が用意されており、置いてあったメモには、ロイエンタールさんもどうぞ、というようなことが書いてあった。
”…女が殺人事件とか自殺するとき、毒物を使うというが…”
そんな想像をして、ロイエンタールは自分で自分を笑った。
どうも、彼女を怖がっているのではなく、恐れている自分がいるらしい、ということをロイエンタールは素直に認めた。
”ライバルと認めてやる”
などと、えらそうなことを思いながら、100歩も1000歩も遅れを取っている気がするロイエンタールだった。「フェリックス。お前は誰の味方だ?」
リビングの隣りの子供用の椅子に腰掛けたフェリックスは、問いかける人の方を見ながら、しかし自分の食事が待ち遠しいらしく、スプーンを持ったまま止まっているロイエンタールの左手を引っ張った。
「なるほど。食事が一番大事か…」
そう苦笑しながら、せっせと育ち盛りの息子に夕食を愉しませていた。夕食後、ソファでフェリックスを抱いたまま、ロイエンタールは考えていた。
”俺達はこのままでいいのだろうか。フェリックスは…、俺一人でいいだろうか。”
問いかけるような眼差しを、膝の上の住人に向けたが、彼はほとんど眠気に襲われているらしく、まぶたがほとんどくっついていた。
”今すぐ、エヴァンゼリンのもとに戻ってもらえば、何事もなかったかのように、元の鞘に戻るのか…?”
いや、おそらくはそうならないだろう、とロイエンタールはすぐに自分の考えをうち消した。
”だいたい、俺は妻の方の気持ちは聞いたが、ウォルフにはまだ何も聞いていない。もしも…、俺との別れ話でも出たら…”
そう思うと、疲れてでも帰ってくるのが楽しみだった恋人の帰宅が、少し勇気のいることに気がついた。
”エヴァンゼリンがあれだけ自信満々で帰ったんだ…。もしかしたら…”エヴァンゼリンの、ロイエンタールが言うところの『演技』は、見事にロイエンタールを悩ますほど、迫真のものだった。
1999. 9. 21 キリコ
2001.5.29 改稿アップ