ドクターエヴァ <その6>
約30時間ぶりに、ミッターマイヤーは帰宅した。
かなり疲れているらしいことがその顔を見ただけでわかったが、ロイエンタールは出来るだけ早く恋人と話をしたかった。
まともに話すのは、ほとんど10日ぶりなのである。
「ただいま」と顔も上げずに言い、滅多に使わないミッターマイヤーの荷物置きのような自分の部屋へさっさと入ってしまった。ロイエンタールは、声をかけるタイミングをはずし、すぐに出てくることと期待したが、なかなか出てこず、ますます避けられているのでは、と心配になった。
部屋の前に立つと、中から家具を動かすような、重くこすれた音が聞こえていた。
”何してるんだ…?”
その音すら、自信のないロイエンタールには、引っ越しの準備にも聞こえ、ますます不安がつのった。
「ウォルフ? 何をしてるんだ?」
ノックの音とともに、つとめて冷静な声で尋ねた。
「オスカー?! 入って来ちゃダメだぞ!!」
”まだ『オスカー』と呼んでいるし…、大丈夫…かな?”
なぜ入室してはいけないのか疑問に思うよりも、そちらの方に安心した。
「わかった。話があるんだが…」
「…すぐ行くよ」
すぐ、と言ってから、裕に30分は経ってから、ミッターマイヤーは入った時と同じような表情で出てきた。
その顔をじっと見つめながら、恋人の様子を探ろうとしたが、ミッターマイヤーが何を考えているのかよくわからなかった。「座ってくれ」
自分の左側の小さめのソファに、ミッターマイヤーを腰掛けさせ、ソファに深々と座っていたロイエンタールも身を乗り出した。お互いがお互いの表情を読んでいる、という雰囲気をお互いが感じ取り、何やらぎこちなく、どちらも言い出しにくいことがある、といった感じだった。
ミッターマイヤーもロイエンタールとこうして向かい合って話をするのは久しぶりでもあり、嬉しく思っていたが、同時にエヴァンゼリンとのことで後ろめたさを感じ、また探し物が見つからないのが気になってしかたなかった。
「ウォルフ。相談がある」
ロイエンタールがそうきり出したとき、ミッターマイヤーは身構えた。
「…おとつい外反母趾の女の子が運ばれて来た。その子はどうなった?」
その質問の意外さに、ミッターマイヤーは一瞬内容を理解出来なかった。てっきり自分達についての話だと思っていたからだ。
「…え…?」
「バーバラって言ったかな」
「あ、ああ…。手術を薦めたけど断って、鎮痛剤をもらって帰って…。結局今日また運ばれて来た子だな。彼女がどうかしたのか?」
まだ、どうしてそんな質問をするのかわかっていなかったが、とりあえず患者の話である。真剣に答えた。
「コンクールが近いとかで、手術をいやがった。だが、お前も診たろう? ひどい状態だ。お前から、手術するよう薦めてくれないか?」
「…だが、本人がイヤだと言っているのに…?」
「歩けなくなるぞ。コンクールと一生とどっちが大事なんだ」
「…でも、彼女が今度のコンクールにすべてをかけていたら?」
「…コンクールはまたあるだろう」
「しかし…、外科的治療がすべてではないし…、まだ13歳で…、」
そこまで勢い良く会話して、ようやくミッターマイヤーも気がついた。
このような会話は、患者本人がいないところでしても、たいして解決にはならない。しかしロイエンタールは自分と話のきっかけとして、彼女のことを話題にしたのだろう。恋人のそんな気遣いに、感謝するとともに申し訳なく思った。
”ゴメン、オスカー…”
一方、ロイエンタールもほとんど不毛な会話をしながら、恋人の表情がだんだん生き生きと医師らしくなっていくのを感じていた。家の中で患者について話すのことはほとんどなかったが、やはりミッターマイヤーはドクターという仕事に大きな情熱を傾けている、とロイエンタールは誇らしく感じた。ようやくミッターマイヤーは真正面から恋人の金銀妖瞳を見つめ、ミッターマイヤーらしい笑顔を見せた。
ロイエンタールはその笑顔でホッとし、滅多にしない優しい表情で見つめ返した。
「ウォルフ」
優しい低い声でそう呼ばれ、ミッターマイヤーもため息のように恋人の名を呼んだ。
「…オスカー」
おそらくは、それだけで自分たちが変わっていないことを感じたが、ロイエンタールにはミッターマイヤーが何か隠していると思っていた。
ロイエンタールは、腕をひっぱり恋人の身体を引き寄せ、自分の腕の中に閉じこめた。
久しぶりに触れる恋人を最初はややおずおずと、しかし我慢できず、力強く抱きしめた。
「ウォルフ」
ミッターマイヤーは自分の頭の上からと耳を当てている胸から、自分の名が呼ばれるのを聞き、最高に幸せな気分に包まれていた。
”オスカーのそばにいたい”
その瞬間に思った、ミッターマイヤーの素直な気持ちだった。
しばらく抱き合ったまま静かな時間が流れたが、自信を取り戻したロイエンタールはどうしても問いつめずにはいられなかった。
「ウォルフ。お前何か俺に黙っていることはないか?」
勘違いでなく、腕の中の小柄な身体はビクッと震えた。
「…え? な、何かって…別に…」
恋人の背中にせいいっぱい腕を伸ばし、しがみつくように抱きついていたその両腕に、ますます力が入った。
”やはりごまかすことの出来ないヤツだ”
そう苦笑しながら、問いつめようやく白状した内容は、プラチナのリングのことだった。
「なんだ、そんなことか」
ロイエンタールはただそう思った。
「そんなことじゃないだろう?! あ、いや無くした俺が悪いんだけど、でもお前がくれた大事な…」
ミッターマイヤーはそこまでしか言えなかった。唇が塞がれたからである。
ロイエンタールから直接口の中へ伝えられた言葉が、ミッターマイヤーに理解出来ただろうか。ロイエンタールはとりあえず身体を離し、恋人を置いて、ベッドルームへ入っていった。
戻ってきたときには、探していた大切なリングが握られており、黙ったままミッターマイヤーのあるべき位置にその指輪を納めた。
「…なんでお前が持って…?」
「ウォルフが、自分の部屋の目立つところに置いているとは思ってなかったからな。手術のあと部屋に戻って驚いた。俺が先に気がついて良かったけどな」
もう少しロイエンタールがその指輪の存在に気がつくのが遅かったら、エヴァンゼリンの目に触れていたかもしれない、と言いたかったのだが、その名前を今恋人の前で出したくはなかった。
「…ゴメン」
頬を赤くして、見つかって嬉しいのと、自分の不注意が恥ずかしいのとで、顔を上げていられなかった。
「でも良かった…」
そういいながら、指輪をなでるミッターマイヤーを、ロイエンタールは勢い良くソファに押し倒した。
「イタッ!!」
思わずそう叫んだミッターマイヤーに、少しだけ悪いと思い、自分の身体を自分で支えたが、あくまでその上からはどかなかった。
ミッターマイヤーも、思わず言ってしまっただけで、特にいやだったわけでもなかった。
しかし、ミッターマイヤーは躊躇していた。
「オスカー…、今日は…」
もじもじしながら断ろうとする恋人の願いをロイエンタールは黙ったまま無視することにした。
「待ってって! ダメだって!!」
恋人の唇が首筋を通り、その大胆な手が自分の下腹部をなでたとき、思わず叫んでいた。
”何がダメなんだ、ウォルフ!!”
心の中で尋ねながら、ロイエンタールは2週間ぶりの恋人との時間を止めることは出来ない状態にあった。
まだジーパンのままの恋人の下半身をあっというまに何も着ていない状態にしたロイエンタールは、その印に驚きを隠せなかった。
「あ…」
その言葉を発したままの口で呆然とし、すべての動きを止めたロイエンタールに、ミッターマイヤーは顔や頭から火が出る思いだった。
「だ、だからダメだって…。見るなって!」
そう言いながら、自分自身を隠そうとするミッターマイヤーに、
”どこを隠してるんだ? キスマークは見えてるぞ?”
虫垂炎の手術の傷跡のそばに、他に見間違いようのない印が、まだ赤くはっきりと残っていた。
自分は2週間前にこんなとこに付けていないし、ついていたら手術の時に気がついたはずである。
ミッターマイヤーが自分で付けることが出来るような場所でもないし、だいたいそんなことはしないだろう。
そうなると、犯人は一人しかいないのである。
”『ウォルフ』にキスする権利は自分にもある、と主張していったのか…?”
そう思うと、メラメラした気持ちでいっぱいになり、その印の上に、自分も強烈なキスマークを付けることにした。あまりにもきつく吸い上げたために、ミッターマイヤーが痛いと叫ぶほど…。
ではミッターマイヤーは何が恥ずかしかったのか、というと、
「…なんだかチクチクするな、ウォルフ」
恋人の心ないそんな一言に、ミッターマイヤーはその頭をバシバシと殴った。
「だから!! まだ……ってないからヤダって言ってるのに!! お前はぁ!!!」
もしもここに枕があったら、それで殴られていたか、その枕に顔を埋めて隠そうとしたか。とにかくあまりにもとんちんかんなことで一人照れているミッターマイヤーを、この上なく楽しく愛しく想った。
”ああ、ウォルフ。お前ってヤツは…”
その夜、久々の、ほんの少しぎこちない熱い夜を過ごした二人は、フェリックスの泣き声にも目を覚まさなかった。
1999. 9. 21 キリコ
2001.5.29 改稿アップ