ドクター

27歳と1日目

 


  
 ウォルフガング・ミッターマイヤーの27歳の誕生日、恋人と甘い夜を過ごそうと休みを申請していたが、諸事情により、結局夜勤にまわることになってしまった。
 そのため、甘い熱い夜は前日に過ごすことになったのである。

 誕生日の朝、目覚めると目の前には整った顔をした恋人の顔があり、少し瞼が腫れて見えるのは、珍しく綺麗な涙を流しただめだと思うと、ミッターマイヤーは嬉しさが倍増した気分だった。眠っている間に二人は別々になっていたようだが、おそらく今日明日、ロイエンタールは座るのもつらいのではないだろうか、と自分の経験から思った。
 あのプライドの高い、誰もが振り返りそうなほど美形の長身で、手際には惚れ惚れしてしまう有能な外科医で、フェリックスという子どももいるけれど、おそらくその整った顔の奥にある脳の中には、自分、ウォルフガング・ミッターマイヤーが最も存在感があるに違いない、と信じられる最近、ついにその大切な愛しい存在をこの腕に抱けた、という男としての満足感から、ミッターマイヤーは興奮でよく眠れなかったのである。
 枕に半分埋められた顔をそばでまじまじと見つめると、目の下にくまが見られた。
 乱れたダークブラウンの髪が額に一房かかっており、それを手でそっと横へなでつけた。
 その手をそのままゆっくりと頬にのせたが、ロイエンタールは全く起きる気配がなかった。
”眠りの浅い、早起きのオスカーが…”
 疲れていること、疲れさせたことに反省しながらも、疲れさせたのが自分だ、ということにとてつもなく満足感を感じた。
”ゴメン、オスカー。ありがとう”
 手を当てていた頬にキスをしたが、それでもロイエンタールは目を覚まさなかった。

 結局ミッターマイヤーの出勤時間になってもロイエンタールは目を開けず、わざわざ起こすこともないか、とちょっとだけ寂しく感じながら、フェリックスに行って来ると言い残し、出勤した。
 その日の夜勤は、特別忙しくもなく暇でもなく、ごく当たり前の夜であった。
 しかし、間断なく運ばれてくる患者に、ドクター達はまとまった休憩を取ることも出来ず、寝不足のミッターマイヤーには少しきつかった。
”かえって、忙しすぎる方が眠気を感じないんだけど…”
 そう思うそばから、あくびをしていた。

 真夜中、自分が生まれたその日が終わりそうな時、ミッターマイヤーは家にいるはずのロイエンタールに電話した。恋人に電話することもあまりなく、かえって緊張した。
 日が変わってしまう前に、伝えておきたかった言葉があったのだ。しかし、フェリックスと一緒にいるはずの恋人は、不在なのか電話には出なかった。
”出勤してきて…ないしなぁ”
 ボードを見ながら、しつこくコールを繰り返す電話口につぶやいた。
 シャワーか、寝ているのか、と思い、半分諦めた。その後急患が来たこともあって、それ以降電話する機会はなかった。

 明け方、ようやく仮眠室に入ることが出来たミッターマイヤーは、ちょうど深い眠りのまっただ中にたたき起こされた。ただでさえ寝不足の上、最もすっきりしないタイミングに起こされ、なかなか頭は動こうとしなかった。それでもまず耳から入った情報で、その周辺は覚醒した。
「Dr. ミッターマイヤー! 大変です!」
 仮眠中のドクターを起こす時は、一言「急患」という方がパッと起きられるのに、などと人ごとのように考えながら、自分に話しかけられていることを遅ればせながら認識した。
「え?…急患? 急変?」
 全く起きあがろうとも、目を開けようともしなかったミッターマイヤーほぼ反射のようにそう答えていた。しかし、次の一言でこれ以上ないほど勢いで飛び起きた。
「Dr. ロイエンタールが運ばれてきます!」

 
 
 目覚めるというよりも、直接皮膚に伝わるような言葉に、心臓が悲鳴をあげた。
 起こしに来たナースが誰かもわからないのに、その一言が頭の中でこだまする。
 速く行かなければ、と思うのに、目覚めきらない身体は思うように動かない。

”オスカーッ!”

 叫んでしまいたかった。
 つい昨日、抱いた愛しい人に、何があったのか、と考えるよりも先に、一目無事を確認したい一心で、ミッターマイヤーはもつれる足を必死で前後させた。
 ついさっき、聞いたばかりのこのことに、すでに胃がキリキリし、冷や汗が出てくるのを感じた。

 

 ERの入り口へ向かおうと角を曲がると、一斉にとんでもない音が炸裂した。
 冷静さを失っていたミッターマイヤーは状況を理解しようとする前に、頭を抱え込み、もう少しで座り込むところだった。
 その左右から来るたくさんの音は、クラッカーだった。
 入り口の自動ドアは開いていて、確かに救急車はあった。
 たくさんの人込みの中でもすぐに見つけられる愛しい人の姿はそこにあった。
 穏やかな優しい笑顔でこちらを見ている。その腕の中には、おしゃれをしたフェリックスを抱いている。

「…オスカー?」

 小さくつぶやいたと同時に、これまでもやが掛かっていたような周囲がはっきりしてきた。
 たくさんの同僚達は、口々に自分の誕生日を祝う言葉を叫んでくれていた。
 患者を運ぶストレッチャーの上に載せられた大きいバースディケーキが目の前に運ばれ、そこに自分の名前を発見し、おそらくは年齢分あるろうそくを見たとき、ようやくこれがサプライズパーティだと気がついた。
 周囲のみんながバースディソングを合唱し始めたとき、隣にいたスタッフが「ろうそくの火を」という合図を送ってきた。何が何だか理解するよりも前に、周りではお祝いに盛り上がり、自分も無意識のうちにろうそくに向かい、深呼吸したあと、27本分の火を一度に吹き消した。
 大拍手が起こった。
 早速ケーキは切られ始めている。
 皆が自分の誕生日を祝ってくれているのである、自分は笑っているだろうか、などと考えながら、思い思いのキスやらハグやらを受けながら、ケーキを一切れ受け取った。
 主役がまず食べろ、ということらしかったが、ミッターマイヤーは目覚めたばかりであったし、何より先ほどまで胃を別のことに使っていたのだ。受け付けるとは思えなかったが、嬉しそうな表情をたくさん見ていると、とても断れず、一気に食べるように口に入れた。

 さすがに大きく、アワアワとしゃべることも出来ず、皆にお礼を言うことも出来なかったが、祝ってくれていた人々はゆっくりとケーキを堪能すべく、休憩室へストレッチャーごと移動していった。
 ER入り口にはむせたミッターマイヤーとロイエンタール、フェリックスだけになってしまった。
 ケホケホと涙ぐみながら、胸をドンドンたたいているミッターマイヤーに、ロイエンタールはゆっくりと近づき、そばまで来てから、
「誕生日、おめでとう。ウォルフ」
 ミッターマイヤーにはまだむせかえった返事しか出来ず、涙目で見上げるだけだった。
「ま、俺達は昨日ちゃんとお祝いしたがな」
 そう言いながら口の端をニヤリとあげたその表情に、ミッターマイヤーは自分の頬が赤くなるのを感じた。
 しかし、まだ口の中に残っているのである。うまくしゃべることが出来なかった。
「それにしても、ケーキを用意したのは俺なのに、あの勢いでは俺の分は残ってないだろうな」
 休憩室の方へ目をやりながら、ロイエンタールは小さくため息をついた。
 ミッターマイヤーも振り返りながら、とにかく速く嚥下しようとしていた。
「ま…俺はこれでいいか」
 ロイエンタールはあいている右手でミッターマイヤーの頬に触れた。その頬は上下にせわしく動いており、恋人が一生懸命食べきろうとしている様子がうかがえた。
 その頬には、たっぷりの生クリームがついていたのだ。ロイエンタールはそれを人差し指ですくいあげ、自分の口の中に運んだ。
 ロイエンタールのその行動で、自分の顔にクリームやらスポンジやら付いていることがわかったミッターマイヤーは慌ててこすり取ろうとした。
「あ、待て」
 その手を止めながら、ロイエンタールはその頬に自分の唇を口づけた。
 一瞬でグレーの瞳は見開かれたが、珍しく反撃はなく、大人しくされるがままであった。
 職場でいちゃつくのは極度にいやがるミッターマイヤーなのに、といぶかしみながらも、抵抗がないのをいいことに、頬や顎だけでなく、その唇にまで自分の唇を重ねた。ミッターマイヤーは決して瞳を閉じず、抗いもしなかったが、舌を入れようとしたときに初めて少しだけ身体を引いた。
 ミッターマイヤーがゴクンと下を向きながらほとんどすべてを飲み込んだらしいと見て取れた後、顔を上げたグレーの瞳は潤んでいた。始めはむせたからだろうと思っていたが、その潤みが増えていく様子にロイエンタールはやや慌てた。
「ウォルフ…?」
 澄んだグレーの瞳がだんだん細められていくことに、ロイエンタールはどうして良いのかわからず、その身体を自分に引き寄せた。引き寄せられた身体から、両腕がおずおずと背中に回されるのを感じ、少しホッとした。
 恋人は、腕の中で何か小さくつぶやいた。
「…ている」
「…何だって? ウォルフ。もう一度言ってくれるか?」
 片手にフェリックスを抱いているロイエンタールは、ずれかけたフェリックスを抱き直しながら恋人の耳に囁いた。
「…お前のキスは温かかった。オスカーが生きてるって思ったんだ」
 ロイエンタールは黙ってその背中をなで始めた。
「俺…お前にありがとうも言ってないのに…、本当に死…、いなくなったら、どうしようかと思ったんだ。
良かった…。生きててくれて…」
 ロイエンタールは、こんなに明るい朝日の中で、やたらと素直なミッターマイヤーに戸惑い、からかうことも出来ず、もっともらしいことを言った。
「ふむ。ここがサプライズの悪い所かな。医療従事者同士だとかえって質が悪くなっているかもな。ウォルフ。去年の俺が、どれだけ驚いたか、よくわかっただろう」
 責めている、というよりは、同じ気持ちだった、と匂わせた優しい口調に、ようやくミッターマイヤーは小さく笑った。
「そうだったな…」
 2人で小さなため息をつきながら、しばらく黙って抱き合っていた。

「もうすぐ俺の誕生日だな。ウォルフ?」
「…俺は何がほしい?って聞かないぞ」
 そう言ってクスクス笑う恋人が、ロイエンタールは少々小憎たらしかった。
「でも、オスカー。その…身体は大丈夫…?」
「まぁ…」 
今度はロイエンタールが照れ笑いする番だった。


「オスカー。誕生日、祝ってくれて…、お前をくれて、ありがとう。俺、ずっと大事にするから」
 ミッターマイヤーは背中に腕を回したまま、顔を上げ、金銀妖瞳とグレーの瞳を合わせながらはっきりと言った。
「…出来れば一生頼む」
「うん」
 ミッターマイヤーは即答した。

 ずっとそばで聞いていたフェリックスが初めて声を出した。
 二人の父親はフェリックスを同時に見て、ほぼ同時に、
「フェリックスの誕生日が先だ」
 と言い、笑った。

 

 8月最後の日。
 シカゴはすでに秋の気配が漂い始めていた。

 

 


1999. 11. 10 キリコ
2001.7.28 改稿アップ

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