ドクター

エルフリーデ <闘病>


 ロイエンタール家のロイエンタール、ミッターマイヤー、そしてフェリックスはそれから1年、何事も無いとは言えないが、まず平和な日々を送っていた。相変わらずけんかは絶えなかったが仲の良さは周知の事実であったし、フェリックスが時々風邪を引いたりもしたが、ごく日常的なことばかりで、大きな変化はなかった。
 一度、ミッターマイヤーはドイツへ帰国している。エヴァンゼリンとロイエンタールとを同時に見る勇気がなかったからでもあり、実家に帰ること自体が久しぶりであったのだ。久々に会う両親は、自分たちの息子よりもそばにいるかつての養女、現在嫁であるエヴァンゼリンの方がかわいいらしく、まるで子どものように小言を聞かされてシカゴに戻ってきたのだった。それでも懐かしい我が家であり、ミッターマイヤーの家族だった。しかし、ミッターマイヤーはドイツの家族に「シカゴに帰る」と言って戻ってきていた。

 
 またフェリックスが2歳になる頃になっても、エルフリーデはまだ闘病中だった。

 急性骨髄性白血病にもいろいろなタイプがある。
 エルフリーデのタイプは、その中でM2に分類される。
 診断されすぐに入院し、化学療法が開始された。化学療法は癌化した白血病細胞を落ち着かせるために行われ、寛解(骨髄・末梢血液像・身体所見・自覚症状すべてが正常となった状態。治癒したわけではない)するまで続行される。
 急性白血病の場合、この寛解に入るまでに出血か感染症の危険が高く、死因としては最も多く、万全な支持療法が必要である。そのため、患者は逆隔離されることが多く、血小板輸血される。
 
 治療法もいくつかある。
 化学療法(寛解導入法)で寛解させ、その後地固め療法として、白血球を安定させ、維持・強化療法に持っていくか、または第1回目の寛解時に骨髄移植を行うか、または寛解が見られないまま骨髄移植を行うこともある。
 エルフリーデの場合、第2回目の寛解導入法で全身状態は安定した。しかし、ちょうどその時骨髄提供者(ドナー)が見つからず、化学療法が続行された。

 エルフリーデは個室に入院していた。
 そして、逆隔離のため面会も制限されている。
 しかし、本人のたっての希望と、そして患者自身の精神的安定のため、フェリックスの面会は許された。

 エルフリーデが入院している間、ロイエンタールやミッターマイヤーは可能な限りフェリックスを連れて見舞った。はじめロイエンタールは「関係ない」と反対したが、フェリックスを連れていったときのエルフリーデの顔を見たことと、それによって患者本人の免疫力が高まるであろうことをドクターとしてわかったいたことと、ミッターマイヤーに説得されたせいもあって、しぶしぶではあるが、ロイエンタールもエルフリーデを見舞うようになった。
 病気になったのはエルフリーデ自身の罪ではない。フェリックスを手放さなければならなかったのは、彼女自身の意志によるものではなく、病気の治療さえなければ決して離さなかっただろう。
 しかし子どもというのは、非常に感染しやすい存在で、その状態で免疫力の落ちた患者に近づくと、その患者まで感染することが多く、病院側は子どもの面会を喜ばない。
 しかし、それをあっさりと承諾したのが、主治医のワルター・フォン・シェーンコップであった。

 シェーンコップというドクターほど、ドクターらしくないのも珍しいだろう。30代前半のベテランドクター手前である。型破りで上司とも上手くいかない。それさえなければスタッフドクターに迎え入れられただろう。
 しかし判断力や知識は豊富であり、粗野に見えるが実は丁寧で患者は親しんでいた。病棟で問題となるのは、自分のやりたいようにやるため上司に睨まれることと、美人をくどくくせがあるくらいだった。


「今のところ、寛解して落ち着いている。維持化学療法に切り替えるつもりだ」
 エルフリーデの主治医は、当初婚約者だといって面会に来ていたロイエンタールに、治療経過を話した。今ではロイエンタールが婚約者でないことも、ミッターマイヤーが婚約者の弟でないことも、彼らがドクターであることも知っていたが、病棟内でとやかく言う人はいなかった。
「ドナーは見つからなかったのか」
 尋ねるというよりは、つぶやくようにミッターマイヤーはロイエンタールの隣でうなずいた。その腕の中でフェリックスが眠っていた。
 もちろんロイエンタールもミッターマイヤーもドナー検査をしたが、そんなに簡単にHLAの型があう人間が見つかるものではないのだ。
「まあ、エルフリーデは若いし、体力もある。そしてその坊やのために頑張っているらしいからな」
 よだれを垂らしながらスヤスヤと眠っているフェリックスの顔を見ながら、シェーンコップは言った。ミッターマイヤーも同じように、そしてしばらくしてロイエンタールも同じようにフェリックスの寝顔を見つめ、そこにいた全員の瞳が自分に集中していたことをフェリックスは知らなかった。
「その方法であいつが納得してるなら、それでいい」
 言葉の端に、「俺達は関係ない」とでも言いたげな物言いに、ミッターマイヤーは小さく「こら」とだけ言い、シェーンコップは特に気にするでもなく、何の反応も示さなかった。

 シェーンコップの目から見て、フェリックスはエルフリーデとミッターマイヤーの子だと思われた。それはロイエンタールのこのような冷たい態度からも思えたし、エルフリーデがほとんどフェリックスとミッターマイヤーにしか話しかけないからである。しかし、それならばなぜロイエンタールが面会に来るのか説明がつかず、当人たちに尋ねることも憚られた。
 シェーンコップもゴシップに興味があるわけではなく、とりあえず母親がエルフリーデであり、フェリックスの面会によって、彼女の気分が上昇することが大事であった。そのため、いつもたいてい一緒に面会に来る二人に、フェリックスを出来るだけ合わせるようお願いしたこともあった。
 フェリックスの瞳は、ロイエンタールの左目にそっくりだった。シェーンコップは確認もせず、ロイエンタールの子か、とただ一人で納得していた。

 

 エルフリーデは気位が高く、化学療法によって毛髪がすべて抜けてしまい、多くの女性が帽子などをかぶるのだが、エルフリーデは形の良い頭を堂々と晒していた。
 また嘔気や倦怠感など、副作用がひどいこともあったはずなのに、ドクターやナースにあまり苦しむところを見せようとせず、「平気よ」と言い張った。
 そんなエルフリーデを受け持ったシェーンコップは、たいてい女性は泣き叫ぶと思っていたのに、と感心し、彼女の心理状態を観察していた。
 化学療法の苦しさよりも、フェリックスとの面会が終わったあとのエルフリーデの表情が、かなりつらそうであり、いつも額に眉を寄せていた。その表情を見て、エルフリーデが心からフェリックスを待ち望んでいることがシェーンコップにも痛いほどわかったのだった。

「お前さん。苦しい時はそう言っていいんだぜ?」
 ドクターが患者に掛ける言葉とは思えないような口調で、シェーンコップは話しかける。これはどんな患者に対しても同じようにしていた。
「大丈夫といったら大丈夫なのよ」
 エルフリーデも敬語もなければ、美しい顔で睨みをきかせて、自分の主治医を鬱陶しそうに対応していた。
「そうか? たまには素直になってみるのもいいもんだぜ? フェリックスはいい子じゃないか」
 まるで口笛でも吹きそうな顔で明るく、しかし目だけは真剣に語りかけた。
 エルフリーデは、シェーンコップのこういうところが苦手だった。明るく賑やかで、いい加減なように見えて、実は自分をよく見てわかっているらしいドクターらしくない主治医の、さりげない一言にズキッとくることがあるのだ。そして言い返せない自分を歯がゆく思い、悔しさに唇を噛むことが多かった。

 フェリックスがエルフリーデのことを、産みの母親、入院するまで大事に育てていた母親だということを理解しているのかどうか、わかる者はいなかった。しかし、フェリックスはエルフリーデに懐いていた。
 ベッドの上で座るエルフリーデに抱かれたフェリックスは、その白い顔を見つめあげ、笑顔を見せると同じように笑い返して、声を上げて喜んだ。そして、そのまま静かに眠りに落ちることもあった。
 そんな母子の姿を、父親二人は二人とも眉を寄せながら黙って見つめていた。
 ただし、眉を寄せる理由は、微妙に違っていた。

「フェリックス、重くなったわね」
「…ミルクもよく飲むし、離乳食も何でも…あ、カボチャだけだめですけど…」
 エルフリーデはいつもミッターマイヤーに話しかける。それは、ロイエンタールと話したくないからなのか、話しかけてもそっけない返事しか帰ってこないからなのか、またはフェリックスのことはミッターマイヤーの方が詳しいに違いないと思っているからかもしれなかった。
 ミッターマイヤーはずっと年下のエルフリーデにいつまでも敬語が抜けなかった。誰とでもすぐに親しくなるミッターマイヤーだが、エルフリーデとの複雑な関係がそうさせているのかもしれなかった。ドクターとして患者の苦労を思い浮かべもし、親として子どもと離れなければならない心情を考えると、個人的な嫉妬心などは置いておき、望む限りフェリックスに会わせ、普段のフェリックスについて話そうとしていた。
 エルフリーデの病室は、フェリックスの写真だらけだった。

 ロイエンタールはたいてい面会に来ても黙って座っているだけだった。しかし、ロイエンタールなりにエルフリーデを観察しているらしく、家に戻ったとき「今日は顔色が悪かった」などと小さくつぶやくこともあった。別れたとはいえ、子どもまでもうけた仲であり、今現在の恋人と同棲し、結婚もし、フェリックスを二人の子として育てているのに、別れた女に会いに行かなければならない自分を、自分なりに呪っていたのかもしれなかった。
”自業自得…かな”
 思わず舌打ちし、なぜ純粋にミッターマイヤー一筋で来なかったのか、かつての自分を責め、後悔していたのだった。

 エルフリーデが、ロイエンタールとミッターマイヤーについてどう感じているのかは誰にも語らなかったが、多少なりとも見当はついていたのかもしれなかった。
 ロイエンタールとフェリックスだけで面会に行くと、必ず、
「お前の同居人は?」
 と聞かれるからだ。
 同居した友人を必ず連れてくる必要はないと、一般論的にロイエンタールは考えたが、自分はフェリックスについて話さないから、ミッターマイヤーから聞きたいのだろう、と結論づけ、出来るだけミッターマイヤーもともに面会に訪れた。
 逆に、ミッターマイヤーとフェリックスで行ったとき、エルフリーデは何も言わなかった。
 しかし、その表情は何となく元気がない気が、ミッターマイヤーはしていた。

「オスカー。お前明日空いてる?」
「明日は1日中オペ」
「…俺面会に行って来るけど…?」
「ふ〜ん」
 そんな短い会話の間、ロイエンタールは読んでいた雑誌から顔を上げなかった。
 ロイエンタールの心情は、とにかく不思議で複雑なものだったである。
 かつての恋人(といっていいのかもわからない)と、今の恋人であり伴侶だと思っているミッターマイヤーが自分のいないところで会っているのである。しかも、自分たちの子にしようと思っているフェリックスはエルフリーデと自分の子なのである。
”あああ…何なんだ、俺は…”
 自分を中心に周囲を振り回している自分自身を、ロイエンタール自身扱いきれないでいた。
 ミッターマイヤーはそんな心情を知っているのか気づかないのか、ため息をつきながら、黙ってそばから離れた。

 エルフリーデが入院して半年ほど経ち、フェリックスも寝返りしたり人見知りしたり、もう少しで立てるかな、などかなり成長したなと思われる頃、
”こんな状態がいつまで続くのだろう”、とロイエンタールは考えていた。
 化学療法で行くと決まった以上、最低でも2年はかかる。
 ミッターマイヤーは、フェリックスがロイエンタールの家に来たとき、エルフリーデの病状を見ようと言った。それ次第で自分たち夫婦の養子を考える、と。
 しかし、もしエルフリーデの闘病生活が4, 5年にもなったら、ロイエンタール、ミッターマイヤーの研修期間も終わり、転院の可能性も出てくるだろうし、ミッターマイヤーはドイツへ帰るかもしれなかった。

”では…ウォルフと俺は…どうなるんだろう…”
二人の関係が、エルフリーデの病状と大きく関わっていることをロイエンタールは実感した。

 

 


1999.11.21 キリコ
2001.9.20改稿アップ

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