ドクター
エルフリーデ <驚愕>
エルフリーデが入院して1年経つ頃、感染による高熱を発した。
白血球を押さえているため、感染するとたちどころに全身状態が悪くなる。
連日の104F(40℃)度近い熱に、身体は体力を失い、一時期はその生命が危ぶまれた。
時々意識を失うエルフリーデは、うなされるようにフェリックスの名を呼び続けた。
呼びかけても反応がないエルフリーデの汗ばんだ細い手を、主治医のシェーンコップはずっと握りしめ、静かな低い声で話しかけ続けた。
時折うっすらと目を開けて、視線をうつろに彷徨わせるエルフリーデに、シェーンコップははっきりとした声で話しかける。
「しっかりしろ」
その声のする方にゆっくりと首を向けると、シェーンコップは冷たいタオルで額を吹きながら、何度も同じ言葉を繰り返した。
エルフリーデの乾いた唇ゆっくりと動いたが、声にはならなかった。対処療法中心でいたが、解熱剤投与で少し楽になったエルフリーデは、目を覚ます度にそばにいた人物に呟くように言った。
「私…死ぬの…?」
その呟きは、気弱になった患者ならどんな人でも一度は思うことだろう。
シェーンコップはエルフリーデの手を握りしめながら、しっかりとその目を見て言った。
「死にたいのか?」
「…死にたいわけないでしょ…」
「なら、その言葉は口にしない方がいい。死に神が聞きつけるからな」
いつもとあまり変わらない声で、ウィンクしながら目の前で、まるで日常会話のように言うシェーンコップに、エルフリーデは笑うしかなかった。しかし、ほんの少し唇を動かすだけの弱々しい笑顔であった。
エルフリーデはその瞳の中に涙を浮かべていた。
どんなに口では平気そうにしていても、苦しいに違いないのだ。
シェーンコップはじっとその目を見つめ、苦しみを取り去ることも、苦しみを和らげることも出来ない自分を歯がゆく思っていた。
「…元気になれ。エルフリーデ」
珍しく真剣な口調に、出来るだけいつもと変わらない自分で答えようとした。
一筋の涙を目尻に伝わせながら、エルフリーデは力の限り笑った。
「なるに決まってるでしょう」
そしてその後、時間はかかったが、全身状態は安定していった。
発熱が落ち着いた一週間後、ミッターマイヤーはフェリックスを連れてエルフリーデの面会に来ていた。
一度だけ、気の強いエルフリーデとは違う雰囲気の時があった。フェリックスに向ける笑顔はいつもと変わらないのに、姿も笑顔も言葉もすべてが柔らかくふんわりと、透明感に溢れていた。ドクターとして、こういう患者は見慣れていた。そして、出来れば気づきたくないことだった。
”…まさか…?”
先日の発熱で、一層細くなり、体力も衰えているらしいエルフリーデである。もう一度感染すれば、助かる見込みはないだろう。それでも、フェリックスに会うことを強く望み、どうしてもその笑顔を見ていたいらしかった。
「フェリックスは…、あなたの愛を受けてるのね。表情が豊かだわ…」
「…俺だけじゃありません。あなたも、ロイエンタールも…同僚たちも可愛がってくれます」
「…あいつが…?」
「ええ。…意外ですか?」
「…意外だわ。あなたはそう思わないの?」
エルフリーデは何回もの面会で、ロイエンタールとミッターマイヤーが長い間親友だったことを聞いていた。この質問に、ミッターマイヤーは返答に困った。
”確かに意外だった…。だけどフェリックスがオスカーが変えた…”
「フェリックスを見て…、愛さない人なんて、いないですよ」
しばらくエルフリーデはミッターマイヤーのグレーの瞳をじっと見つめたまま黙っていた。
「…あなたが、あいつに『人を愛する』ことを教えたのね…?」
ミッターマイヤーは息をのんだ。その言葉の意味をどうとらえれば良かったのかわからなかったのだが、とにかく驚いたのだ。
「あいつは愛を知らない男だった。私にはわかる。あいつと私は似ていたわ。でも…久しぶりに再会したあいつは、以前のあいつじゃなかったもの。あなたがあいつのそばにいるようになったから、よね…?」
ミッターマイヤーは「そんなことはない」と言いたいのに、口にすることが出来なかった。
「あなたのおかげで、フェリックスも愛されて生きているわ。ありがとう。ウォルフガング・ミッターマイヤー」
その日、初めてエルフリーデはミッターマイヤーに感謝のキスを贈った。本当に静かに永遠の眠りに落ちてしまいそうな雰囲気だったエルフリーデに、急いで面会に行くようミッターマイヤーはロイエンタールに言った。
「本当か? ウォルフ」
「バイタルはそんなに変動ないけど…、なんか印象がさ…」
「現実的なドクターが、抽象的な話をするとはな」
そういってロイエンタールはクスクスと笑った。しかしミッターマイヤーは真剣であり、ふざけるロイエンタールを怒った。
「俺の勘違いでも何でもいいから、行ってこい!」
ほとんど夜中であり、フェリックスは眠っている。ミッターマイヤーは夜勤中だったのだ。
戻って1日の疲れを取ろうとしたところに、また出かけるのか、とため息をつきながら、だいたい夜中にどうやって面会するっていうんだと独り言を呟きながら、着替えを始めていた。
車で30分もかからない病院へ車を飛ばし、入り口で一応緊急性を告げ、病棟に入るとこっそりとエルフリーデの病室に入った。
エルフリーデは静かな寝息を立てていた。
しかしそれは、そばまで来て確認しなければ気がつかないほど穏やかで、まるで呼吸していないかのようだった。
”生きてる…よな”
見たところ、ミッターマイヤーが受けたような印象はロイエンタールには感じられなかった。しかし、しばらく見ない間に痩せた、とその顔を見つめ、思った。
その細っそりとした腕を取り、小さな手を自分の手で包むと、その冷たさを取るようにゆっくりとなでた。この1年、何も動かしていないその腕にほとんど筋肉はなく、本当に細かった。
エルフリーデは浅い眠りから目覚めた。
薄暗い病室の中で目覚めたとき、一人のこともあるが、たいてい目覚めるとそこにはいつも主治医がいた。
「…ワルター?」
目覚めてもはっきりとはしていないエルフリーデは、ベッドに腰掛ける人物をいつもの人だと思ったのだ。
「主治医をファーストネームで呼ぶのか」
嫌みではなくクスリと笑ったその声に、エルフリーデは驚いた。あまりにも意外だったのである。
「お前だったの…」
真夜中に部外者がベッドに腰掛けているのに、エルフリーデはそのことには驚かなかった。そして何しに来たとも、責めたりもしなかった。
「元気だったか?」
「見ての通りよ。久しぶりね、そういえば…」
見ての通り、と言われても、最後に見たときより痩せ細り、弱々しい笑顔を浮かべ、その穏やかな雰囲気に、ミッターマイヤーが感じた、ということがようやくロイエンタールにもわかった。
「そうか。ならいい」
しかし、表面には表さず、それだけ言って帰ろうと立ち上がった。
その腕をエルフリーデはつかみ、滅多に呼ばないその名を呼んだ。
「オスカー」
ひょっとしたら初めてかもしれないその優しい呼び声に、ロイエンタールは驚いて振り返った。
「どうしても言っておきたかったの。お前とのことは後悔してないわ。フェリックスの母親にしてくれて、…ありがとう」
意外なセリフにロイエンタールは驚きっぱなしだった。
そして、ロイエンタールはまるで思い出すかのようにヘテロクロミアを閉じ、その後ゆっくりと瞼を開け、おそらくミッターマイヤーにしか見せたことがないような笑顔を浮かべた。つかんでいた手を一度軽く叩き、ロイエンタールは来たときと同じように静かに出ていった。
もしかしたら、エルフリーデはこの日、死を覚悟していたのかもしれない。
エルフリーデに関わるドクター全員が、危ぶんでいた死はエルフリーデの元には現れなかった。その後徐々に体力を戻し、化学療法も順調で、ゆっくりと回復に向かっていた。
このことは、本人よりもやはり周囲を驚かせた。医学を学んできた3人にとって、人間の持つ底力と気力の大きさを目の当たりした気分だった。
「人間って凄いな。オスカー…」
部屋のベランダでくつろぎながら、ミッターマイヤーはそう呟くように言った。
「…ふん。しぶといな、なかなか…」
言っていることは不謹慎だったが、ロイエンタールの口調は安堵を含んでおり、素直に喜べないロイエンタールの悪いところだ、とミッターマイヤーは苦笑しただけだった。ロイエンタールもミッターマイヤーも、この時点ではフェリックスの母親がこの世からいなくなってしまうことを恐れていた。しかし、エルフリーデがもしも元気になったら、という考えはあまり浮かんでいなかったのである。それは奇跡の回復をどちらかというと、あまり期待していなかったからだった。
しかし、エルフリーデは病気を克服した。
そして、エルフリーデから、当然のような、しかしロイエンタールとミッターマイヤーをこれ以上ないほど驚かせるような申し出があったのは、彼女が入院して約1年半と少し、フェリックスが2歳の誕生日を迎えた頃だった。エルフリーデの病状は落ち着いていた。
もうしばらくすれば、維持・強化療法も終わり、そうすれば一応『治癒』したということで退院するのだ。
ぼちぼちそんな話が出始めた頃、シェーンコップからエルフリーデに意外な申し出があり、しかしそのことよりも、エルフリーデがそれを受けたということが、ロイエンタールとミッターマイヤーにはより意外であった。
退院後、エルフリーデはシェーンコップの元へ行くというのである。「本当なんですか?」
グレーの瞳を大きく見開いたまま、フェリックスを抱いたエルフリーデに問うた。
シェーンコップはベッドに腰掛け、エルフリーデを黙って見守っている、という雰囲気で、柔らかい笑顔を浮かべていた。
「彼女がうんと言ったからな。もう変更はきかないと言ってある」
シェーンコップのそんな返答に、エルフリーデはクスリと笑いながら、そばにいる人を見上げた。
エルフリーデの闘病期間中、最もそばにいたのは主治医のシェーンコップだろう。その間に二人に何があったのかまではわからないが、最も苦しい時期を支え、患者は自分をさらけ出す時期なのだ。助けた救われたではなく、ただ惹かれ合ったのだろう。
ミッターマイヤーは自分の横に立つロイエンタールをブンと音がしそうなほどの勢いで首を回して見たが、その表情はクールだった頃のロイエンタールの表情で、何をどう感じたのか、わからなかった。
狭い病室が半分半分で世界が違ってしまったかのような錯覚をミッターマイヤーは起こしていた。
窓側の3人は、真ん中にフェリックスをはさみ、にこやかで暖かい雰囲気に包まれていた。
一方、自分とロイエンタールの周りには、冷たい冬の風が吹き込んだかのように、ショックと驚きで固まり、これから先のことまで瞬時に想像したミッターマイヤーは顔色を青くした。
エルフリーデは、闘病のためフェリックスを手放したのだ。本人は育てたいと思っていたのに。
そして、今、エルフリーデは退院する。
結婚ではないが、家族を持つのだ。
フェリックスを育てる環境が整ったことになる。そして恐れていた言葉が、現実に二人の口から出てきた。
――――フェリックスを返して欲しい
1999.11.21 キリコ
2001.9.20改稿アップ