ドクター
エルフリーデ <決心>
衝撃的というより、予測すべきだった言葉に、自分たちの世界が崩れることはないという幻想や希望が消え去ることを実感したロイエンタールとミッターマイヤーは自分たちがどうやって部屋に帰ってきたのかわからなかった。呆然とする父親の腕の中のフェリックスは、何も知らない様子で静かな寝息を立てていた。部屋に戻っても、どちらも口を開かず黙って食事をし、さっさと寝る準備を始めた。
お互い自分の考えがまとまるまで、感情的に話すようなタイプではなかった。
ミッターマイヤーがシャワーから出ると、リビングのソファにロイエンタールの後ろ姿を認めた。どう見ても肩を落としたロイエンタールに話しかけようか悩んでいると、その腕の中から小さな声が聞こえた。
「うぉー?」
フェリックスはすでに2, 3単語は話せるようになっていた。
ウォルフパパと教えたロイエンタールの言葉を、フェリックスなりに発音しているのだった。
その声に、ミッターマイヤーは自分の喉元から胸元にかけて熱くなるのを感じた。
これまでも、フェリックスの成長を喜び、初めて彼なりの「ウォルフパパ」と言われた時は、感激で大はしゃぎし、ER内に宣伝しまくったものだ。
しかし、今ほどその小さな声が貴重なものに感じたことはなかった。
ロイエンタールがゆっくりと振り返った。
「ウォルフ…」
ソファの背からフェリックスが顔を出せるように抱き直したロイエンタールは、唇の端だけ動かすような笑顔で、恋人を呼んだ。
ロイエンタールの左目と同じ色をしたフェリックスの双眼が、まっすぐにミッターマイヤーに向けられ、自分が呼んだ人に笑顔を向けていた。
「うぉっふっ!」
キャハハハという楽しそうな笑い声だけが、暗い静かな部屋に響き渡り、その時二人の父親が感じたことはおそらく同じだっただろう。
ミッターマイヤーはゆっくりと歩み寄り、「おいで」とロイエンタールの腕の中からフェリックスを抱き上げ、その柔らかい頬にキスを贈った。フェリックスは濡れたミッターマイヤーの柔らかい髪を引っ張り、落ちてくる滴を楽しそうに受け、そのたびに喜んで声を上げていた。
「今夜はご機嫌だな。フェリックス」
ミッターマイヤーは、その仕草も愛おしいのに、今晩は明るくあやすような声を出すことも出来ず、抑揚のない静かな声で言った。
いつもは手の掛からないフェリックスだが、今日は気分が高揚しているのか、なかなか寝付かなかったらしい。それでロイエンタールがあやしていたのだ。
そんなフェリックスの様子に、ロイエンタールもミッターマイヤーも、フェリックスは母親の元へ戻れることを喜んでいる、という見方をしてしまうのだった。ロイエンタールもミッターマイヤーもお互い顔を合わせようとせず、どちらも何も言い出そうともしなかった。ただ腕の中のフェリックスの明るい声だけが、部屋中に広がり、しかしその声をもってしても、暗い雰囲気を明るくすることは出来なかった。
ロイエンタールは「近いうちに話し合おう」とだけ言い、ベッドルームへ消えた。
かわりに、という感じでミッターマイヤーはフェリックスを抱いたままソファに腰掛けた。そしてただフェリックスの温かみと重みを感じながら、柔らかいブラウンの髪を梳き、愛しい息子に眠りの神が訪れるのを待った。
その後2, 3日のER内は同じく暗い雰囲気に包まれつつあった。
いつも明るい笑顔で周囲を取り囲むミッターマイヤーが、俯いたまま暗い顔で歩いているのだ。そして同じくロイエンタールも、誰の目から見ても落ち込んでいますと背中に書いてあるようだった。
診察のときは、さすがプロ、といった感じだったが、いったん診察室から出ると、世界中の不幸が頭から落ちてきたような足取りだった。
はじめは、またいつものけんかか、と思っていた周囲も、今回はおかしいということになり、ついに我慢しきれなくなったスタッフがミッターマイヤーを問いつめた。
代表で、ジュディはミッターマイヤーの腕を取り、ERの外へ連れ出した。ビルの間といった感じのそこは、他に誰もおらず、大きな声をあげようが何をしようが、聞こえないところを選んだのだ。
「いったいどうしたっていうの? Dr. ミッターマイヤー!」
尋ねるというよりは、怒って問いつめられたミッターマイヤーは、思わず顎が弾けるほどの勢いに、正直驚いた。
「えっ…? そんなに変…?」
少しひかえめに聞き返してきたミッターマイヤーに、呆れましたといった表情で、
「…どっちも凄い表情よ。暗いなんてもんじゃないわ」
それでもようやくジュディは声のトーンを落とし、多少穏やかに話しかけた。
ミッターマイヤーは曖昧な微笑みで首を傾げ、「そう?」とだけ呟いた。ミッターマイヤーはだいぶ経ってからジュディにフェリックスのことを話した。
これまでは漠然とロイエンタールの子だと皆が知っていたが、詳しい事情は誰にも話してなかったのだ。
ロイエンタールもミッターマイヤーも口は堅い方だ。
しかし、今回のことはミッターマイヤー一人で考え込むにはおそらく問題が大きすぎ、悩んでも答えは同じで、しかし理屈ではわかっていても感情が許さないという、自分の中で様々な感情が闘っており、耐えきれなくなり、問いつめられた拍子に堰を切ったように話しきったのだった。
「そんな! 勝手過ぎるじゃない! どうして悩むの? フェリックス坊やを返す必要なんてないじゃないの!!」
ジュディにはロイエンタールやミッターマイヤーが悩むのはわからないでもないのだが、しかしあまりの理不尽さに怒りが爆発しそうで、責めるつもりはなくてもフェリックスの周囲の人全員を責めた。
「…うん…、でもさ…」
ミッターマイヤーは横を向き俯いていた。
「でもじゃないわ。なぜ? この約2年。あなたたちは家族だったじゃない。あんなに可愛がっていたじゃないの! なぜ手放せるの?」
ミッターマイヤーは身体を揺すられても何の反応も示さなかったが、最後の「手放す」という言葉に過剰に反応した。大きな瞳を見開き、その目線はどこにも焦点は合っていなかったが、その唇はフェリックスと型どり、その後、顎を震えさせ始めた。
唇を噛んで涙を耐えているミッターマイヤーに、ジュディは自分が今口にしたことはすでにロイエンタールもミッターマイヤーも感じていたことに違いない、と自分の感情的発言を反省した。
「…ごめんなさい」
「…いや…。ありがとう。心配してくれて。」
ミッターマイヤーは俯いたまま首を横に振った。蜂蜜色のその髪はミッターマイヤーの心情を表すように乱れていた。その後、ある程度の事情がジュディから伝わったのか、ERのスタッフの視線は疑問形ではなく、同情と哀れみを含むようになった。
今のロイエンタールやミッターマイヤーには、それも煩わしく、ひたすら仕事に熱中しようとした。
途切れたとき、思考がフェリックスについて戻ってしまわないように、何も考えなくて済むように、努力した。同僚の中には、二人の関係を好意的に見ていなかった人もいたが、その人達でさえ、二人の様子に同情を禁じ得なかったのである。ずっと応援してきた仲間達は、あからさまに慰めたりしなかったが、肩を叩きながらすれ違ったり、挨拶だけはきっちりさせたり、それぞれに気を使っていた。
そんな中で、ヤンは口べたでうまく励ます言葉も思いつかず、現実的な話を持ち出した。
「ミッターマイヤー…、休みが必要だったら…、私に声をかけてくれ。あー。頑張るから」
黒髪をかきながら、そういうヤンの姿に、ミッターマイヤーはほんの少し笑顔を浮かべ、「ありがとう」とだけ言った。その時は、実際に休むつもりはなくても、そういう心遣いが有り難かったのである。
ドクターとして、そして愛する者を守ろうとして、シェーンコップはロイエンタールとミッターマイヤーに話した。
まだ若いエルフリーデは再発する危険が高い。
そして退院とはいっても、完治という言葉は当てはまらないことが多い。
エルフリーデには、今、「生きたい」と言う前向きな気持ちを持つことが出来る「生き甲斐」という存在が必要なのだ。
それがフェリックスなのだ、と。
「だから、頼む。あいつを母親にしてやってくれ」
白衣を着たドクターは、病院の廊下に土下座した。
ミッターマイヤーは慌ててシェーンコップを立たせたが、ロイエンタールはその無表情な顔の下で何を考えているのか、ただ黙ってシェーンコップを見つめていた。
ロイエンタールにもミッターマイヤーにも、理不尽を感じつつも、シェーンコップが言ったようなことは、ドクターとして先刻承知のことだった。わかっていたからこそ、何度も時間を作って面会に訪れていたのだ。
しかし、これからは面会ではない。
フェリックスが、自分たちの元からいなくなるのである。
1999. 11. 24 キリコ
2001.9.20改稿アップ