ドクター

エルフリーデ <別離>


 
 決心してから、本当にフェリックスと離ればなれになるまでの期間は、二人にとって時間が音速で進んだように速く感じられた。
 手放すと覚悟してから、しかしそれはエルフリーデの退院と同時にすでに決定事項のようであり、ロイエンタールにもミッターマイヤーにも反論は出来なかった、その間、二人はフェリックスに特別なことはしなかった。ただ、これまで通り、慈しみ仲良く過ごしていた。


 約束の前日、ロイエンタールもミッターマイヤーもほとんど眠らずにフェリックスのそばにいた。その寝顔を見つめ続け、それは少しでもはっきりと瞼に焼き付けておこうとするかのようであり、二人の父親がそれぞれにそれぞれのフェリックスを思い出していたからかもしれなかった。
 二人ともほとんど会話もしなかった。ただ黙ってフェリックスのそばにいたのである。

 その日、エルフリーデは毛糸の帽子をかぶっていた。
 すでに11月に入っており、吹雪まではいかないが、シカゴはかなりの雪に覆われていたのである。
 シェーンコップと一緒にロイエンタールの部屋に迎えに来たが、彼は部屋には入らず入り口で待っていた。その姿に、ロイエンタールもミッターマイヤーもすぐに立ち去るのだ、ということが伺えた。
「フェリックス。いらっしゃい」
 エルフリーデは優しくフェリックスを抱き上げようとしたが、フェリックスはお出かけ用の服を着せたあと、珍しく眠ってしまったのである。その手をロイエンタールが止めた。
「眠ってるんだ。そのまま連れて行け」
 母親に連れられてロイエンタールの家に来たときよりも大きいカゴに入れられたフェリックスは、当事者に2年前を思い出させた。
 ロイエンタールのその低い声に、エルフリーデは少し寂しげな微笑みを浮かべながらはっきりと言った。
「今までありがとう。勝手ばかりで…ごめんなさい。本当にありがとう」
 まだ真っ白い肌で髪の毛も生えそろっていないエルフリーデがはかなげに微笑む姿は哀れを誘った。しかし、ロイエンタールもミッターマイヤーも感謝の言葉などほしくはなかった。
 ミッターマイヤーは黙ってフェリックスのそばに座り、その柔らかい小さな手にお別れのキスを贈った。
「フェリックス。…元気で…」
 愛しているよ、という言葉は毎日言い続け、昨夜言い尽くしたかのように、今は元気で、という言葉以外出てこず、これ以上何か話そうとしたら、涙が浮かんできそうであり、ミッターマイヤーは唇を噛んだ。
 ロイエンタールは、ずっと両腕を組んだまま、一歩も動かなかった。

 言葉少なに、まるで申し送りのように手短にフェリックスの日常について話し、理解し納得したエルフリーデとシェーンコップは、最後に二人で感謝の言葉を述べながら、ロイエンタールの部屋を静かに出ていった。
 突然、部屋の中の温度が氷点下になったように、ロイエンタールにもミッターマイヤーにも感じられた。
 
 入り口の閉じたドアの前に立ちつくし、そばにあるエレベーターが降りる音に、ますますフェリックスとの距離感を感じ、ミッターマイヤーは動くことが出来なかった。
 しばらくして、遠くでフェリックスの泣き声が聞こえたような気がしたミッターマイヤーは、リビングの窓辺に走った。
「フェリックスが泣いてる…」
「…まさか」
 ロイエンタールはフェリックスが出ていってすぐにソファに座り込んでいた。
 ミッターマイヤーが窓を全開し、ベランダに出ると、フェリックスはエルフリーデに抱かれ、車に乗るところだった。
 フェリックスは本当に大泣きしていた。
 自分たちの家だった最上階に向かって泣き声を上げていたのだ。
 その悲しそうな寂しそうな泣き声に向かって両手を延ばし、ここから引き上げられないか、駄目ならミッターマイヤーは今すぐここから飛び降りて迎えに行きたい思いだった。
「フェリッ・・クッ…」
 その呼び慣れた名前すら、最後まで呼び上げることが出来ないほど、ミッターマイヤーは泣き崩れた。
 その涙が、はるか真下に見えるフェリックスに届くくらいの量を流し、鼻をすすることも忘れて、フェリックスの乗った車が見えなくなるまで目を離さなかった。

 そのまましばらく、自分の頭や背中に雪が積もるまで、ミッターマイヤーはその場から動けなかった。
 ロイエンタールはそんなミッターマイヤーを視界の中に入れながら、動くことが出来なかった。

 

 その日、ロイエンタールもミッターマイヤーも一言も口を利かなかった。

 晩になって、ミッターマイヤーはバスルームに閉じこもった。
 ロイエンタールは、中でミッターマイヤーがどうしているか想像はついたので邪魔しなかったが、さすがに1時間も出てこない様子に、心配になった。
 ノックして、「入るぞ」と声を掛けながらドアを開けると、ずっと聞こえていたシャワーの音がはっきりと聞こえた。たまったお湯の中に、ミッターマイヤーは足を延ばし座り込んでいた。俯いた頭にずっとシャワーが当たり、自分の踵で栓をした湯船の底は、適度に溢れさせずミッターマイヤーを湯に浸からせていた。
「…ウォルフ」
 自分でも驚くほど乾いた声に、フェリックスが出て行ってから何も口にしていなかったことに気がついた。おそらくミッターマイヤーも同じだったろう。呼びかけにミッターマイヤーは少しだけ首を動かしたが、返事はなかった。
 泣いていると思われる、その肩を落とした寂しさを漂わせた背中に、ロイエンタールはすべての悲しみは自分がもたらしたことだと深く強く反省した。
「済まない。ウォルフ…。本当に済まない…」
「…なんでお前が謝るんだ…?」
 優しい問いかけに、突っぱねられなかったことを安心しながら、しかしやはり自分を責めた。
 ロイエンタールは湯船のふちに両手を乗せ、床に膝をついた。
 ミッターマイヤーのふやけきった右手を取り、ロイエンタールはその甲にキスし続けた。その右手をじっと見つめていたミッターマイヤーは、ようやく上半身を動かし、ロイエンタールの首にゆっくりと抱きついた。
 ミッターマイヤーは何も言わず、ただロイエンタールのシャツを、お湯以外のもので、濡らし続けた。
 声を上げて泣く愛しい恋人に、ロイエンタールは、その肩口に唇を押しあてたままずっと涙に震える背中をなで続けた。そして時折つぶやくように、ミッターマイヤーに謝罪した。

”俺が、エルフリーデと関係を持たなければ…。それとも…、ウォルフに自分をうち明けなければ、ウォルフはフェリックスに会うこともなく、いや会ったかもしれないが、こんな思いをさせなかった。
フェリックスが来たときも、ウォルフに大泣きさせた…。俺は…悲しませてばかりいる…、よな…”

 ロイエンタールは泣いたままの恋人の身体を抱き上げ、新しいタオルで拭きベッドへ連れていった。ふやけた身体は水分を含んで重たいのか、それともロイエンタールも自分なりの落ち込んでいて力が入らないのか、いつもより足取りは重かった。
 そしてそのまま、眠ろうと努力した。


 

 深夜、ミッターマイヤーは、抱き合って眠っていたはずの恋人がいないことに気がつき、腫れた瞼をこすり、隣人を捜しにベッドから降りた。
 すぐ目に入るリビングには、人影はなく、バスルームの音も聞こえていなかった。
 ベッドに戻ろうと部屋に向かったとき、耳を澄ますと不思議な声が聞こえた。ミッターマイヤーは初めてそのような声を聞いたのだ。
 うっすらと開いたドアから洩れる、呻くような声の発生源はロイエンタールだった。
 ロイエンタールがフェリックスの部屋で男泣きに泣いていた。
 すすり泣くというよりは、はっきりと声を上げて泣き、しかしクッションに顔を埋めていたため、こもった声が聞こえていた。フェリックスの部屋は、ベッドもおもちゃもすべてシェーンコップとエルフリーデの元へ送られ、ここが子ども部屋だったことを思い出させるものは、水色の明るい壁紙とカーペットだけだった。

 ミッターマイヤーは考えるよりも速く、身体が自然にロイエンタールに向かって動いていた。
 ロイエンタールの後悔と自責の念は、今日一日中聞かされ、何度も謝られたのである。
 それは違うと、今言わなければ、とミッターマイヤーは深く考えるまでもなく、思っていた。
 ロイエンタールのダークブラウンの髪にそっと自分の手を絡ませながら、上から優しく話しかけた。

「オスカー…。愛してるよ」
 ロイエンタールが抱えるように抱いていたクッションを取り上げ、自分の背中にその両腕を回させた。
 泣くならば自分の胸で泣け、と言葉でなく伝えた。
 その頭に口づけながら、ミッターマイヤーは囁き続けた。
「俺がいる。俺はずっとお前のそばにいる」
 言い聞かせる相手は、果たしてロイエンタールだったのか、または自分自身だったのか。
 ミッターマイヤーは、ロイエンタールの背中に回した腕を、ゆっくりと上下させ、あやすように撫でていた。
「俺を、フェリックスの親にしてくれて、ありがとう、オスカー。お前と家族になれて、良かった。ほんとだよ」
 ミッターマイヤーは一語一句心を込めて、ゆっくりはっきり言葉にした。それは本心であり、どのように伝えればロイエンタールに響くか、考えたりもした言葉だった。
 ミッターマイヤーが囁く間中、ロイエンタールはずっと声を殺して泣いていた。
 胸はロイエンタールのつらさを物語る熱い涙で濡れ、ミッターマイヤーの心も泣いていた。
 しかし、恋人が泣いている間、ずっと背中を撫で続け、ミッターマイヤーはグレーの瞳を潤ませながら、決して涙を流さなかった。

 

 その後、ミッターマイヤーはどのようにしてベッドに戻ってきたのか記憶はなかったが、目覚めたときベッドに一人だった。
 ロイエンタールはすでに起きて、ソファで顔を冷やしていた。いつからそうしていたのか、それともあれから眠らなかったのか…。ミッターマイヤーは、ロイエンタールが目元を冷やしている所を見なかったら、昨夜のロイエンタールは夢だったと思ったかもしれなかった。

「おはよう。オスカー」
「…ああ。おはよう。ウォルフ」
 顔を見せようとしないロイエンタールの額に、ソファの上からキスを送り、今日の予定を聞いた。
「どうするって…、出勤する」
「…大丈夫なのか?」
「何がだ」
 そういいながら、何でもない、平気だ、と言いたいらしいロイエンタールが強がっていることがミッターマイヤーにはよくわかった。
「ウォルフ。お前は?」
「俺も出勤する。たぶん夜勤も」
「…俺もだ」
 
 二人とも、家にはいたくないのである。
 家の中には、フェリックスの思い出がたくさんありすぎる。それを笑いながら思い出話に出来るまで、まだ時間がかかりそうだった。

「オスカー、ごはん食べて行こう。雪が凄いから、一緒に歩いて行こうな?」

 

 二人っきりの生活が始まった。

 

 


1999. 11. 24 キリコ
2001.9.20改稿アップ

 

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