ドクター
これまでとこれから
セイント・ジョゼフ病院のERの休憩室で、ミッターマイヤーは一人静かにロッカーに貼られた写真を見ていた。そこには妻のエヴァンゼリンと今はそばにはいない息子フェリックスの写真が貼ってあり、今、はがして座りながら見つめていたのはフェリックスのものだった。
フェリックスが彼らのそばからいなくなって、すでに3ヶ月経っており、その間ロイエンタールもミッターマイヤーも浮上するのに多少時間はかかったが、今は二人きりの生活をそれなりに、少なくとも表面上楽しんでおり、休みの日や勤務後はバーやクラブに顔を出したり、コンサートやスポーツ観戦などによく出かけていた。「この年頃の3ヶ月ってあっという間だろうなぁ…。大きくなったんだろうなぁ…」
ミッターマイヤーが自分のロッカーに貼っているフェリックスの写真は、来た頃の4ヶ月くらいのものから、離れる寸前のものまであった。
たった2年。
けれど充実した2年だった、と感じながら、いろいろなことを思いだしていた。そこへ、ドクターアシスタントのフレデリカ・グリーンヒルが勤務を終え、勢い良く入ってきた。
「Dr. ミッターマイヤー…休憩中にすみません」
バタバタと音を立てた自分についてフレデリカは謝った。
ミッターマイヤーは首を小さく振りながら微笑んでいたが、写真から目線を上げなかった。
フレデリカはミッターマイヤーのそばに立ち、その手元をのぞき込んだ。
「フェリックス坊やですわね」
「…ああ」
「私、一生忘れられないような入職日でした。フェリックス坊やに初めて会った日は…」
後頭部に聞こえる優しい声に、ミッターマイヤーは初めてフレデリカを振り返った。そして、フレデリカが何を言いたいのか思い当たった。
「ああそういえば…恨まれ役をありがとう」
苦笑したミッターマイヤーに、フレデリカも微笑んだ。
ちょうど2年前、フェリックスが生後半年のときにフレデリカ・グリーンヒルはこのERにドクターアシスタントとして入職した。
勤務初日、処置室の空きベッドで眠っていたヤンに話しかけた。
その近くのカーテンでしきったベッドから、二人の男性の会話が聞こえてきていたが、まだスタッフも覚え切れていなかったフレデリカは、てっきり患者とスタッフなんだろうと思い、気にしないでいた。
しかし、会話の声がだんだん大きくなるにつれ、自然と耳に入ってきてしまった。「お前がやれよ。父親だろう?」
「…お前だって…。それにお前は小児科医だろうが」
「うっ」
「な? お前がするのが一番自然なんだ」
この辺りで肩をポンと叩く音も聞こえてきた。ヤンとフレデリカは、こちらの会話を中断したまま、いつの間にかカーテンの向こうに意識を集中していた。
「…どういう会話、なんでしょう?」
フレデリカはさっぱり要領を得なかったが、ヤンにはすぐにわかったらしく、俯いてクスクス笑っていた。
「ああ彼らはここのドクターで、ロイエンタールとミッターマイヤーさ」
それだけで説明を終え、一人で笑っているヤンに、フレデリカは笑っている理由を尋ねた。
「たぶん、フェリックスもいるんじゃないかな。
…予防接種だと思うんだけど? 昨日もそんな話をしていたから」
ヤンの説明は簡単過ぎ、これまでの経過を知らないフレデリカには今ひとつ理解出来なかった。”父親が…、子どもの予防接種?”
フレデリカは、カーテンを小さく開け、中を覗くと、すぐそばにフェリックスが子供用の椅子に座らされ、カーテンが開いた瞬間こちらを向いた。そのキョトンとした顔に、フレデリカは知らないうちに顔に笑みが浮かんだ。
「…坊やがフェリックス?」
耳元で囁くと、まだちゃんと言葉を発することが出来ないフェリックスは、首を傾げた。
ヤンも後ろから来て、フェリックスのそばの処置台に予防接種用の注射器が用意されているのを見て、「ほらね」と小さく笑った。
予防接種というものは、大事なのだが、相手が子どもの場合、ただ痛いとしか感じず、そして注射したドクターは『痛いことをした人』として脳の中にインプットするのだ。二人の父親はそれが嫌で、お互い譲り合っていたのである。保健所や検診センターに行けば良かったのだが、それもあまり気の進まない二人だったのだ。そんな父親達の思惑などつゆ知らず、ポツンと一人座らされていたフェリックスは、話しかける相手が来たことに喜んだ。
「う〜?」
満面の笑顔で話そうとするフェリックスに、フレデリカは父親達の思いに気がついた。
”こんな顔をされたら、必要とわかっていても注射出来ないわよね…”まだロイエンタールにもミッターマイヤーにも挨拶もしていなかったフレデリカは、その注射器を取りヤンに手渡した。そしてフェリックスを自分の膝の上に乗せ、身体全部を使ってその小さな身体を包み込み、左腕を出した。
「さ、早く…。Dr. ヤン!」
「え…?」
あまりの展開についていけなかったヤンは、注射器を握りしめフレデリカとフェリックスの顔をキョロキョロと見つめた。フレデリカの大胆な行動に驚きながらも、確かにこのまま父親達の長くなりそうな争いを見て注射を待つより、恨まれ役を買って出た方がフェリックスと、そして今後の家族生活のためにも良いだろうと判断したヤンは、フェリックスの肩より下あたりに注射器をあてた。自分たちの世界に入っていた父親達がフェリックスの異変に気がついた時、肝心の予防接種はすでに終わっていた。
大泣きし始めたフェリックスを、フレデリカの腕から奪いながら父親達は憤慨していた。
「ヤン! フェリックスに何をした!」
ミッターマイヤーはフェリックスを庇うように抱きながら、ヤンを睨み付けた。
「何って…、予防接種」
相変わらずヤンの説明は簡素だった。
その時フェリックスがヤンとフレデリカを見て、先ほどの笑顔とは180度変わり、泣き崩れた睨みをきかせてくれた。そのスカイブルーの瞳は、横に立つ人物の左目に似てると瞬時に思ったフレデリカは、この人の息子かと、怒鳴られつつもそんな観察をしていた。そしてその睨み具合はそっくりで、迫力満点だったが、とても綺麗だと思った。
ヤンは、ため息をつきながら両手を広げてみせた。
「ほらね。憎まれたのは僕らだよ」
そう言い、笑いながらヤンは処置室から出ていった。
処置室には、そのヤンの後ろ姿をまっすぐに見つめるフレデリカと、泣きじゃくるフェリックスを必死であやそうとする父親達が残された。
「あの時は怒鳴って済まなかった。世話になったのに」
ミッターマイヤーはフェリックスの写真を見つめたまま、苦笑しながら謝った。あの後しばらく、フェリックスはERでヤンやフレデリカを見かけたとき、もの凄い反応をしていたのだ。ヤンとフレデリカのおかげで、父親達は全く恨まれず、大事な予防接種をしてやることが出来たのだ。
「いいえ、お役に立てて良かったです。それよりも勝手に判断してやったことを、こちらこそ許していただかないと…」
もう何度繰り返されたかわからないくらい、何度思いだしても楽しい思い出となっている会話だった。
フレデリカは思い出しついでに、この2年を振り返った。
入職前から、ヤン・ウェンリィを知っていた。
自分の母親が事故の後遺症で一時期精神的に病んでいた。運ばれたERに、身体が快復しても何度も訪れ、スタッフに手当たり次第話しかけていた。最初は聞いてくれる医療従事者も、毎日のように同じことを話されても困り、だんだん対応が素っ気なくなっていった。ERは救急病棟であり、患者でもない人の話をゆっくり聞く暇はなかったのだ。それは4年ほど前、ヤンがまだ医学生でERに実習に来ていた頃のことだった。
ヤンは、フレデリカの母と毎日のように会話していた。会話、といっても始めの頃はただ一方的に思いついたことを話すだけで会話になっていなかったが、ヤンの適度な相づちとタイミングのよい感嘆や質問に、少しずつ反応していくようになったのである。
たくさん会話したことで、フレデリカの母の精神状態は安定し、今では普通の家庭の主婦であった。
フレデリカはずっとそばで母と、そして母の話に、自分よりも他の誰よりも耳を傾けてくれていたドクター・ヤンを見つめ、決して忘れることが出来なかった。
ドクヤー・ヤンという内科医は、聞き上手だとスタッフにも知られていたが、カウンセリングの心得えがあるわけでもなかった。
フレデリカがこの病院のERに配属されたとき、真っ先にヤンに感謝の言葉を述べに行った。
しかし、ヤンは母親のことはうっすらと覚えていたが、フレデリカのことはほとんど思い出せなかった。
「ごめん…、あんまり覚えてない…かも…」
「いえ、いいんです。ずっと感謝していた、今でもそう思っていることを伝えたかっただけなので」
フレデリカは、頭をかきながら謝るヤンに笑顔で答え、自分が医療従事者を目指したのはヤンのおかげだということを真剣に話した。
実際に、スキップして通っていた大学から転学したのだ。
「…そんなにえらいことじゃないよ。僕はドクターらしいことは何もしていない。むしろ…」
ヤンは、患者との会話が長くて他のスタッフが迷惑に思っている、という噂を知っていた。
ERを希望したのは、緊急性が必要な場面にこそ、そういった患者との触れあいが大事なのではないかと考えたからだった。
実際、理想論としては、そう思っているスタッフも少なくない。
しかし、現実では、少しでも短時間の間に患者を『さばく』ことが中心になってきてしまうのだ。それほど毎日患者だ多いからだ。
それでもヤンは、急かされても患者の話を聴くように心がけていた。
「Dr. ヤン。あなたは正しいことをなさっておいでですわ」
フレデリカは、この2年、ヤンのそばで彼を支持し、一度も嫌な顔をせず、彼女なりに出来るカバーをしてきた。そしてずっと励まし続けていた。
内科医と小児科医であり、対象は全く違っていたが、ミッターマイヤーは、そんなヤンの考えを強く認めていた。
子どもを診ることが多い彼だったが、親が一緒に来ると全く子どもに話させない親というのがいる。ミッターマイヤーは、子ども自身の言葉で訴えてほしいと思い、たいてい親には退室をしてもらっていた。
思春期の子どもは、親には話せないこともある。
また、女性同士、男性同士、または異性だから話せること、という話がある。
ミッターマイヤーはベッドに座らされた子どもの目を必ず見ながら、ヤンと同じく少しでも話を聴くようにしていた。ヤンとミッターマイヤーが同じような診察体勢を取っていても、大きく違っていることがあった。
行動の速さである。
会話が長い分、他の時間を短縮するよう、ミッターマイヤーは瞬時に計算しながら動く。そして勤務中はほとんど眠ることはない。
ヤンは、逆に、少しずつでも休むタイプであった。
体力的にはヤンが正しいのだが、他のスタッフや患者への影響を考えると、ミッターマイヤーの方が歓迎された。しかし、こういうドクターは、バーンアウトする危険も高かった。
「ミッターマイヤーはクルクルよく動くねぇ…」
休憩室でコーヒーを飲みながら、ヤンはため息をついた。
「ヤン…なんかそのセリフ…おじんくさいぞ?」
夜勤明けで眠っていなくても明るいミッターマイヤーは、ヤンの背中を叩きながら笑った。この3年以上の間、一緒に働いてきた同僚であり、尊敬し合えるスタッフとの談笑は楽しかった。
しかし、医療の世界にも人事異動や転院はあるのだ。
レジデンス4年目のロイエンタール、ミッターマイヤーの生活も大きな転機を迎える頃だった。
1999. 12. 16 キリコ
ロイの命日ですね(;;)
2001.11.21 改稿アップ