ドクター
岐路
3月に入っても、シカゴはまだ雪も多く、春はまだ遠かった。
しかし日差しが少しずつではあるが暖かくなってきており、人々は春の雪溶けを待っていた。天気の良い土曜日、たまたま休日が重なったロイエンタールとミッターマイヤーは、ロイエンタールの誘いでホッケーの試合に出かけた。
「どことどこの試合?」
「行ってのお楽しみだ」
「…どこへ向かってるんだ? スタジアムはそっちじゃないだろう?」
「行ってのお楽しみ」
ロイエンタールの車の中で、普通のデートのような会話を楽しみながら、二人は休日を過ごそうとしていた。
シカゴはホッケーでも有名だ。しかし、運転席のロイエンタールが目指していたのはシカゴ・スタジアムではなかった。
そんなロイエンタールに、ミッターマイヤーは口では文句を言いながらも、楽しそうであった。それはロイエンタールを信じていたからでもあったし、恋人同士で何処へ行っても楽しいからだった。二人の乗った車は、郊外にある公園に入っていった。
そしてロイエンタールはスタスタと屋内スケートリンク場に向かって歩き出した。
黙って行く恋人に、ミッターマイヤーはついていくしかなかった。普段はスケートリンクとして、ほぼ1年中誰もが楽しめる屋内スケート場の氷の上で、今日は練習試合が行われているらしかった。
ボードに書かれたチーム名を見て、ミッターマイヤーは驚いた。
「あっ…あれって…」
ボードには『ブラックランサーズVSファイヤーデビルズ』と書かれていた。
椅子に座りながら、試合中のメンバーを見たがヘルメットであまり顔はわからなかった。
しかし、額辺りから見えるオレンジ色の髪と、GTの砂色の髪は確認でき、また彼らの動きが他のメンバーより際だって目立つこともわかった。
「ビッテンフェルトやミュラー達か?」
隣の席で両腕を組みながら見ていたロイエンタールは、ミッターマイヤーの質問にニヤリとした。
彼らはセイント・ジョゼフ病院付近担当の消防士として、火事の度にERに来ているといって過言はなかった。身体を張った仕事であり、火傷などの怪我をすることは多いが、ビッテンフェルトとミュラーのコンビは、無鉄砲で有名でもあった。そして怪我が耐えない二人は、ERの常連なのである。
「…いつの間に試合のことを知るくらいに親しくなってたんだ?」
ミッターマイヤーは苦笑しながら、試合に視線を戻した。氷の上で行われる試合であり、会場内の空気も冷たく、試合中の選手は鼻を赤くしながら白い息を吐き、それを見に来ている客たちも同じような状態であったが、こちらは身体を動かしているわけではなく、寒さに震えながら観戦していた。
ロイエンタールはカシミアの膝掛けを自分と恋人に掛け、二人で少し寄り添いながら試合に集中した。
ホッケーというのは、スピード感があり、攻撃や乱闘という点では、かなり乱暴なスポーツといえるかもしれない。実際、選手が怪我をするのは当然だと思われていた。
猪突という言葉が似合いそうなビッテンフェルトは、臆することを知らないらしく、時々闇雲に敵に突き進み、また向かって来られても決して逃げなかった。そしてそれは、このような試合中だけでなく、炎に向かっても同じなのだった。
「勇敢といえないこともないが…猪突な奴にこれほど似合うスポーツはないよな」
ロイエンタールは試合から目を離さず、ため息まじりに呟いた。
そう言ったそばから、ビッテンフェルトは相手とのぶつかり合いの中で怪我をしたらしい。立ち上がった彼は顔を血だらけにし、それでも続けようとしたが、さすがに流れ続ける血液が邪魔で、一端ベンチに戻った。
「…大丈夫かな」
ミッターマイヤーは友人としてドクターとして心配したが、当のビッテンフェルトは、顔を吹き血が止まったと思われた頃、早速リングに戻っていた。
「…あんなに血が余っているなら、献血でもすればいいのに」
ロイエンタールはため息をついた。
しょっちゅう流血沙汰になっても、あれほど元気なのだ。輸血をよくしなければならないERドクターとして、そんなことを半分冗談混じりに、しかし半分心から願った。ハーフタイムになり、ビッテンフェルト達のブラックランサーズサイドの後ろの方に座っていたロイエンタールたちに、ヘルメットを取った彼が気がついた。
「おうっ! 来てくれたんだな! ロイエンタール!」
ブンブンと音がしそうなほど両手を振りながら、ビッテンフェルトは立ち上がった。横にいたミュラーも振り返り、軽く頭を下げて笑顔を見せていた。
ロイエンタールは皮膚の下だけで苦笑しながら、左手を軽く上げただけだった。
その後チームメイトに「今日はえらい先生が来てるから、怪我しても大丈夫だぞ!」と大笑いしながら言ったそのセリフが、ロイエンタールやミッターマイヤーの耳にまで届き、二人は顔を見合わせて笑った。
「あいつ…、そういう目的で呼んだのか?」
ロイエンタールは、笑いをこらえることが出来ないでいた。「驚いたよ、オスカー」
ミッターマイヤーは、正直に言った。
「何に?」
「…いやなんとなく…」
それ以上ミッターマイヤーは口にはしなかった。
いつの間に恋人の世界はこっれほど広がっていたのだろうか、人と付き合ってくれるのを望んでいたミッターマイヤーだったが、戸惑いを感じないでもなかったのだ。
ロイエンタールに友人がいなかったわけではなかったが、これほど親しい仲間が出来ていたのが嬉しかった。もしかしたら、ビッテンフェルトに、何の躊躇もなかったからかもしれなかったが。後半の試合開始とともに、二人はまた試合に意識を戻した。
ブラックランサーズは、攻撃的な選手が多く、今日は調子が良いのか大きな点数差で勝っていた。そして相手も負けず劣らず攻撃的ではあったが、ブラックランサーズが誇るGTミュラーのおかげで、なかなか得点するには至らなかったのだ。
日頃、命を張ってお互い助け合う消防隊員同士が、こういう場で争うのもおもしろいとドクター達は思っていた。試合終了まであと少しであり、ファイヤーデビルズの挽回はなさそうだと会場全体が思った頃、ミッターマイヤーが真剣な話を切りだした。
「オスカー、聞いてくれるか…?」
いつもはハキハキとした恋人がこのように切り出すときは、話すこと自体に悩んでいるらしい時であると知っているロイエンタールは、ミッターマイヤーの顔を見ながら黙って続きを待った。
隣のロイエンタールに顔を向けたミッターマイヤーは、真っ正面から金銀妖瞳をのぞき込み、ようやく話し出した。
「俺に、スタッフドクターの話が来たんだ」
ミッターマイヤーの顔は真剣であり、やや眉を寄せていた。
スタッフドクターになる、ということは、レジデンス終了となり、セイント・ジョゼフ病院専属のドクターとして働き、委員会に参加したり、病棟計画にも口出し出来るようになる。何より一人前の給料がもらえることになるのだ。つまり、立派な独り立ちできるドクターだと認められたことになる。
「おめでとう、ウォルフ」
心からの笑顔でロイエンタールはまずそう言った。
何の疑問もないことだった。優秀で努力家な恋人を、ロイエンタールは誇りに思っていた。だが、ミッターマイヤーが眉を寄せていた。
その理由はロイエンタールにも察しがついた。
ERには小児科医のスタッフドクター制はない。スタッフになるということは、小児科病棟に行くことになるなるのだ。
また、もしも一人前と認められたなら、ドイツの家族の元へ戻るという約束で留学してきていのだ。
どちらかを選ぶ時がきたのだ。ロイエンタールは、膝掛けの下から黙ったままの恋人の手を握った。
その手は温かく、今ここに存在していることを証明していた。
ギュッと握ると、握り返してくる恋人は、それでも目はリングの方を向いたままであり、その顔は笑顔からはほど遠かった。
ようやく何か言おうとロイエンタールの方を向き、「お」という口になったとき、試合終了の鐘が会場内に鳴り響いた。
そのあまりの大きな音に気をそがれ、話すタイミング失った唇は、また真一文字に結ばれた。
「場所を変えようか」
ロイエンタールの小さな一言で、二人は市内のスケートリンクに戻ってきた。
スケートを見ていたからやりたくなった、というのもあったが、身体を動かせば気分も変わるかもしれなかったし、今日はいい天気で滅多にない日光浴日よりだったのである。
同じような考えで来ているのか、週末ということもあり、リンクの上は賑わっていた。
手袋とスケート靴さえあれば誰でも滑ることが出来る。
スケートに関しては、学生時代からしょっちゅう来ていたミッターマイヤーの方が得意だった。しばらく一人で氷の上をぐるぐる回り、おそらく頭の中で自分なりにいろいろ考えていただろう。
ロイエンタールは、時々滑り、またベンチに座ったりしていたが、恋人から目を離さなかった。そしてその表情からミッターマイヤーの心情をくみとり、彼が自分の考えをまとめ、話し出してくれるのを待っていた。冷たい空気の中で、額に汗を浮かばせながらミッターマイヤーはロイエンタールの目の前で止まった。
「一緒に滑ろう、オスカー」
ミッターマイヤーはベンチに腰掛けていたロイエンタールの両手を取り、一人ならあっという間に回る距離を、手をつなぎながらゆっくりと滑り出した。
やがてロイエンタールの目の前で後ろ向きにゆっくりと滑り、向かい合う形になった。
「オスカー、俺、救急がやりたい」
それこそが自分の望みであり、自分には合っている、とミッターマイヤーは思っていたのだ。
「…小児科でも、PICUやNICUを希望すればいいだろう?」
「…そうだけど…」
「お前は小児科医なんだ。子どもが診たいんだろう?」
穏やかな表情と口調で、諭すようにロイエンタールは話しかけた。反対しているのではなく、別の考え方や見方もあることをいっておきたかったのだ。
小児科医がERにいても、成人を診ることが多い。小児科病棟にいけば、本来の小児科医としての力量を発揮できるに違いないのだ。
ドイツの病院ならば、希望すればERに配属されるかもしれないし、やはり小児科病棟かもしれなかった。セイント・ジョゼフ病院に残るなら、小児科病棟に行く、それだけの話なのだ。
しかし今、本当にミッターマイヤーが悩むべきなのは、ドイツへ帰るか否かである。
ミッターマイヤーはそれを口に出すのがまだ怖かったのだ。
ロイエンタールにも言いにくいだろう、ということは想像に難くなかったが、避けられる問題でもなく、自分から切り出すべきだと考えた。
最終的にはもちろんミッターマイヤー自身が決めることではあるが、一つの方向を示すためにも、自分が今日話そうと思っていたことを、今、告げようとした。俯いてスピードが落ちたミッターマイヤーを追い抜いたロイエンタールは、しばらく進んで恋人を振り返った。そこで止まると、真正面からミッターマイヤーにぶつかり、ちょうどロイエンタールの胸に飛び込んだ。
「あ、ごめん。前見てなかった」
ミッターマイヤーはすぐに離れようとしたが、ロイエンタールはその背中に腕を回し、腕の中に引き留め、上から見下ろした。
「…オスカー?」
広いリンクの上で抱き合い、周囲の人は二人を障害物のように避けながら通り過ぎ、誰も気にも留めなかった。ロイエンタールは上を向いてため息をついた。
「オスカー?」
ミッターマイヤーは突然雰囲気が微妙に変わった恋人に話しかけたが、色の白い顎しか見えなかった。その顎が自分の目の前を通り越し、ようやく見えた金銀妖瞳は、真剣でどこか物悲しい雰囲気で、形の整った眉を寄せていた。まるで彫像のように筋肉一つ動かないその表情に、ミッターマイヤーは寒気を覚えた。
「オスカー…?」
「…ウォルフ」
小さなテノールが、いつもよりも低く重く感じられ、その後の発言がなぜだか怖いとミッターマイヤーには感じられた。
「俺は小児外科に行こうと思う」
二人とも人生の岐路に立った。
PICUはPが小児、NICUはNが新生児、それぞれのICU(=Intensive Care Unit:集中治療室)です。
『ER』のベントン先生の赤ちゃんが生まれてすぐ入院していたのがNICUですね…
1999. 12. 19 キリコ
2001.11.21 改稿アップ