ドクター

それぞれの道


「Dr. ミッターマイヤー!」
 勤務を終え、休憩室に戻ろうとしたところに、外科のレジデンスになって最近セイント・ジョゼフ病院に研修に来たバイエルラインが呼びかけた。
 疲労感を顔に出しながらも、ミッターマイヤーは笑顔で「よぉ」と手を振った。
 バイエルラインは周囲を伺うように、あわてる様子でミッターマイヤーを休憩室に押し込んだ。
「バイエルライン?」
 入り口のドアを後ろ手に、怖い表情で自分を見下ろすその雰囲気に、いつもの若者らしい快活さが感じられない、とミッターマイヤーは思った。
 バイエルラインは医大を卒業して半年ほどはシカゴ市内の別の病院で研修を受けていたのだ。その後こちらではどうか、など世間話をしようかと思っていたミッターマイヤーは、バイエルラインのそのただ事ではない雰囲気に、ただ黙っていた。

「…ご存じだったんですか?」
 バイエルラインはいきなり問いかけてきたが、ミッターマイヤーには何の話か飲み込めなかった。
「え? 何の話だ?」
「…Dr. ロイエンタールのスタッフドクターの話です」
 ミッターマイヤーは、その言葉に息をのむほど驚いた。
 スタッフドクターになる、ということには何の疑問もなかった。自分ですらその話が出たのだ、恋人にでないはずがない、と思っていた。
 だが、昨日今後について、話が出たし、ミッターマイヤーのスタッフドクターの話も出た。
 ロイエンタールは自分のスタッフドクターのことは話さなかったのだ。
 ミッターマイヤーは彼のレジデンスの前ということもあり、努めて冷静な答えをしようと努力した。
「ロイエンタールのスタッフドクターのことがどうかしたのか…?」
 バイエルラインに背を向けるように、コーヒーを取り、動揺した顔を見せないようにした。
「どうかしたって…! なぜ断るんですか?」
「…それはロイエンタールに聞けよ」
 ミッターマイヤーは苦笑しながら答えた。
 断ったのか、と思いながら、その理由には思い当たった。

『小児外科に行こうと思う』
”あいつはそう言った。レジデンスをやり直すつもりなんだ…”
 昨夜、そのことについてミッターマイヤーはなぜ専門を変更するかまでは聞かなかった。
「先月くらいに、Dr. ロイエンタールに聞かれました。小児外科医で有名なのは誰かって…
まさか転向するつもりなんじゃ…」
「バイエルライン」
 ミッターマイヤーはバイエルラインの話を途中で遮った。
 勢い付いて話していたバイエルラインは、ハッとして止まった。
 ミッターマイヤーは何も言わず、穏やかな笑顔で見上げていた。「ほら」と言ってコーヒーを手渡し、自分よりもロイエンタールよりも高い位置にあるその肩をポンポンと軽く叩いた。
 バイエルラインは、素直に与えられたコーヒーを一口飲み、急に恥ずかしくなってきた。
「…すみません。Dr. ロイエンタールに聞いてみます」
「そうしてくれ」
 ミッターマイヤーは、バイエルラインの若さや勢いを微笑ましく見ていた。そして、彼がロイエンタールを尊敬しているらしいことがわかり、嬉しく思うのだった。
「Dr. ロイエンタールは、僕に手取り足取り指導はしてくれませんけど、何というか凄くって…、僕もああなりたいと思います」
「…外科医になるのか?」
「Dr. ロイエンタールのようになれたら、と思っているんですが…」
 照れたように頭の後ろをかきながら、恋人の教え子はそう言った。
 バイエルラインは、そのときのミッターマイヤーは、自分のことを褒められるよりも嬉しそうな顔だったと感じた。
「…それをロイエンタールに言ってやってくれ」
 尊敬する先輩のようになりたいと思い、同じ科を目指すのも一つの人生だろう。ミッターマイヤーはバイエルラインに励ましの言葉を贈った。

 

 帰宅途中、以前ならフェリックスをつれて散歩がてらゆっくり歩いた並木道を、一人とぼとぼ歩きながらミッターマイヤーは考え事をしていた。
 いつから、そしてなぜ小児科なのか、ミッターマイヤーには疑問だった。
 最初から小児科を目指していた自分を認めてくれてはいたが、どちらかというと、子ども好きではなかった恋人が変わった理由を彼なりに考えていた。
「フェリックス…」
 医学生だった頃から外科医を目指していたロイエンタールが、レジデンスも終わりそうなこの時期に突然専門を変えるという、そんな心境の変化をもたらす存在は、それしか考えつかなかった。

 先月、体育の時間に足首の骨折でERに運ばれてきた少年のことを思い出した。
 検査の結果、骨肉腫だとわかり転移予防のためもあり、膝から下を切断するしかなかったのだ。
 ERで担当したのはロイエンタールだったが、その後まだ13歳だとわかり、小児外科に引き取られたのだ。
 その彼は、手術の前日病室を抜け出した。
 病院内の患者が行けそうなところを探しまわったが、夜になっても見つからずスタッフや両親は必死だった。
 ロイエンタールもミッターマイヤーも、ERに探しに来たスタッフから聞きつけ、探した。
 こういう時、子どもはどこへ行きたがるだろうか、いろいろ考えながら、それでもたいていのスタッフは子どもが行けそうな場所、としか思いつかなかった。
 セイント・ジョゼフ病院の屋上は、ヘリコプターが到着出来るようになっており、スタッフしか行けないところだが、ロイエンタールは一人真っ先にそこに行った。
 他のスタッフが屋上にたどり着いたとき、2月の寒い雪の中、屋上は風もきつく凍えそうな中で、パジャマ姿の少年と手術着に白衣だけのロイエンタールは、屋上の縁に座って話し合っていた。
 ロイエンタールは薄い白衣を少年に半分以上かけ、それでも温まるはずはなかっただろうが、そのとき、その場でしか話せない本音、というのをロイエンタールは聞いていたらしい。
 その二人の雰囲気に、誰も話しかけることが出来なかった。
 ロイエンタールはスタッフの存在に気が付き、少年を立ち上がらせ、一度胸に力強く抱きしめた。
 その後少年は毛布にくるまれ病室に戻り、翌日無事に手術を終えた。

 そのときのことを何度聞いても答えてくれない恋人にしびれを切らし、ミッターマイヤーは少年のところへ聞きに行った。ミッターマイヤーもERで会っていたからである。
 手術後であったのだが、前向きな考えを持ち、足を失ったことを残念に思いながらも明るかった。そしてそれはすべてロイエンタールのおかげだと少年は話した。
「Dr. ロイエンタールが励ましてくれたから…」
 そう言って少年は明るく微笑んだ。
”オスカーが、患者を励ました…?”
 それまでのロイエンタールを知っていた人が聞いたら、やはり驚いたに違いない。それほどロイエンタールはこれまで患者と深く関わることはなかったはずだった。

『治そうという意志がない奴は、勝手にしろ』
 ずっとそう言い続けてきており、その度にミッターマイヤーと言い合いになった。治りたいと思っていてはいても、怖いという気持ちもあるに違いないのだ、その辺を考えてやれ、と。
 例えばこの少年のように、手術前日に寒い中に何時間もいたとすると、発熱したり体調が変化し、そうなると手術も延期、という可能性もあったのだ。昔のロイエンタールなら、怒っただろう。
 それを真っ先に探しあて、何を話したのか説得し、感謝されている。
 そのことにミッターマイヤーは驚いていた。
「お父さんもお母さんも、心配そうな目でみるばっかりで…、僕を見て泣くんです。でもDr. ロイエンタールは…。
僕、一生忘れません。『Come on, Son. You can do it.』って…」
「……」
 ミッターマイヤーはグレーの瞳を大きく見開いたまま、「お大事に」とだけ言い、病室を後にした。

 

 部屋のソファの上に寝そべり、天井を見つめながらミッターマイヤーは恋人についてじっくり考えた。
”オスカーは大人になった。落ち着いた。
そして、前からだけど…、ずっと先を見て、俺のずっと前を歩いている…”
 今年の誕生日で30歳を迎えるロイエンタールは、すでに外科医として十分であると認められたのである。どこの病院にいっても通用するだろう。
 それを、1年目からやり直すというのである。
 レジデンスは、2〜6年くらいであるが、分野にもよる。
 ロイエンタールが今、一から始めたとしても、外科医経験も含めれば、それほど長くはかからないだろう。
”フェリックスは元気だった。なのになんで小児科なんだ? 成人外科じゃいけないのかな…?”
 次々と沸いてくる疑問を、なんとなく聞くことが出来なかった。
”俺に相談したからと言って、変わるものでもないし、オスカーが選ぶことなんだから…”
 何度そう言い聞かせても、自分にスタッフドクターの話をしてくれなかったことに拘ってしまった。
 自分にはもう関係ない、ということなのだろうか、と考えてしまう。
”オスカーは、昨日もあまり何も言わなかった。…もしかして、ドイツへ帰れと思っているのか? そしてそれは…俺たちが家族じゃなくなるということか? オスカー…”

 いつかは来ることだと思ってはいたが、なぜだか離れるということをあまり考えたことがなかったミッターマイヤーは、ついに目の前に突きつけられた現実にめまいがしそうだった。
 たとえ、一緒に暮らしていなくても、恋人同士でなくなっても、伴侶でなくなっても、気持ちは変わらないと信じることは出来るだろう。しかし、離れて会えなくなれば、忘れられるのではないかという不安もあった。
”なぜ? 親友であることには変わらないじゃないか…”
 そう思っても、自分がエヴァンゼリンのそばにいて、ロイエンタールと親友の振りを出来るとは思えなかった。
”やっぱりオスカーは、これを機会に、と考えているのかもしれない…”

 

 いつの間にか、仰向けのミッターマイヤーの頬を一筋の涙が伝っていた。
 この生活が終わる。
 フェリックスと一緒だった頃にも戻れるわけはない。
 2人での生活が嫌だというわけではないが、自分がドイツへ帰り、そしてロイエンタールももしかしたら余所の病院へ行くかもしれない。
 この部屋ともお別れか、とミッターマイヤーはたった一人で早々と結論付けてしまった。

 ミッターマイヤーの腰辺りに、帰宅したロイエンタールはゆっくりと腰掛けた。そのかすかなソファの歪みを感じるまで、恋人が帰ってきたことすら気が付かなかった。
 ビックリして首だけ持ち上げると、ロイエンタールは片手でその頬の涙ををなぞった。
「あれ…? 何?」
「どうしたんだ? ウォルフ」
 ミッターマイヤーが自分が涙を流していたことに気が付いていなかった。
「…一人で何か考えすぎてたんじゃないのか、ウォルフ?」
 上体をゆっくりと下げ、挨拶のキスを贈りながら、ロイエンタールは優しく問うた。
 ミッターマイヤーは、突然のロイエンタールの登場と、自分の涙に驚いて、しばらくまともに返事も出来なかった。しかし恋人が優しく見下ろしてくる様子に、涙はますますひどくなるばかりだった。
 ロイエンタールはミッターマイヤーの身体を座ったまま向かい合うよう、緩やかに抱き上げた。
 こめかみにキスを送りながら、「どうした?」と聞いてくるロイエンタールに、ミッターマイヤーは泣きながら、苦しそうに質問した。
「俺のこと…、もういらない…?」
 ロイエンタールは自分の耳を疑った。
 ミッターマイヤーがいろいろ考えていることはわかった。そしてその内容が自分について、ロイエンタールの転向と、そして二人の今後についてであろうと予想はついた。
 しかし、なぜいきなりそこまで行ったのか、ただ驚くしかなかった。
「…俺はお前をずっと愛してる。本当だ」
 ロイエンタールが愛を囁いて、求める人はミッターマイヤー一人なのである。
 この言葉以上の言葉をロイエンタールは見つけられなかった。
 泣きじゃくり始めたミッターマイヤーは、その首にしがみつきながら「ウソだ」を連発した。
 その度にロイエンタールは「愛してる」と何度でも言った。
 やがてロイエンタールは、「ウソだ」を言い続ける唇を自分の唇で塞ぎ、いきなり口腔内を蹂躙した。
 ミッターマイヤーは苦しげに眉を寄せ、涙を止めることも、呼吸すらもしにくくなった。
「うっ…イヤ…だ、オ、スカ…」
 ほんの一瞬唇が離れる間になんとか抵抗の言葉を言おうとするが、それも弱々しかった。
 ソファに押し倒され、すばやくシャツのすそから冷たい手が入ってきたとき、ミッターマイヤーはヒッと身体をすくめた。
「オスカー、SEXで誤魔化さないでくれ」
 半分流されながらも、今は話し合いたいと言いたかったミッターマイヤーの顔をのぞき込みながらロイエンタールは無視して服をはがしていった。
「お前が俺の言うことを信じないから、しょうがないだろう?」
 楽しそうに笑いながらしれっと言う恋人に、ミッターマイヤーも泣きながらプッと吹き出し、黙ってその腕に身を任せた。

 二人は、お互いの身体で愛を確かめ合ってから、話し合うことにした。

 

 

『Come on, Son. You can do it.』
これ…日本語に出来ないですよねぇ…?(私は出来なかった…(><)) 
こういう英語の表現がとてもスキです!!


1999. 12. 19 キリコ
2001.11.21 改稿アップ  

 

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