ドクター
覚悟と決心
「もっと…っ!」
ロイエンタールとミッターマイヤーは、食べることも寝ることも忘れたかのように、何度も深く抱き合った。お互いを知るのが初めてのように、むさぼり合った。
お互いが、お互いを愛し合った。ソファの上で、シャワーの中で、ベッドの中で。
何度も何回も、違った深さで求め合ってきた二人であるのに、これが最初で最後であるかのように情熱的であった。ミッターマイヤーは初めて触れられるかのように敏感に反応し、ロイエンタールもこれまで決して傷つけないように時間をかけてくつろがせていた行為を性急にすっ飛ばし、ミッターマイヤーも痛みに耐えながら、それでも恋人を離さなかった。
愛しい人を求めるのは同じだと以前言っていたミッターマイヤーは、その性格に似合わない乱暴さでロイエンタールを組み敷いた。
ただ、ロイエンタールもミッターマイヤーも、荒い息の中で、決して目を合わせようとはしなかった。
お互いの瞳を合わせてしまえば、自分の心の内を今暴露してしまうと思っていたのもあるが、目を開けて合わせたら、涙を浮かべていることがばれてしまう、それを避けようとしたのかもしれなかった。「もっとだ」
どちらともなくそう言い、いつまでも離れようとしなかった。
密着していないところはないくらい身体を合わせながら、そうすれば心もそばに寄れる、と言い合ったかのように。
そうして朝まで一つになり続けた。
次の日、二人はドクターになって初めて欠勤した。
遅刻することはあったが、決して休んだりはしなかった二人である。
スタッフドクターの話が出たばかりでこのような態度では咎められることは必須であっただろうが、それよりも何よりも、今まで大事にしてきたドクターとしての仕事も患者も、それを放ってでも話し合わなければならない時が来たのだ。
そう感じた二人は、疲れ切ったあと正体なく眠りに落ち、目覚めたときその必要があることを目と目で語り合った。「外に出ないか?」
ミッターマイヤーは、12時間以上ぶりの食事の後、ロイエンタールに提案した。外で話し合ったならば、もしかしたら涙も我慢出来るのではないか、とミッターマイヤーなりに考えたのだ。
二人とも実のところかなり疲れていたが、家で座っているよりは、とゆっくりと歩きながら散歩に出た。
まだ雪が残っている街中を二人で並んで歩き、行くあてもなくただビルの間をフラフラと彷徨った。
天気は良くも悪くもなく、ただじっとしていると寒いため歩いていたのだが、それよりも向かい合って話すのが怖かったのかもしれなかった。
並んで、お互い顔を見ずに、会話を始めた。「なぁ、オスカー。なんで小児外科なんだ…?」
ロイエンタールは、吐き出される白い息を多くしながら、ため息をついた。
どこから話すかな、と呟いた後、ゆっくりと話し出した。
「小児外科は、それこそ最高の技術が必要だ。俺は俺なりに自分の技術に自信がある。それを極めたり、難しい方に挑戦したいと思う。それはわかってくれるな?」
ロイエンタールはミッターマイヤーの方も見ずに、そして尋ねるというよりは確認のように話した。ミッターマイヤーも返事はせず、黙って頷いた。
「実は以前にも、うちの小児外科医に相談したことがあった。…だが小児科は、技術だけでは駄目だと言われたんだ。俺はその時は言われたことがよくわからなかった。だが今はわかるつもりだ」
ミッターマイヤーは前を向いたまま、黙って聞いていた。
小児科医のミッターマイヤーにもわかる気がした。ミッターマイヤーも人の親になったことはなかったが、自分は小児科に進むことが出来た。
しかし、ロイエンタールにはどこか人間に必要な感情が欠けていたか、足りなかったか、していたのだ。
対大人であれば、技術だけでもフォローはつくが、子ども相手であればそうはいかなかった。本来は区別出来るものではなく、誰が対象であれ、信頼関係を結び、認め合い、励まし合う必要があるのだが。
ロイエンタールは、技術的には素晴らしかったが、患者への愛情、というものが足りないと思われた。
「フェリックスが来て…」
ロイエンタールは初めて足を止めた。
2, 3歩先へ進んでしまったミッターマイヤーは振り返り、色の違う二つの瞳を真っ正面から見つめた。
二人とも、しばらくの間、ただ白い息を吐き、どちらも眉を寄せながら黙っていた。
「人の親になる資格などないと思っていたこの俺が、たった2年のこととはいえ、息子と一緒に暮らして…。大事に思う気持ちとか、失いたくないと思う気持ち、そして失った痛みを知った…と思う」
黙って俯きながらミッターマイヤーの横を通り過ぎ、またゆっくりと歩き出した。
ミッターマイヤーの眉は一層寄せられた。
「ウォルフ。お前がいなかったら…、俺はこんな気持ちを知ることも出来なかっただろう。お前がいてくれたから、俺はフェリックスの父親になれた」
それにはミッターマイヤーは何も言わなかった。
本当に自分がいたからなのか、それともロイエンタールだけであってもフェリックスに対して愛情を持てるようになったのか、答えを見つけることが出来なかったのだ。
また、自分という存在が、オスカー・フォン・ロイエンタールにそれほどの影響を与えることが出来るのだという自覚はなかった。
「…オスカー、なぜフェリックスを手放したんだ…?」
何度かそんな話もした気がしたが、改めて尋ねてみた。
「…俺がエルフリーデにしてやれることは、それくらいしかなかった。…それに…」
先ほどから途切れ途切れに話す恋人の言葉に、ただじっと耳を傾けていたミッターマイヤーだったが、今の言葉に少し感情の波が表れたのを感じた。
しかしそれは嫉妬ではなく、ロイエンタールの、エルフリーデへの想いを垣間見た気がしただけであった。
「…? それに?」
「俺にはお前がいる」
そう言いながら、滅多に見ることが出来ないような穏やかな笑みを口元に浮かべながら、ロイエンタールは愛しいミッターマイヤーを振り返った。
ミッターマイヤーは自分の心臓がキュウと音を立てたのを感じた。
「…たとえ、離れていても、俺はお前だけを愛してる。本当だ」
「…俺も愛してる。オスカー…」
ミッターマイヤーも、特上の優しい笑顔ではっきりと答えた。愛を確かめ合った、と言えば陳腐に聞こえるかもしれないが、二人の心境はまさしくその一言に尽きた。そんなに簡単に心まで離れられる仲ではないのだ、ということを、お互いの身体にも心にも刻みつけたつもりで、二人は今日の避けられない会話をしていた。
恋人が息子の変わりにはなれるはずはない。
しかし、ロイエンタールはフェリックスの代わりにミッターマイヤーを愛したのではないし、その逆でもなかった。たとえ、フェリックスを手放さなくても、いつかミッターマイヤーを自分のそばから、本来戻るべきところへ帰らせなければいけないと思っていた。
本心を言えば、どちらもロイエンタールには、大切な存在であり、手元に置いておきたかった。今、フェリックスが自分のそばからいなくなり、そしてミッターマイヤーも近々そうなるであろうことにようやく覚悟が出来たロイエンタールは、離れていく恋人に、そして自分自身にも大丈夫だと言い聞かせたのだ。
「オスカー、俺、…ドイツに行く…帰るよ」
「…ああ」
家族だった3人が、2人になり、ついにバラバラになる時が来た。
1999. 12. 27 キリコ
1000年代最後の更新2001.11.21 改稿アップ