ドクター
別れの時
二人が離ればなれになるまで、あと3ヶ月と決まった。
ロイエンタールは、セイント・ジョゼフ病院に来ていた小児外科の専門医の元で研修を始めていた。そして、その後、そのドクターに付き、ロサンゼルスに行くことになった。
レジデンスをやり直すことになるが、ロイエンタールほどの技術ならばそれほど時間はかからないだろうとミッターマイヤーは請け負った。ミッターマイヤーは、あと3ヶ月でレジデンス期間を終了し、ドイツの病院で働く予定だった。
スタッフドクターの推薦書を持ち、ドイツで落ち着いてから勤務を始める予定であった。
そういう意味では、ミッターマイヤーの方がロイエンタールよりも今後がはっきりしていなかったが、それこそどこで何をしても大丈夫だとロイエンタールは請け負った。「お前なら大丈夫だ。」
「俺は大丈夫だ。心配するな」
決心してからの3ヶ月、二人はそう言い合いながら、穏やかに、そして1日1日を大事に過ごしていた。 これからも大丈夫、離れてもやっていける、お互い言い合っていたが、それは相手に言い聞かせるというよりは、自分自身に言い聞かせているようだった。
フェリックスがいなくなった後の二人は、家での二人きりを寂しく感じ、夜の街へ出かけることが多くなっていたが、この3ヶ月、二人は出来るだけのんびりとした時間を部屋でくつろいでいた。
何も話さなくても、ただそばにいて、体温を感じ合える距離にいた。
「なぁ、オスカー。俺達、知り合って何年になる?」
ミッターマイヤーは、ソファに座るロイエンタールの下で、その長い足にもたれながら窓の外を見ていた。ロイエンタールは、蜂蜜色の髪をゆっくりと撫でていた。
「そうだな…いつだっけ、初めて会ったのは…」
ロイエンタールは考え込む振りをしたが、忘れたことなどなかった。
「俺が大学に入学してしばらく…くらいだったかな…だから、俺まだ16歳だったと思う。ということはお前は17歳か?」
「ああ…誕生日の頃だな。そういえば、プレゼントを誰かさんに落とされたからな」
ロイエンタールは、ミッターマイヤーの頭の上で小さく笑った。
出会いのきっかけでもあり、最初のけんかの理由でもあった。
ミッターマイヤーは、自分のの嫉妬の対象のひとつであるそのプレゼントの話題については、避けたまま話題を戻した。
「お前はもうすぐ30歳だ。ということは…、」
「13年」
「というところか…割と長いな…」
ミッターマイヤーはため息をつきながら呟いた。
そして口には出さなかったが、二人とも同じことを考えていただろう。
友人として13年、その中で恋人として3年経つ、と。
深い関係、という意味では3年であったが、それ以前から心は強く信頼しあい、助け合い、励まし合ってきたのである。
そこらの家族より、よほど強い絆で結ばれていると二人とも信じていた。
「割と、どころではないだろう。これまでの人生の約半分は一緒にいたことになる」
ロイエンタールはそのことを強調した。
ミッターマイヤーは、その一言に顔を上げ、上から見下ろしてくる金銀妖瞳を見つめた。
そして、唇の端に優しい笑顔を浮かべたロイエンタールに、ただ優しく微笑み返した。
「…そうか、そうだな…」
他の誰よりも、ずっと一緒にいた人であり、それは親や妻でさえかなわない深く強い絆だった。
「ウォルフ。俺はお前だから、一緒に過ごしてきたんだ」
そう言って、ミッターマイヤーの後ろから優しく力強く、愛しい身体を抱きしめた。
「人生60年とすると、その4分の1の時間を共有してきたといえなくもない。凄いじゃないか」
その間に、ミッターマイヤーの結婚やフェリックスの誕生などもあったが、最も近くにいたのはお互いだと、独占出来たわけではなかったが、最も気に掛けていた人物はお互いだったと、ロイエンタールは言外に込めて言った。
「…オスカー、寿命はもっと長いさ。それに、俺達、忘れ合うわけじゃないだろう?」
ロイエンタールにとって、離れるということは忘れなくても連絡も取らないというものであった。ロイエンタールは一人になるが、ミッターマイヤーは妻や両親という家族の元に戻るのだ。自分が忘れられていくという懸念を拭うことは出来なかった。ならば、徹底的に忘れ去られようとしていた。
「オスカー?」
見上げてくる不安げなグレーの瞳を見ても、ロイエンタールは返事をしなかった。
また懐かしい学生時代のことも、よく思い出していた。
ともに勉強し、教え合い、医大受験や医師国家試験時に励まし合ったことなどや、共通の友人のことや飲みに行ったこと、けんかのこと、様々なことを笑い合った。
二人には、二人しか知らない二人の過去がたくさんあった。
その秘密は、他の誰と持っている秘密よりもはるかに多く、二人の長い付き合いを証明していた。
新しいレジデンスを始めたロイエンタールは、毎日忙しそうであった。
これまでと違った対象であり、小児というのは成人とは全く違った知識が必要になるのだ。
「オスカー、小児外科はどうだ?」
「ああ…日々驚きだ」
小児という対象は、成長期でもあり、悪化も速いが快復も突然のことがある。
ほんの少しの薬量で、ずいぶん違ってきてしまう。
年齢と成長が、教科書通りには行かない。
また、精神的に成長しきっていない状態であり、その心理状態によって毎日体調が大きく変化する。
そして、付き添っている両親によって、状況は変わってくるのだ。
「”個別性”という言葉は、もちろん成人にも必要だが、小児には特別重要だな、ウォルフ」
ミッターマイヤーは小さく笑いながら同意した。
「そうだな」
「対象が子ども自身だけでなく、親もひっくるめて考えなきゃならん」
そう言ってロイエンタールは大きなため息をついた。
ミッターマイヤーは、まだ始めたばかりのレジデンスでそこまで気が付いて実行しているロイエンタールを、惚れ惚れと見ていた。
「それで? どうするんだ、専門は」
「…さあな…やはりNICU(新生児集中治療室)かな。一番難しいからな」
ミッターマイヤーは大きく頷きながら、納得した。
NICUは、何らかの異常を持って産まれてきた新生児(生後28日目まで)を対象とした病棟だった。
ロイエンタールはフェリックスの赤ん坊の頃を中心に見てきたのだ。3歳以上の成長期にある子どもの相手は、ロイエンタールには難しいだろうし、確かに赤ん坊の方が高度な技術が必要になる。
ロイエンタールならば、挑戦し、やり遂げるだろうとミッターマイヤーは思った。ロイエンタールが少しずつでも着々と自分の世界を切り開いていくのを見て、ミッターマイヤーは悩まずにはいられなかった。
今はまだER勤務であり、小児科全般をも見ている。
小児科医として認められたとはいえ、ロイエンタールに話したとおり、救命救急は自分に適していると感じていた。もちろん感じたり思っただけでは専門医になれないが、ドイツに帰っても自分の就職先も、病棟も決まっていない状態は、ミッターマイヤーを不安にした。
”俺は、オスカーの励みがあってここまで来られたんじゃないだろうか。
これから、ドイツに戻って離れてしまって、俺はやっていけるのだろうか…”
別れの日が近づくにつれ、そんな不安を抱くようになってきていた。ミッターマイヤーも、実はNICUを希望するつもりでいた。
緊急性が高く、そしてロイエンタールと同じく、新生児ではなかったが元気な赤ん坊という、NICUやPICUの患者とは対照的な対象を見てきたのだ。
赤ん坊は自分で言葉を発することは出来ず、泣いて訴えることしかできない。また本当に体調が悪いと、ただ黙って眠っていることもある。こちらから目を利かせ、気が付いてやらなければ大変なことになりかねないのだ。
言葉を発する子どもというのは、自分の症状をそれなりに伝えるすべを持っていることになるが、これは本当の時もあるし、嘘をつくということを知っている子どもの場合、やっかいな時もある。この点は非常に難しい対象である。
ミッターマイヤーは、小児科医として、前者を選びたいと思っていた。仕事の話の最後には、必ずロイエンタールはミッターマイヤーを励ます言葉をかけた。
「お前なら、何処へ行っても大丈夫だ。ウォルフ」
フェリックスがいなくなって半年以上経った頃、二人の父親は少しずつ笑いながら思い出話が出きるようになっていた。あの時はどうだった、などとフェリックスの写真を見ながら、二人で会話するようになった。
「フェリックスが来た頃、お前着ていた服に思いっきりゲロされてたな」
フェリックスが来たばかりの頃の写真を見ながらミッターマイヤーは笑っていった。
あの時のロイエンタールの慌て振りは、ミッターマイヤーですら滅多に見ることが出来ないほどであり、おかげでミッターマイヤーまでいつもの自分ではなくなったのだ。
ロイエンタールはその時の話になると、いつも憮然とした顔になった。
「オスカー、おしっこひっかけられたこと、あるか?」
「…ウォルフ、お前は?」
「あるんだな、やっぱり!」
そう言って二人とも、大笑いした。
フェリックスが初めて一人立ちしたときのことや、熱を出して寝ないで看病したことや、言葉らしき言葉を発したときのことや、いろいろな思い出話をした。
忙しい毎日を大事に過ごしていても、時間が逆行することはなく、あっという間に離れる時が来た。
ロイエンタールは、ミッターマイヤーよりも3日早くシカゴを離れることになっていた。
そしてミッターマイヤーもその後ドイツへ旅立ち、そしておそらくシカゴに戻ってくることはないだろう。
家族として暮らしていた部屋が、二人の部屋でなくなるときが来た。シカゴのオヘア空港は、その有名な異名の通り、人でごった返していた。
ロイエンタールの見送りに無理矢理付いてきたミッターマイヤーだったが、やはり家で別れれば良かったと、空港アナウンスを聞きながら思っていた。
スーツを着たロイエンタールは、人混みの中でも目立ち、こんな時なのに「かっこいい」などとミッターマイヤーは感じていた。
ギリギリの時間に空港に来た二人に、ゆっくり別れを言う時間はなく、すでにロサンゼルス行きの搭乗案内は始まっていた。
家を出てから電車の中でも、二人とも黙ったままだった。
「…オスカー、ぼちぼち中に入ったら…?」
ミッターマイヤーは、俯いたまま、搭乗するよう薦めた。
見送り出来るところまで付いてきたミッターマイヤーだったが、ここから先はミッターマイヤーには進めないというその壁は、ただの壁ではなく、二人を完全に引き裂くもののように、ミッターマイヤーは感じていた。
「…ウォルフ」
低いテノールが、優しく小さく呼びかけ、ようやくミッターマイヤーも顔を上げた。
「俺はお前を大事に思っている。忘れはしない。…だが、お前は俺を忘れろ」
グレーの瞳は大きく見開き、あまりの驚きにしばらく返答も出来なかった。
「なん…」
理由を尋ねようとしたミッターマイヤーの疑問形の唇を、そのままロイエンタールは自分の唇で塞ぎ、しばらく放さないように、きつく抱きしめた。
角度も変えず、呼吸することも許さなかったロイエンタールだったが、ミッターマイヤーが眉を寄せ、むせそうになったとき、ようやく愛しい身体を放した。
「元気でいろ、ウォルフ」
キスの後、せき込む恋人を横目で見ながら、ロイエンタールはさっさと身を翻し、ミッターマイヤーには入っていけない場所に行ってしまった。
ミッターマイヤーはむせた後の涙目でロイエンタールの後ろ姿を追い、「オスカー」と呼んだが、すでにその長身はどこにもいなかった。ミッターマイヤーは、ロイエンタールが乗る予定の便が離陸するまで、その場で呆然と立ちつくしていた。
搭乗案内の電光掲示板から、その便名が消えたとき、やっとミッターマイヤーは放心状態から戻り、小さく呟いた。
「…こんな別れ方…しなくたっていいじゃないか…。忘れろなんて…無理だってわかってるくせに…」
ミッターマイヤーは、人混みの中で座り込み、声を殺してすすり泣いた。
人と人が出会って別れる空港でよく見られるこのシーンに、立ち入ろうとする人はいなかった。
6月の下旬、ずっとそばにいた友人であり、恋人同士だった二人が、ついに次の約束もなく別れた。
ミッターマイヤーは、自分がどうやって部屋まで戻ってきたのか、はっきりとわからなかったが、気が付いた時にはリビングのソファに倒れ込んでいた。
ロイエンタールが二人の部屋からいなくなり、ガランとした広い部屋のソファでミッターマイヤーは一日中泣いた。どうしてこんなに泣いているのか、自分ではわからなかったが涙が止まらなかった。
ミッターマイヤーは止まらない涙について、自分なりに自問自答していた。
”オスカーと離れるって、納得したじゃないか… 二人で決めたことだ。なぜ泣いてるんだ、俺は…”
理屈で言い聞かせることが出来ない自分の心理状態を、真正面から受け止めることは、ミッターマイヤーには怖いと感じられた。そして、「なぜか涙が止まらない」で結論付けようとしていた。
「忘れろだってさ…」
真っ赤になった瞳を天井に向けながら、ミッターマイヤーは小さく自嘲した。
”あいつは自分の道を行き始めたから…、俺はもういらないんだ…”
そんな風に考え、またぶわっと涙が溢れてきたのを感じた。
”永遠の別れじゃない。ただ遠くに住むだけじゃないか。なんで泣く必要がある?”
自分にこんこんと説明したが、心の方は全く頷いてはくれなかった。
理性の部分で、逆に言い返してきていたのだ。
”オスカーは、新しい住所を教えてはくれなかった…”
新しい勤務先は、ロイエンタールの指導医の元の勤務先に違いないとわかっていたが、そのことすらロイエンタールはミッターマイヤーに話さなかったのだ。ただ「ロスへ行く」とだけ言えばいいと思っていたのだろうか、とミッターマイヤーはやはり悩み、ロイエンタールの方に今後会う意志がないことをはっきりと感じたのだった。ミッターマイヤーは、いろんな思いや切なさを感じながら、たった一人、ソファの上で、泣いたまま眠りについた。
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2001.12.21改稿アップ