ドクター
決断
丸一日、泣いて、眠って、また涙が溢れて、泣き疲れて眠りに落ちた。
部屋の中には、ロイエンタールとの思い出がありすぎて、先に出ていったロイエンタールを恨めしく思った。
ロイエンタールが旅立つ日と同じでなくても、せめて次の日くらいにしたかったと考えていたミッターマイヤーは、3日間という期間を今更ながら有り難く思った。
「…このままじゃ、外に出られないよな…」
久々に、泣き過ぎたミッターマイヤーは、枯れない涙にも驚いたし、自分がこの年になって泣き続けることが出来るとは思ってもいなかった、と、どこか冷静に自分を見ている自分に気が付いていた。
つい先日まで二人で眠っていた大きなベッドに、ひとり顔を埋めながら両手を広げた。
しかし、その手は何の障害もなく、自由に大きく伸ばされた。
隣に人がいる、ということに慣れてしまっていた身体に、ミッターマイヤーは気が付いた。
お互いのどちらかが夜勤のときは、もちろん一人で眠っていた。
しかし、いずれ『帰ってくる』という信頼があったから、幾晩一人でいても平気だった。
「オスカー…?」
小さな掠れた声で呼んでみたが、もちろん返事はなく、そしていつまで待っていても戻ってこない、と何度も自分に言い聞かせた。
そして、頭を切り換えろと何度も命令した。
自分はこれからドイツへ帰る、家族の元へ帰る、妻のそばにいなくちゃならないと目を閉じた。
”義務感で帰るのか…? 愛しているから結婚したんじゃないのか、ウォルフガング!”
ミッターマイヤーは、自分を叱咤した。
自分には、エヴァンゼリンという妻がいて、両親がいて、帰るべき家がある。
留学して、医者になって、一人前を目指していた時に、オスカー・フォン・ロイエンタールに文字通り捕まっただけだ、ようやく自由になれたんだから、安心して帰れ、と言い聞かせる不思議な自分がいた。
”最初は…捕まっただけかもしれないけど、今は…引きずっているのは俺の方じゃないだろうか…”
虜にされた、という簡単な言葉では言い表しきれないが、頭の中は友人で恋人で伴侶だと言ったロイエンタールでいっぱいだった。
しかし、そのロイエンタールは、自分を突き放すように去っていった。
もう会わないぞ、と言葉にはしなくても、態度ではっきりと言っていた。
振られるよりもつらい、とミッターマイヤーの心は悲しがった。
「一生離さないって言ったじゃないか…嘘つき…」
またあふれ出す涙を他人事のように感じながら、また浅い眠りに落ちていった。
泣きはらした目やその周囲は、いつぞやヤンが「ひどい顔」といった状態よりも、さらに最悪の顔だった。
そんな自分の顔を見て、泣いたから醜いというよりは、心の中がドロドロで醜いからひどい顔になったのだと自分で反省した。
大人の自分が、こんなにも泣いて、何も食べず、眠っているのか眠っていないのか、時間だけが黙って過ぎていくような1日半を、ミッターマイヤーは振り返りたくなかった。
たった1日で、人はこんなにも顔が変わるものだろうか、と驚いた。今日はERに挨拶に行くと約束していた。
何があっても行かなければならない、と腫れた瞼を氷で冷やし、だるい身体にエネルギーを与えるために、とにかく何かを食べた。
広いキッチンで、一人で食べるのは初めてでもないのに、かつてのロイエンタールとの会話や状況を思い出しては、また涙ぐんでいた。
この部屋にいるから悪いんだ、とようやく気が付いたミッターマイヤーは、多少顔が凄くても、外に出ようと決めた。ERを訪れたミッターマイヤーに、かつての同僚たちは次々にお別れに来た。
暖かい言葉や励まし、抱擁に、胸が熱くなりながら、しかし忙しそうに働くスタッフ達を見て、もうここには自分の居場所がない、と寂しさを感じた。
そして、家でなくても、ここにもロイエンタールとの思い出があった。
廊下で大声で言い争ったことや、休憩室で語り合ったこと、オペ室へ向かう時のロイエンタールの背中を見送ったことなど、情景はリアルに目の前に広がり、自分の世界に入ったミッターマイヤーは、自分が静かに涙を流していたことにも気が付かなかった。
そんなミッターマイヤーを、黙って休憩室に引っ張っていったのは、ヤンだった。ヤンはミッターマイヤーをソファに座らせ、コーヒーを目の前に置いた。
この同僚とは、特別親しくもなかったが、余計なことを何も言わないヤンはミッターマイヤーには有り難い存在だった。
内科と小児科との違いはあっても、お互い尊敬し合うことの出来る大切な同僚であり、友人だった。
「ロイエンタールは…」
ヤンが、ゆっくりと話し出した時、ミッターマイヤーはその名を聞いただけで肩をビクつかせた。
そして俯いてしまったミッターマイヤーの方を見ないようにしながら、ヤンは独り言のように言った。
「何処へ行っても大丈夫だろうなぁ…。スタッフドクターにもなれたのに、レジデンスをやり直すなんて、すごい決心だよなぁ。なんで小児外科なんだろう」
特別尋ねるでもなかったヤンに、ミッターマイヤーは何も言わなかったが、ヤンも聞きたいわけではないようだった。
隣に座って、慰めるでもなく、励ますでもなく、涙の理由も聞かないヤンに、ミッターマイヤーは感謝した。
そして、そのような友人を得ることが出来た自分を励ました。
「…ここに来て、ここで働けて良かったよ、ヤン…」
ミッターマイヤーとヤンとの間に会話は成立していなかったが、ヤンの穏やかな雰囲気に、ミッターマイヤーは止まらない涙を流し続けた。
その短いセリフに、深い意味が込められていることに気が付いたヤンは、頭をぼりぼりかきながら、照れたように返した。
「私もさ、ミッターマイヤー。
…あのぉ、何と言っていいかわからないんだけど…、その涙…」
突然核心に触れてきたヤンに、ミッターマイヤーは驚いて顔を上げた。
涙で濡れた顔に、腫れた瞼やこけた頬は、いつもの精悍なミッターマイヤーの顔ではなかった。
いつまでも泣いている自分が恥ずかしくなって、慌てて両手で顔を擦った。
「あ、ごめん。いつまでも女々しくって…」
「あ、違うんだ。泣きたい時は泣いてもいいと思うんだけど…。その原因がわかっているなら、その『原因』に会ってから行った方がいいんじゃないかなぁ…」
両手を自分の目の前で交差させ、指を絡めながら、ヤンは自信なげに言った。
ヤンはなぜ自分が泣いているのか知っている、と気が付いたミッターマイヤーは、その心遣いに苦笑し、嬉し涙を浮かべた。
ヤンにはまた泣き出した、としか見えなかったかもしれないが、ミッターマイヤーは一人で泣いていたときよりもずっと心が楽だった。
そしてそれには何の返事もせず、ただようやく浮かべられた笑みを、ヤンに見せていた。
やっと自分が、思い出深い部屋から立ち去る日になり、ミッターマイヤーは安堵した。
涙腺の堤防が壊れてしまったのではないかと思うほどの涙は、昨日から止まっていた。
目の下のくまや、疲れていることは隠せなかったが、この部屋から逃げ出したかったミッターマイヤーは、とにかくその日が来たことにホッとしたのだった。
引っ越しの荷物は、ほとんど送っており、ミッターマイヤーが持っていたのは、スポーツバッグと一つのスーツケースだけだった。
「この部屋ともお別れか…」
安堵しつつも、やはり寂しいと感じたミッターマイヤーは、部屋をグルッと見回し、いろいろ思い出していた。住んでいたのは3年だったが、その前から訪れていた部屋なのである。それこそいろんな行動を思い出すことが出来た。
グレーの瞳を閉じると、かつての笑い声や泣き声が聞こえてくるようで、しばらく玄関にじっと立ちつくしていた。そして、気の済んだミッターマイヤーは、心の中だけでさよならと言い、空港へ向かった。
かなり早めに国際線出発ロビーに来ていたミッターマイヤーは、ほんの数日前愛しい人を見送った国内線ゲートをじっと見つめていた。そこまではバスで移動するほど遠い場所であり、自分が泣き崩れた場所を見ることはなかった。
すでにスーツケースも預け、ただなんとなくゲートをくぐる気がしなくてボーっと座っていたとき、割とそばでうなりながら倒れた人物がいた。その人の娘と思われる人の「ドクターはいらっしゃいませんか」の声に、ミッターマイヤーは瞬時に反応し、駆けつけた。
しかし、果断速攻の自分よりも、早く倒れている老人のそばにいた若者がいた。
周りに取り囲む野次馬の中で、その二つの頭はとても目立っていた。
「かかりつけのドクターはいますか?」
「心筋梗塞について、言われたことはありませんか?」
老人の苦しみ方からそう判断して尋ねている姿は、知識の正しさを認められても、行動としては足りないように思われた。
医学生だろうか、そう思いながら二人を押しのけ、脈を取り、顔色を伺い、老人には落ち着くようにと言い、周囲に向かって救急車を要請させた。
ミッターマイヤーは、娘らしき人にこれまでの病歴などを聞いた。
駆けつけた救急隊員に、倒れたときの状況からすべて洩らさず申し送り、処置を頼んだ。
娘には、安心するように言い、ERに着いたら主治医と連絡を取るようにと指示を与えた。
人は、慌てたり、パニックになったとき、指示を与えられると動けるようになること、冷静さを取り戻せることをミッターマイヤーは知っていた。空港だけでなく、外で人を助ける、ドクターとして人と関わることはそれほどなかった。
10年以上住み続け、これから去ろうとするシカゴで、最後の最後にこのような機会があったことを、ミッターマイヤーは感慨深く思った。
そして、自分はやはり緊急性を求められたときの方が、良く動けることを確認した。そばで、若い二人が自分を見ていた。
あれだけ必死に倒れた老人の世話をしようとしていた二人だったが、本物のドクター、しかもER経験者の即効性や正確性、気配りまでを見て、驚いているといった感じだった。
少なくとも、赤い髪の青年はそうであったが、光る金髪の青年は嫉妬心まるだしといった感じであった。
「君たちは、医学生か?」
ミッターマイヤーは、見つめられているのが気まずくなり、真正面に向き直りながら尋ねた。
その質問に、二人は顔を見合わせ、まるで英語が通じないようにも見えた。
しかし、返ってきた答えは、流暢な英語であった。
「先日、医師免許を取ったばかりでして…、一度ドイツの実家に帰国するところです」
長身の赤い髪の青年は、照れた笑いをしながら、はっきりと言った。
ミッターマイヤーにはなんとなくわかったことがあった。
ドイツ語風の英語であったし、医学の正しい知識を持っているらしいこと気が付いたが、実はその二人は自分の後輩になるだろうことまではわからなかった。
「…俺達でも出来ると思ってた」
整った顔立ちの金髪の青年は、とにかく悔しそうに呟いた。
それ以上何も言わなかったが、ミッターマイヤーには彼の言いたいことがわかった。
医学を学んだだけで、医者になれるわけではない。
正確な知識に基づいた、多くの経験を積まない限り、ドクターはドクターではない。
医大を優秀な成績で卒業したミッターマイヤーも、同じような思いをしたことがあり、誰もが感じる通り道でもあった。医学生も病棟実習を行うが、それは指導医と設備があってこそ出来ることなのだ。この空港の待合室のような何もないところで、突然医療技術を求められて反応出来るのは、やはりベテランドクターだけだろう。
二人は帰国後、再びシカゴに戻り、セイント・ジョゼフ病院のERに配属されると言った。
ミッターマイヤーは、数年前の自分を見ているようで、若い二人を応援する気持ちでいっぱいだった。
「頑張れよ」
詳しい自己紹介をしないまま、ミッターマイヤーは二人と別れた。
自分はもうあのERの過去の存在なので、何も話す必要はないと思ったのだ。
ミッターマイヤーは、まだ待合室にいた。
遠くに見えるルフトハンザを認めながら、もうすぐドイツか、とため息をついた。
先ほどのことを、今すぐロイエンタールに話したかった。
”かつての自分たちがいたよ、オスカー。
もの凄く優しそうな青年と、もの凄く負けず嫌いな青年と、話をした。
俺を見つめる真剣な眼差しが痛かった。俺も負けられないと思った。
こんな話、お前にしか出来ないよ…
あの青年達の年頃に戻れたら…俺はきっと…”
しかし、ミッターマイヤーは過去に生きるタイプではなかった。
まっすぐに、これからを見つめ、自分の進むべき道を自分ではっきりと決めることが出来る、しっかりした大人だった。
大人の自分が選んだ道、それはオスカー・フォン・ロイエンタールと恋人になったことだった。
”もしも、もっと若い頃に告白でもされていたら、俺はどうしたかな…
いつから、お前は俺をそういう風に見ていたんだ?って何度も聞いたのに答えてくれなかったよな。
俺は今でも、とても気になっているのに…”
気になることがいつまでも頭から離れなかった。
自分について、もっと知りたかった。
そしてそれは、ロイエンタールのそばで、ロイエンタールから教わりたかった。
”オスカー”
と、その名を心の中で呼ぶと、ジンと胸の中でろうそくが灯ったように暖かくなった。
それが気持ち良くて何度も何度も呼び続けた。
もう涙は出なかったが、気持ちが切なくなってきた。
”会いたい…”
自然と『オスカー』と『会いたい』という言葉を交互に考え始めた。
その言葉で、ヤンの最後の一言を思い出した。
『会ってみたら…?』
こんなとき、人は目標を与えられると実行出来るというセオリー通り、ミッターマイヤーは突然シャキシャキ動き出した。
もともと果断速攻であり、吹っ切れると迷いはなかった。
そして、会ってどうすると聞かれたら返答に困るだろう、などということはいっさい考えず、もしかしたら後悔するかもしれない自分を励ました。国内線出発ロビーへのバスに乗り込もうとするとき、同じ便に乗る予定だった二人の青年に会った。
「あれ…? ドイツに向かわれるんじゃ…?」
先ほどまでの攻撃的なアイスブルーとは違って、多少穏やかになった表情をミッターマイヤーに向けながら尋ねてきた。その隣で赤毛の青年も、驚いている風だった。
「…ちょっと行き先を間違えたみたいなんだ」
バスはすぐに発車した。
二人の青年は見送りながら、何のことかさっぱりわからず、二人揃って頭にクエスチョンマークを並べていた。
だいぶ経ってから、「国内線と国際線で行き先を間違えたって、凄いと思わないか」と金髪の青年が呟いたことをミッターマイヤーは知らなかった。
目標が決まったミッターマイヤーは、これから会おうとする人の反応を考えようとはせず、ただ自分の気持ちを伝えられたら、とだけ祈りながら、西海岸への航空券を手に入れた。
2000. 1. 10 キリコ
2001.12.21改稿アップ