ドクター

 会いたくて


 
 オスカー・フォン・ロイエンタールの新しい勤務先は、ロサンゼルス、カルバー市にある、カイザー・ファウンデーション・ホスピタルのNICUであった。

 ロサンゼルスの気候は、シカゴと正反対といってもいいくらい違ったものであった。
 もうすぐ7月になろうというこの時期でも、暑すぎず、湿気も少なく、ロイエンタールは肌まで乾燥するのではと多少心配した。
 また摩天楼発祥の地といわれたシカゴと違って、ロサンゼルスは横長の風景が多く、海もそれほど遠くなく、広々として見えた。
 カルバー市は、ビバリーヒルズのずっと南に位置し、少し南西へ向かうと、マリナ・デル・レイがあり、ロス中心地からさほど遠く離れていなかった。

 初めて訪れた地に、さすがのロイエンタールも戸惑いを感じた。
 ドイツで生まれ育ち、16歳になるかならないかでシカゴに来た。
 10年以上住んでいたシカゴにすっかり馴染んでいた自分に気が付き、自分に笑った。
”ずっとシカゴにいたのは、ウォルフがいたから…”
 シカゴと愛しい人と離れてから、ロイエンタールは寂しいと感じる自分が嫌で、覚えたばかりの技術を試したり、新しい知識のために仕事の後も残って勉強したりしていた。
 初日にあった歓迎パーティーには出席したが、それ以降毎晩の同僚たちの誘いを丁重に断っていた。長身の美貌であり、技術も素晴らしいとの噂がすでに広まり、また珍しい金銀妖瞳のそばに寄りたいと思っている同僚は、すでにNICUのスタッフだけではなかった。
 ロイエンタールには、病棟もカフェテリアも、何処を見回しても見知った顔はいなかった。
 孤独感を感じることはなかったが、無意識に探してしまう人がいて、そんな割り切れない自分が嫌で、とにかく勉強した。
 ロサンゼルスには、ウォルフガング・ミッターマイヤーという愛しい人との思い出はなく、それだけがせめてもの救いであった。

 この3日、病院内でも街中でも、蜂蜜色の髪を無意識に探している自分を知っていた。
 そばにいたときは、探す必要はなかった。
 今、絶対にいるはずのないその色を、自然と目で追い、全く違う顔に落胆する自分が嫌だった。
”…いるはずがないだろう…”
 何度自分に言い聞かせても、止めようと強い意志を持とうとしても、まるで目線だけが独立したかのように、毎日探していた。
 そろそろドイツへ向けてアメリカ本土を去ったかもしれない、と時計を見て考えていたロイエンタールは、たとえ離れていても、同じ大陸にいるのといないのとでは感じ方が違うと気が付き、またそんな自分の考えを女々しく思った。
”情けないぞ、オスカー・フォン・ロイエンタール…”

 連日の夜中までの勉強を止め、明日にそなえて帰ろうと病院内の図書館から出た。
 新しい部屋は、まだ引っ越しの荷物もほどく時間を作ろうとせず、また自分の匂いにもなっていない部屋は落ち着かなかったのだ。
 ロイエンタールは、病院から歩いて15分くらいのところに住んでいたが、ロスの夜は危ないことや深夜に歩くのも面倒でもあり、車通勤だった。
 レジデンス1年目としては、仕事は楽だった。
 全く動くことが出来ない新人ではないからだろう、とロイエンタールは思った。
 もっと忙しい方が、何も考えなくて済むのに、と自ら忙しくすることにしていた。

 

 

 ウォルフガング・ミッターマイヤーは、ロサンゼルス空港についたとき、やっと少し我に返っていた。
 ここまで来てしまったが、ロイエンタールの勤務先もここかな、という程度にしか知らず、また歓迎されるかも今のミッターマイヤーには自信がなかった。
 そして、来たことのない街に、同じアメリカなのだろうかという雰囲気に、呑み込まれそうになっていた。
「…どうしよう…」
 今は、ロスの時間で21時だった。
 もう勤務も終わって、部屋に帰っているかもしれない、と思ったミッターマイヤーは、恋人の部屋を知らない自分が悲しかった。
 とりあえず行ってみて、いなかったらどこかに泊まるということに決めたミッターマイヤーは、病院の住所も知らないことに気が付いた。バスも電車も使えないとわかったミッターマイヤーは、タクシーに乗った。
 幸い、運転手はその病院を知っていた。

 病院のERから潜り込むように入り、まっすぐにNICUへ向かう。エレベーターを降りてすぐにナースステーションが見えたが、目立つ長身はいなかった。
 影から見る、ということが苦手なミッターマイヤーは、直接スタッフに聞きに行った。
「すみません…ミッターマイヤーといいますが、こちらにオスカー・フォン・ロイエンタールというドクターはおられますか…?」
 ミッターマイヤーは、丁寧な口調で、礼儀正しく尋ねた。
 愛嬌のある優しい顔は、今のように疲れていても健在で、受付に座っていたナースと思われる女性は警戒心をすぐに解いた。
「ええ…もう帰られましたけど」
 そのセリフに、半分喜び、半分落ち込んだ。
 ここで働いている事はわかったが、今日は会えないらしい、と俯きかけたミッターマイヤーに、他のスタッフが声を掛けた。
「あら、図書館にいるんじゃない? 毎日いるみたいよ」
 二人のナースはどちらも美しい女性であった。
 ミッターマイヤーは、こんな人たちと働いているロイエンタールは、すでに自分を忘れようとしているかもしれないと、会話の途中で考えてしまった。
 ふと我に返り、お礼を言って、その場を去った。

 普通、病院の図書館は、スタッフ以外入れないことが多い。
 ミッターマイヤーには、また入れない壁があった。
 仕方なく、おそらくはこの病院の職員が通りそうな場所にある椅子に腰掛けた。
 久々に病院内の雰囲気を見たミッターマイヤーは、身体がうずうずした。
 この病院は、小児科全般に力を入れているらしかった。ロイエンタールが勤務しているNICUも大規模なもので、救急車もNICU専用のものもあった。
 いくら設備が整っていて、ドクターも優秀で、レジデンスにもってこいの病院であっても、全く誰も知らない人の中に立ってみて、愛しい人は寂しくないのだろうか、と本気で心配した。

 エレベーターが開くたびに、俯いていた顔を上げ、その人物がロイエンタールではなかったことを、残念に思ったり、ホッとしたり、という繰り返しをしているうちに、病院の時計は23時を回っていた。
 ミッターマイヤーの体内時計は、まだシカゴの中央時間であり、時差が3時間あるため、ミッターマイヤーの中ではすでに夜中の2時であった。
 ここ数日の、浅かった眠りに続き、一大決心をすることにエネルギーを使い、慣れない飛行機の旅で腰は痛く、急激に眠たくなってきた。
 起きていて、ロイエンタールを捕まえないと、と思う頭と、睡魔には勝てそうにない瞼との戦いで、勝利の旗を揚げたのは、眠りの方だった。
 ミッターマイヤーは、スポーツバッグを枕代わりに5つ並んだ椅子に横になった。

 

 ミッターマイヤーが深い眠りに落ちた後、ロイエンタールは図書館から出て帰ろうとしていた。
 薄暗い出入り口は、付き添いをさせてもらえなかった患者の家族が泊まり込んだりしていた。
 ふと、見ると、いつも探している蜂蜜色の髪が目に入ってきた。
 どうせ違うさと何度言い聞かせても、自分の身体は確かめるようにしか動かない。
 ロイエンタールは、椅子の端から落ちている髪を見つめながら、そばに寄った。
 あまり期待するんじゃないと何度も言い聞かせてきたロイエンタールだったが、その狭い椅子で、半分頭部を落としながら、ぐっすり眠っている人物は、まぎれもなくロイエンタールが探していた人であった。
 しばらくは、期待のあまりの幻覚に違いないと、自分の目を信じなかった。
 呆然と見つめていたが、当のミッターマイヤーは本当に深い眠りの中にいるらしく、そばで衣擦れの音をさせても気が付かなかった。
 離れてたった3日の間に、こけてしまった頬や腫れた瞼、目の下に広がったくまを認めたとき、ロイエンタールは自らを傷つけるのではないかと思うほど、自分を責めた。
”ウォルフがここまで来てくれると期待していたわけではなかったが、ここにいるということはそこまで思い詰めさせたのは、…やはり俺か…”
 そっと額から頭頂部へ髪を梳き、その柔らかい蜂蜜色の髪が本物であることを確かめた。
 ミッターマイヤーは少し身じろぎし、「ん」と声を発したが、起きたわけではないようだった。
 その穏やかな寝顔を見て、ロイエンタールは惚れ惚れと見るとともに、呆れもした。
 うっすらと開いた唇を見つめていると、引き寄せられるように口付けそうになるのを、ロイエンタールはかなりの努力で押し止めた。
 そして、お腹の上に無造作に乗せられた右手の薬指に、自分が贈ったプラチナを見つけ、ロイエンタールは嬉しさと切なさで、悲しくなってきた。
 その指輪にそっと触れても、ミッターマイヤーは起きなかった。
”よくこんなところで熟睡出来るな…”
 もしもロイエンタールに今晩会えなかったら、財布を盗られたり、ミッターマイヤー自身が誘拐される可能性もなくはなかった。
 この恋人は、自分の容姿をわかっていない、とため息をついた。

 いくら夏のロサンゼルスとはいえ、夜間はかなり冷え込み、このままここに寝かせておくわけにも行かず、ロイエンタールはミッターマイヤーを呼びかけた。
「ウォルフ、起きろ。おいっ」
 軽く揺すぶると、重たそうな瞼がうっすらと開いた。
 少し見えたグレーの瞳と自分の金銀妖瞳を真正面から合わせると、ミッターマイヤーは何も言わず微笑んだ。
「起きろって」
 目覚めてはいるらしいが、身体は全く動かさないミッターマイヤーを叱咤し、立ち上がろうとした。
 しかし、ミッターマイヤーはまた微睡み始めた。その手はロイエンタールの上着の端をつかんでおり、やはり一度は起きて、ロイエンタールをロイエンタールと認めたらいしことがわかった。
 ロイエンタールが疲れた身体にむち打って、恋人をゆっくり抱き上げると、ミッターマイヤーは目を閉じたまま両腕をロイエンタールに巻き付けた。
 そして、耳元で「オスカー」とため息のように言い、また規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 

 部屋に戻ったロイエンタールは、何度目かわからない大きなため息をついた。
 自分の部屋に連れてきたが、どうしたら良いのかロイエンタールにもわからかったのだ。
 ベッドだけは使えるようになっていたが、一つしかない。
 そして、ようやく再会出来た恋人に、何もせずに一緒に眠ることなど出来ない自分を知っていた。
 結局、舌打ちしながら、ロイエンタールはミッターマイヤーをベッドに降ろし、自分はシャワーを浴びてカバーをはずしたばかりの新しいソファに寝ころんだ。

 時々、なぜ自分がソファにいるんだと考え、ウォルフがいるからだと自分で答えた。
 そして、本当にいるのか気になり、何度も寝室をのぞき、シーツからのぞく蜂蜜色の髪と、その規則正しい寝息に安堵した。
 真夜中に、何度も同じことを繰り返し、ついにミッターマイヤーの隣りに潜り込んだ。
 久々というほど離れていなかったのに、恋人の体温がやけに温かく感じ、背中に触れるだけで感激している自分をロイエンタールは自嘲した。
 ミッターマイヤーは、ぐっすり眠りながらも、ベッドの軋みや慣れた体温に無意識に反応し、ロイエンタールにすり寄ってきた。自然ロイエンタールも自分の腕を恋人の枕に提供し、お互いを抱き合いながら眠りについた。

 

 翌朝ミッターマイヤーが目覚めたとき、ロイエンタールはベッドにはいなかった。
 身に覚えのある恋人の温もりを感じたのは気のせいだったのだろうか、と首を傾げながら、見慣れない部屋を見回した。
 家具もベッドも、何もかもミッターマイヤーの知らないものばかりで、自分はホテルにでも泊まったような気がした。
 まるでどろぼうでもしたかのように、こっそりと寝室から出ると、どこがどこやらよくわからなかったが、取りあえずいい匂いのするキッチンへ向かった。
 そしてそこに、探していた長身を認め、ミッターマイヤーは呆然と立ちつくした。
「…オスカー…」
 ミッターマイヤーは、ロイエンタールに会ったら、あれを言おう、これが先だ、などといろいろ考えていたのに、実際に目の前に来られると、何も言えない自分に気が付いた。
 頭の中は、真っ白になっていた。
「おはよう、ウォルフ」
 振り返ったロイエンタールの、前と変わらないような声を聞き、少しずつミッターマイヤーは落ち着いてきた。
 気が付いたら、手に汗握り、自分のシャツの裾を、力強く握っていた。
 別れたはずの自分が目の前に、ロイエンタールの部屋にいることに、ロイエンタールは怒ってはいないようだとミッターマイヤーは安心したのだった。
「俺はもう出なきゃならん」
 おそらくはミッターマイヤーの朝食を作って、黙って出かけるつもりだったかもしれないロイエンタールは、エプロンを外しながら、ミッターマイヤーのそばを通り抜けた。
 肩が触れながらすれ違ったのに、ロイエンタールは何も言わなかった。
「オスカー、俺…」
 自分に背中を向けたまま出ていこうとする会いたかった人に、自分がここにいることを説明しようとしたが、ロイエンタールはいきなり言葉をはさみ、遮った。
「何時の飛行機か知らないが、送ってやれない。気を付けて帰れよ」
 口調は優しかったが、突き放すようなセリフに、ミッターマイヤーは愕然とした。
 はっきりと、邪魔だとか、帰れと命令される方がよほど気楽だと、唇を噛んだ。
 何の話もさせてもらえず、聞いてもらえず、そして無言のうちにドイツへ帰れと体中で言っている恋人は、すでに違う世界に生きているのか、と驚きのあまり、声も涙も出なかった。
 そして、ロイエンタールは、一度もミッターマイヤーと目を合わせずに、部屋を出ていった。

 

 ロイエンタールの匂いすらしない慣れない部屋で、ミッターマイヤーはかなり長い間呆然としていた。

 

 


2000. 1. 10 キリコ
2001.12.21改稿アップ

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