ドクター
大バカ野郎
「俺はバカだ」
と、ロイエンタールもミッターマイヤーも呟いたことを、お互いは知らなかった。ロイエンタールは、この病院に来て初めてぼんやりしていた。
周囲のスタッフは、疲れてるのね、とたった3日間だったが精力的に働いていたロイエンタールに同情し、そして疲れた顔もいい、などと思っていた。
しかし、ロイエンタールの頭の中は、探していた蜂蜜色の髪のことで一杯で、さすがに手術中はそれほどでもなかったが、勤務後いつものように図書館に寄っても、勉強など出来る様子ではなかった。
自分では集中力がある方だと思っていたロイエンタールだったが、思考がドクターに戻ってこない自分に驚き、またプロらしからぬ、と自分を叱責した。
いつの間に、自分はこんなに情けなくなってしまったのか、クールだった自分に戻れないのか、真剣に悩みだした。
”…大丈夫。今日だけだ。大丈夫だ…”
ロイエンタールは暗示のように、自分に何度も言い聞かせた。
ロイエンタールは、なかなか部屋に帰ろうとはしなかった。
自分でも慣れていない部屋で、愛しい人はどうしていただろうと気になったが、それを確かめるのも怖かった。
今、部屋に帰って、ミッターマイヤーがいても困るし、いないともっとつらく、落ち込む自分を見たくなかった。
会いたかった人に会えて、それこそ舞い上がりそうなほど嬉しかった自分、以前女性と別れるときのようにクールに決められなかった自分、突き放すことなど出来ないと思ってはいたが、しかし今あのグレーの澄んだ瞳で真正面から射抜かれたら、きっと離さなくなってしまう、ロイエンタールはそう考えていた。
”会いたくても会わない、そうだ、いるはずがないじゃないか、昨日のウォルフは幻覚なんだ…”
自分にこれほどまでに言い聞かせなければ元の自分に戻れない自分は、病気になるんじゃないかとドクターのロイエンタールの部分が囁いた。
ミッターマイヤーは、広い部屋の中で唯一愛しい人の匂いの残るベッドに突っ伏していた。
空港で別れた時よりも、ひどい扱いのように始めは思ったが、涙は出てこなかった。
ロイエンタールが出ていったあと、しばらくはミッターマイヤーは後悔し、自分を罵ったりしていた。しかし、嗅ぎ慣れた匂いに鼻を押しつけていると、やっとそこにロイエンタールがいる気がして、冷静に考えられるようになった。
”俺を見ようとせず、強がって、でも勝手に訪ねてきた俺を放っておけなくてここまで連れてきてしまったオスカー。昨日はお前の温もりで寝たんだ、ここで。俺は知ってるんだからな…”
昨夜ぐっすり眠れたのは、懐かしい恋人の温もりがあったからに違いないし、何度か耳元でウォルフと呼ばれたのは夢だけではないはずだと寝ぼけながらも信じていた。
自分のことを抱きしめながら寝ていただろう、と心の中で尋ねながら、ミッターマイヤーは自分を抱きしめるように自分に腕を回した。
部屋を出ていくときまで、一度も目を合わせようとしなかったロイエンタールは、無理をしているか、嘘をついているに違いないとミッターマイヤーには確信があった。
「何年付き合ってると思ってるんだ、バカ野郎…」
先日まで大泣きしていたミッターマイヤーは、自分が心底惚れている人が、たった数日で心変わり出来るような人物ではないことをよく知っていた。漁色家と呼ばれていたときはともかく、ミッターマイヤーと付き合いだしてからは真剣だったし、本当に一途だったのだ。
「愛してるよ、オスカー…」
まだ疲れも取れず、時差にも慣れなかったミッターマイヤーは、自分がはっきりと決断したあと頭はすっきりし、そのまま深い眠りに誘われた。
ロイエンタールは、結局いつも通り、23時過ぎに帰宅した。
駐車場から自分の部屋は見えず、灯りがあるかどうかもわからなかったが、それがわかってしまうのも嫌だった。
エレベーターを降り、自分の部屋の前でしばらく突っ立っていた。
鍵を開けて入って、真っ暗だったらいないに違いない、と言う自分と、真っ暗でも寝ているだけかも、と思う自分がいた。また灯りがついていたら、いるかもしれないし、消灯せずに帰っただけかもしれない、とすべての可能性を想像しながら、ロイエンタールはやっと鍵穴に鍵を差し込んだ。
部屋の中は暗かった。
真っ先に思いつくのは、やはり去っていったということであった。
自分でそうしろと言っておきながら、本当にいなくなってしまったことにショックを受け、ほんの少し玄関でまた立ちつくしていた。
キッチンの電気をつけたが、テーブルの上には何もなく、置き手紙もないのかと瞬時に思った。ただ朝食の後かたづけはきちんとされていた。
あの真面目なミッターマイヤーが何も言わずにいくはずはない、とロイエンタールは突然部屋の中を走り回った。
リビングも、昨日一緒に寝ていたベッドの周囲にも何もなく、もちろんミッターマイヤーの荷物もなかった。
他の全く使っていない部屋ものぞいたが、人の気配は全くなかった。今度こそ、本当にいなくなったと知ったロイエンタールは、薄暗い通路で、今日何度目かのため息と立ちつくすということを、しばらくやっていた。
ロイエンタールは、心の中で、もしかしたらいてくれるかも、とかなり期待していた自分に気が付き、そんな自分を哀れに思った。
口でなんと言おうと、自分はミッターマイヤーのそばにいたかったのだ、とひしひしと感じていた。
しかし、手放してしまったものは戻らないだろう、ドイツに戻って暖かい家庭に包まれれば、きっと自分とのことも忘れていくだろう、と自分でそう言ったことを後悔しながら、相当のショックを味わっていた。
あまりのショックのおかげで涙も出ず、とにかく日常生活に戻ろうと自分の身体に命令し、明日からの仕事にそなえて寝ることにした。
そして何気なくバスルームに入り、電気をつけたとき、目の前に信じられないものを見た。眩しげに細められた瞳はまっすぐにこちらを向いていた。
いないと思った人物は、広いバスルームの便座の上であぐらをかき、両腕を組んで、ひどく冷たいグレーの瞳で睨み付けてきていた。
今度こそ、幻か幽霊かと、産まれてから一番驚いたのではないかというほど驚いたロイエンタールは、情けなくも口も金銀妖瞳も開けたまま、動けなくなってしまった。
次々と脳で疑問文がわいてくるが、それに答えられず、また考えようともしなかった。
”なぜこんなとこにいるんだろう? 電気もつけずに? いつから? なぜ? なぜいるんだ…?
俺のことを怒っているのだろうか? なぜそんなきつい目で睨む…?”
もしも、ここで自分が笑顔でロイエンタールを迎えたら、きっと冷静さをすぐに取り戻すロイエンタールがまた帰れというに違いないと思ったミッターマイヤーは、とにかく怒ってみることにしたのだ。
実際に、嘘をついたロイエンタールを怒っていた。
「オスカー、正直に答えろ」
低い声で、まるで脅しだと感じたロイエンタールは、多少我に返り、自分がグレーの瞳を見つめていたことに慌て、ついっと目を逸らした。
その瞬間、怒声がバスルームに反響した。
「目を逸らすなっ!」
睨み続けるミッターマイヤーを見て、ロイエンタールは戸惑うばかりだった。
これまでも何度もけんかしたことはあったが、ここまで怒っているミッターマイヤーは初めて見る気がしたのだ。
そしてだんだん不思議な気持ちになってきた。目の前にいるのは、本当にあの穏やかなウォルフガング・ミッターマイヤーなのだろうか、と。
そして、なぜ自分はこんなにもビクビクしているのだろう、と自問自答していた。
長年無表情でいることを心掛けていた自分は今、青くなっているのではないかと心配した。入り口から一歩も動けないロイエンタールに向かって、ミッターマイヤーはゆっくりと歩き始めた。
下からずっと睨み続けていたミッターマイヤーは、ロイエンタールの目の前に立ち、両手を腰にあてた。
ロイエンタールは、間近で見る愛しい人が見せるグレーの瞳は、普段とは違った美しさだなどと呑気なことを考えながら、目を逸らすことが出来ないでいた。
しばらく睨んでいたミッターマイヤーは、ふっと息を吐きながら俯き、ロイエンタールは目の前に来た柔らかい髪とつむじを見つめていた。
ミッターマイヤーが再び顔を上げたとき、その瞳にも口元にも、ロイエンタールが大好きな優しい笑顔が乗っていた。
「オスカー、俺お前といたい。…お前は俺といたい?」
いつもの優しい声で、質問しているのに不安気な様子もなく、尋ねているよりもほとんど確認のようにも聞こえた。
一緒に暮らしていた間も、何度もお互い言い合った言葉であったが、もしかしたらロイエンタールが今最も望んでいた言葉かもしれなかった。
しかし、ロイエンタールは何も言わず、ただ少し眉を寄せた。
まっすぐに、澄んだグレーの瞳を間近に見て、真剣さと真摯さを感じたロイエンタールは後ろめたくてまた目線を逸らした。
今度は怒声は飛ばなかったが、ミッターマイヤーはロイエンタールの両頬を両手ではさみ、自分の方を向かせた。
「…オスカー?」
愛しい人の、少し不安さが混じった声音に、ロイエンタールは悩む自分を吹っ切った。
気が付いたときには、自分と融合してしまうのではないかと思うほど力強く抱きしめ、1mmも離れないような口付けを贈っていた。
何度もその唇を確かめ合い、抱ききらないといわんばかりにお互いの背中をかき抱いた。
きつく抱きしめ合い、ロイエンタールは自分の唇を恋人の首筋に埋めながら、甘い声で言った。
「お前はバカだ。ウォルフ…」
その言葉や声には、愛が感じられ、ミッターマイヤーはようやく安心して涙を浮かべることが出来た。
そして、ほんの数日離れていただけの愛しい身体に、必死でしがみついていた。
「お前の方が大バカ野郎だ」
笑い合い、泣き合いながら、二人は一つになって眠りに落ちた。
次の日、ロイエンタールは勤務を終えるとすぐに帰宅した。
その様子を見ていた同僚は驚き、どうしたのかと気にしていた。
一緒に働き始めて一週間も経っていないのに、こんなにその存在や行動が知れ渡るのは、やはりロイエンタールが注目されていたからだろう。
そして、この日、この病院に来て始めて生き生きと仕事をしていた、と周囲は思った。ミッターマイヤーは無職だった。
ドイツへ帰るつもりだったこともあり、荷物も何もない。1日分の着替えしかない恋人の身の回りの物を買いに出かける約束をしたのだった。
部屋へ向かう車の中で、今朝の疲れ切った会話を思い出していた。「…ウォルフ、いつからバスルームにいたんだ?」
「うーん…23時くらい…」
「なぜその時間に?」
「お前のことだから、昨日と同じ時間に帰って来るだろうと思って」
「…なんでバスルームに? しかも電気を消して…」
「一番最後に探すだろうと思ったし、明かりが漏れるだろうから」絶対に自分を探すことや、躊躇ってなかなか帰って来られないだろうことも、そしてきっと怒り狂った形相で迎えたのもロイエンタールに自分のことをさらけ出させるために違いないと思い、すべてミッターマイヤーにはお見通しだったのか、と苦笑するとともに、そんなにも自分をわかってくれている存在に感謝した。
そして、きっと一生離せないと確信しながら、それでもまだ怖くて聞けないこともあった。
ミッターマイヤーの実家と妻に、何と説明しているのか、ロイエンタールは聞けなかったし、ミッターマイヤーも話さなかった。
2000. 1. 10 キリコ
2001.12.21改稿アップ