ドクター
それぞれの決意
ミッターマイヤーがロサンゼルス空港に降り立ったとき、自分の目的地が本当に変わってしまったことを遅ればせながら理解した。
そして、それは無意識で選んだものではなく、以前からずっと考えていて、そしてこういう状況になったとき、自然と身体が動いた方に来た、といった感じのものであった。
本能でも運命でもなく、ただ自分がロイエンタールのそばにいたい、そう切望していることを自分をようやく認めることが出来たのだ。
これまでは、自分の結婚や常識にとらわれ、そう望んでいる自分に気づきながらも否定してきた。
そして、今、本当に自分にまっすぐに向き直り、強く心に浮かんだ方向に従ったのだった。ミッターマイヤーは、ロサンゼルス空港からドイツへ連絡した。
この時点で、ロイエンタールと再会出来るともまた一緒にいられるともわかっていなかったが、ロイエンタールが駄目だったから妻の元に帰る、という自分は許せず、もしもロイエンタールに振られたら、どこかへ一人で行くつもりだった。
受話器から聞こえるコールは小さく、その距離を感じさせた。『はい、ミッターマイヤーです』
電話を取ったのは、ミッターマイヤーの母親であった。
「…もしもし、母さん?」
『まあ、ウォルフなの? 今どこからかけてるの?』
嬉しそうな明るい声を聞き、ミッターマイヤーの胸が痛んだ。
「あー、えっと。まだアメリカなんだ…」
『えっ? 飛行機が遅れてるのかぃ?』
飛行機の時間は連絡してあり、今の時間なら空の上にいるはずであった。また、母親は、息子がわざわざアメリカだと言ったことに気が付かなかったようだった。
ミッターマイヤーは大きく深呼吸して、言ってしまわなければならない一言をかまえた。
「あのさ、…俺、帰れない…」
ほんの少し、ドイツの母は沈黙していた。その意味がわからなかったのかもしれない。
まさか、これから実家や妻からも離れようとしているとは思いもつかないミッターマイヤーの母は、取り敢えず優しい口調で尋ねてきた。
『…まだ勉強したりないのかぃ?』
「……」
『今すぐに、一度は帰っておいで? 今なら間に合…』
母親の穏やかな声は、途中で切れ、おかしいと思いながら、そのまま受話器を耳に強く押しあて続きを待っていた。
「…母さん?」
『もしもし、ウォルフ? あなたなの?』
突然の妻の声に、ミッターマイヤーは情けなくも黙ってしまった。
出来ればエヴァンゼリンとは、今すぐに話したくないと思っていたが、やはり夫として妻に話さないのも変だと気づき、再び深呼吸した。
『帰っていらっしゃらないのね?』
親子の会話をどこまで聞いていたのか、エヴァンゼリンは夫が何か言う前に、確認の意味で尋ねてきていた。
「…ごめん…」
ミッターマイヤーには、それしか言えなかった。
『どれくらいで帰っていらっしゃるの?』
無邪気にも聞こえる明るい声に、先ほど母親に感じた罪悪感以上の気持ちに、胸がはりさけそうになり、自分の心臓をわしずかみにし、受話器を持ち替えた。
「…お、俺の荷物が空港につくんだ。取りに行ってくれないかな…」
エヴァンゼリンはその一言で、夫の言いたいことがわかった気がしていた。
『…わかりました。頑張って下さいね? お元気でいらして…』
最後まで優しい声音で、何も聞かずに自分を応援してくれる大事な妻の言葉を、ミッターマイヤーは瞳を閉じながら聞いていた。
「…ありがとう、エヴァ。ごめんよ。本当にごめん…」
夫婦の最後の会話としては、あっさり過ぎたのではと反省しながら、それでも決心してしまったミッターマイヤーの心が動くことはなかった。
一方、ドイツのミッターマイヤー家では、両親も妻も全員が電話のそばに来ていた。
ツーーーっと聞こえる受話器をゆっくりと戻しながら、エヴァンゼリンが声に出さずに「さようなら」とその唇がかたどったことを、両親は気が付かなかった。「エヴァ? ウォルフはいつ帰ってくるって?」
先ほど受話器を取り上げられた母親が、せかすように聞いた。エヴァンゼリンは穏やかな表情で振り返りながら、夫の両親の顔を見比べた。
「…たくさんお勉強なさりたいみたい…」
顔を上げたまま、笑顔で言う妻に、両親はいつも息子の放蕩ぶりを代わりに謝っていた。
「まあ…あの子ったら…」
右手を頬にあて、母親は大きなため息をついた。父親は黙ったまま肩をすくめた。
「エヴァ、いいのかぃ? 本当に言わなくて…」
母親は嫁のお腹をさすりながら、下から見上げるように確認してきた。
妻のたっての希望で、夫である息子に伝えなかったミッターマイヤー夫妻は、「負担になりたくない」といった嫁の言葉を信じていた。
エヴァンゼリンは、自分の大きなお腹を見下ろしながら、何も言わずに微笑んでいた。
ミッターマイヤー夫妻は顔を見合わせながらも、健気に働く嫁、そして今では息子よりも自分たちに近しいところにいると思っている養女の希望通りにすることにした。
「エヴァ、俺たちはずっとお前の味方だよ」エヴァンゼリンの出産予定日は、すでに過ぎていた。
まるで夫の帰りを待っていたかのようであったが、それも結局は無駄になったと誰もが心の中で思っていた。
次の日、空港から預かってきたミッターマイヤーのスーツケースを整理しながら、エヴァンゼリンは静かに涙を流していた。
「抜け殻ばかり、戻ってきて…」
エヴァンゼリンなりに覚悟はしていたつもりだった。
夫はある時から変わってしまった、と感じていた。
それは間違いなくロイエンタールと同居を始めた時からだった。
夫の荷物が、夫が乗る予定だった飛行機で到着しているのに、その本人が戻ってきていないということは、一度はドイツへ帰ってくるつもりだったのが、寸前で思い直し、そしてアメリカに留まっている、ということになる。
エヴァンゼリンには、夫が自分から離れてしまったことをはっきりと悟ったのだ。
今、ウォルフガング・ミッターマイヤーはおそらくロサンゼルスにいるだろう。そしてその詳しい居場所はミッターマイヤー家でわかる者は一人もいなかった。
「…ひどい人…」
そう呟き、伝い続ける涙をぬぐいもしなかった。半分ほど荷物の整理が終わって立ち上がろうとしたとき、ふいに下腹部に傷みを感じ、また足下に水音を聞いた。
心の準備をしてきたとはいえ、突然のことにしばらく立ちつくしていた。
そして、ミッターマイヤーと自分の子どもをこの世に産み出すときが来たことにようやく気が付き、慌てずに行動に移した。
階下では、両親がくつろぎながら語り合っていたところだった。
「…お義父さま、すみませんが病院へ連れていっていただけますか?」
笑顔で大きなお腹をさすりながら言った嫁に、両親は嬉々とした顔で行動し始めた。
病院はそれほど遠くなく、また車中で陣痛が始まり、それは規則正しく起こってきており、間違いなく出産になるであろうことが誰にでもわかった。
陣痛に苦しむ嫁の姿に、母親は背中をさすりながら、ずっと励まし続けた。
「私たちがついているからね? 頑張るのよ、エヴァ」初産の割に、順調に経過し、それほど待たずに分娩室に入った。
ここからは、本来なら夫のみが入室可能であったが、両親は手を合わせながら廊下で待つしか出来なかった。
夫婦で手を握りしめ合いながら、「バカな息子」とふたりともが呟いたことを、エヴァンゼリンも当のミッターマイヤーも知らなかった。何時間かの苦しみの中、エヴァンゼリンは夫のことを思い出していた。
養女としてミッターマイヤー家に引き取られ、自然と惹かれ合うように一緒になったウォルフガングとの、本当に愛し合っていたことだけを思い出に、生きていくことを決心していた。
ミッターマイヤーは結婚してすぐに子どもを望んでいた。
今、ようやくその望んでいた実子の、その存在すら知らない父親は、愛する人のところにいるはずだった。
それが自分でなかったのが残念でならなかった。
オギャアと言う元気な産声を聞いたエヴァンゼリンは、汗と涙にまみれながら、遠くにいる夫に呟いた。
「バカな人…」
エヴァンゼリンに出来る、そして彼女にしか出来ない、夫への復讐のつもりかもしれなかった。
ミッターマイヤーはロイエンタールが出勤したあと、何も考えないで済むようにいろいろ行動し始めた。それは現実逃避であったが、今は新しい生活に集中しようとしていた。
引っ越しの後かたづけでその日は終わってしまいそうだったが、落ち着いたらロイエンタールの家から通える範囲の病院を探すつもりでいた。
そして、それについてはいっさいドイツに連絡しないつもりだった。
「ごめん、エヴァ。ごめん、父さん、母さん…」
1日に、何度呟いているかわからないくらい、ロイエンタールのいない間にひたすら言葉にし、また彼らの幸せを祈っていた。そしてこれがミッターマイヤーのささやかな日課の一つになるだろう。しかし、どんなに罪悪感を持っても、後ろめたいと思っていても、二度とオスカー・フォン・ロイエンタールのそばを離れるつもりはミッターマイヤーにはなかった。夕方、ロイエンタールが一度帰宅し、慣れない街へ二人で買い物に出た。
ミッターマイヤーがロイエンタールを出迎えるのも当たり前のようであり、あんなにもつらい先週が嘘のようで、二人とも幸せ気分でいた。
ただ、買い物の間も、家に帰ってからも、ミッターマイヤーは何も言わなかった。そのことについて、どちらも切り出すのが怖かったのかもしれない。
ロイエンタールは最後の確認のつもりで、こちらから切り出した。
「…ウォルフ、…家には?」
恋人の、妻の名前を出すことすら躊躇われ、そしてこのことに関しては未だに心中ビクビクしながら尋ねた。答えるその顔を見るのも怖く、窓の外に目を泳がせながら、背中から聞いた。
「…俺はお前といる。…それでいいか?」
少し、ぐもった声から察すると、俯いていたのだろう。
それでも一語一語、はっきりとロイエンタールの耳にも届いていた。
「…お前こそ、それでいいのか?」
「俺はそうしたかったから、ここにいる」
そう言いながら、ロイエンタールの背中に自分の頬を寄せ、両腕を前に回し緩やかに抱きついた。
ロイエンタールもその回された手に自分の手を重ねた。その重ね合った右手には、同じプラチナのリングが窓からの月明かりに鈍く光っていた。
「愛してるよ、オスカー」
「俺もだ、ウォルフ」
まるで新婚のように、胸をドキドキさせながら、新しい生活を始めた。そして1ヶ月後、ミッターマイヤーはロイエンタールと同じ病院、そして同じ病棟に勤務し始めた。
ロイエンタールとミッターマイヤーは、一度は離れたが結局離れきれず、一緒に暮らし、同じ場所で働いていた。科は違っても同じ病棟であり、受け持つ患者の病気は内科と外科という違いもあったが、対象はほとんどが新生児(生後28週)であり、お互い教え合ったりする事もできた。
二人とも入職と同時に注目を集めていた。
しかし、噂好きのスタッフから二人が同居していることが漏れ、ほとんどの女性はため息とともに諦めていた。
この新しい勤務先でもすでに二人の関係は、怪しまれていた。何より言い合いもするが、基本的に仲が良く、帰りを合わせたり、オフの日に買い物姿を見られたり、誰の目から見ても割り込む余地はなかったのだった。
二人のドクターは、それでも技術からも人柄からも人気があった。仕事が休みの日には、二人は本当に買い物に一緒に出かけたり、海岸で日光浴したり、バスケやビーチバレーなど、外出して楽しんでいた。新しい土地に慣れたかったし、二人で休日を楽しみたかったのだ。
「なぁオスカー、シカゴとここって、随分違うよな…」
ミッターマイヤーの漠然とした感想に、ロイエンタールも黙って肯いた。
どこがどう違うのか、と聞くまでもなく、すべてにおいて違った国にいるのではと感じるくらい、雰囲気の違った街なのである。
「シカゴとどっちがいい?」
ミッターマイヤーは何気なく尋ねた。
しばらく考えるポーズを取っていたロイエンタールだったが、首を振りながらはっきりと答えた。
「難しい質問だが、やはりシカゴかな。これは慣れもあるかもしれないが…」
ロイエンタールはそう言いながら、遠くシカゴの方向を向いて言った。
ミッターマイヤーはその金銀妖瞳を横から見つめたまま、「そうだな」とだけ言った。
二人が出会い、長い間住んでいた街であり、いろいろな思い出があった。
二人は黙ったまま、それぞれ思い出にふけっていた。
「いつか、シカゴに帰ると思う…?」
ミッターマイヤーは先ほどから質問ばかりしていた。
それに対し、ロイエンタールは丁寧に考えていたが、返答はあっさりしたものばかりだった。
「…どうかな?」
「戻りたくない?」
ミッターマイヤーは身を乗り出して、上目遣いに聞いた。
もしかしたら、ミッターマイヤーはシカゴに戻りたいと思っていたのかもしれない。
「…俺はお前といつか、オーストラリアに行きたいんだが…、その前にいろいろあるな…」
ロイエンタールが、これからの人生について、はっきりと口にするのは珍しく、ミッターマイヤーはグレーの瞳を大きく見開いた。そして、発せられた言葉の意味を正確には理解出来なかった。
「オーストラリア? なんで? いろいろって?」
今度は尋問でも始まったかのようなミッターマイヤーのたくさんの質問に、ロイエンタールはニヤリと口の端で笑っただけで、何度聞かれても答えなかった。
ミッターマイヤーは、レジデンスとして働いていた。
そして、半年もしないうちにフェローシップ(専門課程)に申し込むつもりでいた。
ロイエンタールは、新しい分野に最初は戸惑いを感じたものの、着々と学んでいき、小児外科に進んだことを後悔していなかった。
心のどこかで後ろめたさを持ちながら、二人は幸せな日々を送っていた。そしてずっと二人きりで幸せになっていくのだと思っていた。
ロイエンタールは『小児外科』ですが、ミッターマイヤーは『小児科』です。
(…小児内科と言えばわかりやすいかな)「オーストラリア」って書いてるんですが、これを書いた当時(約2年前)、まだアメリカで結婚が認められてるところってなかった(探し当てられなかっただけかもですが)んですよ。オーストラリアはすでにO.Kだったので… 今はヨーロッパでもボチボチ同性同士の結婚も出てきてますよね。
2000. 1. 12 キリコ
2001.12.27改稿アップ