ドクター

 再会と別れ


 どこかぎこちなかった二人の新しい生活も、毎日の忙しさに、その日常が当たり前に感じられるようになり、二人でいることが自然だと感じられるようになってきていた。

 ロサンゼルスの冬は、シカゴと全く違い最低気温も約10度くらいであり、そんな違いをロイエンタールもミッターマイヤーも今では楽しんでいた。
「分厚いセーターとかもいらないよな…」
 ミッターマイヤーが休日に服を選ぶ度に感嘆していた。ミッターマイヤーにはこちらで購入した衣服しかなかったが、ロイエンタールの、これまで長年着ていたコートや帽子、手袋も何もかも、冬用の衣服は必要なく、クローゼットの奥深くに追いやられていた。
「雨もあんまり降らないし、なんかおかしな感じだなぁ…」
 窓の外を見ながらそう呟いた恋人の背中は、ロイエンタールには寂しそうに見えた。
 シカゴは雨も雪も多く、夏は猛暑で冬は極寒だった。そんな季節変化に慣れていた二人には今ひとつ物足りない気候だったのかもしれない。
 ロイエンタールは黙ってミッターマイヤーを背中から抱きしめた。


 
 初秋の9月26日には、二人でケーキを買ってきて、遠くに住んでいるフェリックスの誕生日を祝ったりもした。
「3歳のフェリックスにっ!!」
 そう言って、二人の父親はグラスを鳴らした。
 たとえそばにはいなくても、心はいつまでも父親のつもりであった。
 

 二人は友人として、恋人として、家では指輪をし合いながら、サンクスギヴィングもクリスマスも新年も一緒に迎えた。

 これまでと違った場所で、これまでと変わらない二人の関係を、日々築き上げていた。

 

 

 2月、世間はもうすぐバレンタインデーという頃、ミッターマイヤーはフェローシップを始めて1ヶ月経っていた。ロイエンタールもレジデンス過程を進めており、おそらく二人とも2年以内にはスタッフドクターになれるだろうと噂されていた。

 ロイエンタールもミッターマイヤーも日勤だった夕方のことだった。
 ナースステーションでカルテの整理をしていたミッターマイヤーが受付で電話が鳴り続けていたことに顔を上げた。医療事務が取るのが基本だったが、ミッターマイヤーの周りには誰もいなかった。仕方なく受話器を上げ、「KFH、NICUです」と言った。
 相手の声ははっきりと聞こえた。
「あー、オスカー・フォン・ロイエンタールは今そこにいるか?」
 名乗りもせずにいきなりそう言った相手に、ミッターマイヤーはその名が名だけにすぐに返事をしなかった。相手の男性はぶっきらぼうでもあったが、恨みの電話といった感じでもなかった。
「…失礼ですが、どちら様ですか?」
 あくまで丁寧にミッターマイヤーは尋ねた。
「ああ、ワルター・フォン・シェーンコップだ。ロイエンタールの友人、でもないかな?」
 電話口の相手に冗談めかして明るく言う声とその名前に、ミッターマイヤーは驚いた。
「シェーンコップ?!」
 その大きな驚きの声に、シェーンコップの方がより一層驚いた。
「…もしやお前さん、ミッターマイヤーか?」
 お互いがお互いに驚き、突然過ぎた電話にとにかく固まって、しばらくミッターマイヤーは何も言わなかった。落ち着きを取り戻したミッターマイヤーが最初に尋ねたのはこのことだった。
「シェーンコップ、フェリックスは元気か?」
 急に穏やかな優しい声になったミッターマイヤーに、シェーンコップは苦笑し、からかいたくなった。
「お前さん、久しぶりなのは俺も一緒なんだがな。まず俺が元気か聞くのが普通じゃないのか?」
 笑いながらそう言ってくるシェーンコップに、ミッターマイヤーも笑った。
「お前が元気なのは、すぐにわかったぞ」
 受話器の向こうで、ふんと鼻を鳴らしたのをミッターマイヤーは聞き逃さなかった。
「あ、ロイエンタールは今オペに入ってるけど、もうすぐ終わるはずだけど? 何か伝えようか? …それでフェリックスは元気なのか?」
 次々に質問してくるミッターマイヤーをほとんど無視して、シェーンコップは自分の用件だけを伝えた。
「今、ハイド・パークの真ん中にある茶店にいるんだ。仕事が終わったらロイエンタールと一緒に来てくれないか?」
「えっ…それはいいけど、…いつロスに来たんだ?」
「またあとでな!」
 そう言って一方的に切られた電話を、ミッターマイヤーは見つめていた。
 そして、フェリックスについて一言も言わなかったシェーンコップの様子に、落ち着きがなくなり仕事も手に着かなくなってしまった。
 ロイエンタールにこの電話のことを伝えると同じように眉を寄せ、首を傾げた。
「シェーンコップだけかな? エルフリーデを連れてくることもないだろうし、何だろう? だいたいあいつはなぜ俺がここにいると知ってたんだろう?」
 二人とも疑問だらけだったが、とにかく会いに行くしかないだろうということになった。

 

 ハイド・パークは、二人が勤務している病院のすぐそばにあり、白衣のまま車を置いて行った。
 広い公園の中は冬でも緑があり、落ち着いた雰囲気に、二人は肩を並べながら歩き、短い散歩を楽しんでいた。
「…そばにあるのに、あんまり来たことなかったよな…」
「近すぎたから、かな?」
 そんな会話を楽しみながら、それでも二人とも頭の中はこれから会う人物について離れることはなかった。
 シェーンコップに最後に会ったのは、フェリックスを迎えに来た1年と3ヶ月前のことであり、その後何の連絡も取り合っていなかったのである。それが突然ロサンゼルスまでやってきているのはなぜだろう、と不思議に思わないはずはなかった。

 シェーンコップがいると言った喫茶店はガラス張りで外の風景を楽しめるようになっていた。ロイエンタールとミッターマイヤーは、ガラス張りだったことで中の様子がはっきりとわかった。
 窓際の夕日の中、あまり変わっていないシェーンコップがいた。そして彼は向かいに座る小さな存在に話しかけていた。
「…フェリックス…」
 大きくなったフェリックスが目の前にいた。
 二人の父親は、そばまで来ていながらそこから動けなくなり、どちらも大きく目を見開きながら立ち止まっていた。どのくらいそうしていたのか、気が付いたシェーンコップが手を振り、二人を手招きした。
 その様子にフェリックスも外の白衣の二人に目線を向けた。
 まさかと思いながらも、ひょっとしたら一緒にいるかもと期待した息子を目の前にして、フェリックスの隣に座っても、まだ二人とも実感がわかなかった。
 フェリックスも、二人を覚えておらず、突然現れた二人に怪訝そうな表情をしていた。

 しばらく誰一人、口を利かなかった。シェーンコップは二人の様子をただニヤニヤと見ていただけであった。
 最初にしびれを切らしたのはフェリックスだった。
「…ワルター、だあれ?」
 そのはっきりした発音に、二人の父親は同時にフェリックスの成長を感じただろうが、それでも何も言わなかった。
「オスカーとウォルフだ。フェリックス」
「ふ〜ん」
 フェリックスは、隣に座っていたダークブラウンの髪の人物の横顔と、斜め向かいに座っている蜂蜜色の髪の人物を交互に見たが、挨拶もしない大人に対し、何も言わなかった。ただオスカーと呼ばれた人に多少興味を持ったらしかった。
「覚えてる…わけないよな。そうだよな…」
 ミッターマイヤーは呟くように言った。
 手放したとき、フェリックスはまだ2歳を過ぎたばかりであり、ずっと育てていた父親達であったが、覚えている可能性は少なかった。
 そのグレーの瞳は、懐かしいスカイブルーの瞳も明るいブラウンの髪を認め、嬉しさと驚きで見開かれたままだった。フェリックスは自分を見つめ続けるミッターマイヤーに少し首を傾げただけだった。

 ようやく自分を取り戻したロイエンタールがエルフリーデのことを尋ねようとしたとき、シェーンコップは右手を挙げて止め、公園に出ようと促した。
 外に出るとフェリックスは動き回った。
 公園内には鳩やリスがいるらしく、それらを追いかけ回していたが、決して目の届かないところには行かなかった。
 3人のドクターはフェリックスを目で追いながら会話を始めた。
「エルフリーデは死んだ」
 ロイエンタールもミッターマイヤーも驚かなかった。
 きっと近いうちにそうなるだろうと思っていたし、ここにシェーンコップとフェリックスだけがいることからも察せられていた。
 ただ予想はついていても、励まし続けた人が亡くなるのは悲しかった。苦しまずに逝ったということだけが、関係者全員のせめてもの救いだった。
 ミッターマイヤーは眉を寄せ、難しい顔でシェーンコップに尋ねた。
「…フェリックスは理解してるのか?」
「うーん。俺にもわからんが、全く泣かなかったな…ただ死ぬ前日に、何やら二人きりで話し込んでいたがな」
 エルフリーデが亡くなってから2週間以上経っていたが、その間「寂しい」や「ママは?」という言葉は一度もなかったことをシェーンコップは伝えた。
 そして、遺言により、ロイエンタールの元に来た、と言った。
「遺言?」
「お前の息子にしてくれってさ」
 ロイエンタールとミッターマイヤーは黙ったまま顔を合わせた。
「…父親はお前だろう? シェーンコップ」
 フェリックスを手放したときから、自分たちは関わらないと決めていた二人はまずそう言った。
「俺? いや俺は結婚していたわけじゃないし、ガキは苦手なんでね」
 笑いながらそう言うシェーンコップの悪振りを見抜けないほど、ロイエンタールもミッターマイヤーも鈍感な人間ではなかった。二人の目から見て、フェリックスはシェーンコップに懐いていた。
 そして、アフリカに行ってドクターをする、という言葉には驚いて、二人は返事が出来なかった。
「野戦的な方が、俺には性に合ってるんでね。…フェリックスっ!」
 会話を中断するように、シェーンコップは離れて遊んでいたフェリックスを手招きした。
 息を切らせながら素直にやって来るフェリックスに、ミッターマイヤーは瞼が熱くなるのを感じながら必死で堪えていた。
「なあに? ワルター」
「よく聞くんだ。いいな?」
 そう言いながらフェリックスの目の前に屈み、大きなスカイブルーの瞳と目線を合わした。フェリックスもまっすぐにシェーンコップを見つめ返し、少し首を傾けた。
「大事な話だ、フェリックス。お前の父親はこのオスカーだ。そしてお前は今日からこの二人と一緒に暮らすんだ」
 同居していることを話さなかったロイエンタールとミッターマイヤーだったが、すでに二人の関係はばれていたらしかった。
 そしてシェーンコップの言葉にフェリックスは驚いたようだったが、二人の父親たちももっと驚いていた。
 ほんのしばらく俯いたフェリックスは、少し顔を上げ、上目遣いにシェーンコップに問いかけた。
「…なんで? ワルター、アフリカに行っちゃうから?」
 小さくても育ててくれていたシェーンコップの言葉をしっかりと覚えているフェリックスは、やはり彼に懐いている、と思われた。そしていきなり「本当の父」だの「今日から暮らす」だの言われても混乱するばかりだった。
「お前はずっとこのオスカーとウォルフに育てられてたんだ。思い出せ、フェリックス」
 シェーンコップは優しい笑顔を浮かべながらフェリックスの背中を叩き、はじかれたようにフェリックスはミッターマイヤーの前に歩み出た。
「…ほんと? ウォルフ?」
 不安を宿した大きな瞳で見上げながら、フェリックスはミッターマイヤーに話しかけた。ミッターマイヤーは何も言えず、止めきれなかった涙を流しながら跪き、フェリックスを緩やかに抱きしめた。そしてため息のように愛しいその名を呼びかけた。
「フェリックス…」
 白衣の肩口に鼻を押しつけながらフェリックスはしばらく黙っていた。
 しばらくして目を閉じたフェリックスは、小さな両腕をその首に回し、「ウォルフ?」と尋ねてきた。なにがしかのきっかけで、その温かみや匂いを思い出したようにも見えた。
 ミッターマイヤーの白い背中を見つめていたロイエンタールの足音を聞き、フェリックスは顔を上げた。高いところから見下ろしてくる金銀妖瞳からフェリックスは目を逸らすことが出来ず、しばらくじっと見つめていた。
 フェリックスは初めて父親だというロイエンタールに話しかけた。
「オスカー、顔見せて?」
 ミッターマイヤーに抱きついたまま、まっすぐな視線で言ってくるフェリックスに近づき、ミッターマイヤーのすぐ後ろに跪いた。ロイエンタールの左目と同じ色の瞳を大きく開き、しばらく見つめていたフェリックスは、まるで頭に謎が浮かんだかのような表情で何度も首を傾げていた。
「どうした? フェリックス」
 低く優しいテノールに、素直に思ったことを吐き出しはじめた。
「そういうキレイな目って、たくさんある?」
「…ないな…」
 ロイエンタールの小さな否定の声に、フェリックスは突然幸せそうな笑顔を浮かべ、ロイエンタールの方が驚いた。そしてうんうんと頷きながら、ニコニコし出した。
「俺、オスカー、知ってる」
 フェリックスは父親のヘテロクロミアを覚えていたらしい。
 そして、「お前がオスカーか」と突然大人びたことを言い出し、二人の父親は半泣きになりながら喜んだ。
 ミッターマイヤーが抱きしめていたフェリックスをロイエンタールは取り上げ、自分の顔よりも高く抱き上げ、滅多に見せない優しい笑顔を見せていた。

 少し離れたところで一部始終を見守っていたシェーンコップは、後頭部をポリポリかきながら「今日は泊めてくれ」とムードぶち壊しなことを言い出した。
 二人は歓迎したが、次の日には立つという慌ただしさだった。
 その夜は、フェリックスを中心に親バカな父親達の苦労話で盛り上がり、シェーンコップはフェリックスとの最後の夜を過ごしていた。

 

 ロサンゼルス空港に行くまでの車中で、ミッターマイヤーは他の父親達には聞こえないように、フェリックスに話しかけた。
「フェリックス、ワルターと一緒に行きたいか?」
 ミッターマイヤーは、遺言だの、実の父親だのよりも、今フェリックスが望むようにさせてやりたかった。もちろん一緒に暮らすことをミッターマイヤーは望んでいたのだが。
「いいの。俺、オスカー、幸せにしなきゃいけないの」
 ミッターマイヤーは小さな身体から発せられたその言葉に驚き、その意味を尋ねずにはいられなかった。その問いに、フェリックスはしっかりと答えた。
「ママとね、約束したの。オスカーを幸せにするって」
 そう言ってニッコリ笑うフェリックスには、かすかに父親の面影と、そしてかなりの部分母親に似ていた。そしてまるでエルフリーデ自身がそう言ったようにも聞こえた。
「えらいな、フェリックス。…あのさ、ウォルフもオスカーを幸せにしたいと思ってるんだ。協力してくれる?」
 ミッターマイヤーの爽やかな笑顔での申し出に、フェリックスはまだ子どもらしい笑顔を返し、「O.K」と言った。
 もしかしたら、エルフリーデはもっといろいろなことをフェリックスに話していたかもしれなかったが、3歳半のフェリックスは全部を覚えてはいなかっただろう。それでも、母親との約束のために遠いロサンゼルスまで来て、そしてそれまでそばにいたシェーンコップとも離れる決心をしたらしい様子に、ミッターマイヤーはいじらしさを感じてならなかった。

 

 搭乗時刻が近づいたとき、さっさと帰れというシェーンコップに、二人の父親はフェリックスと二人きりの時間を作った。二人で会話したのか、それとも見つめ合っただけなのかはわからないが、最後には必ずお別れのキスをするよう言ってあった。
 そして、シェーンコップもフェリックスも、涙も見せないまま、別れる時が来た。
「手紙くれよ? ワルター」
 フェリックスからの最後の願いらしかった。
「…ああ」
 俯きながらすぐに背を向けようとしたシェーンコップに、ミッターマイヤーは横から口を挟んだ。
「子どもとの約束は守れよ! シェーンコップ」
 そう言って、自分たちの住所を書いたメモを無理矢理シェーンコップの上着のポケットに突っ込んだ。
 シェーンコップは眉を寄せ、困ったような顔をしていたが、観念したのか黙って笑っていた。

 エスカレーターに乗り、搭乗していくシェーンコップの後ろ姿を並んで見送っていた3人だったが、突然シェーンコップが少しだけ逆行しながら、大きな声を出した。
「おいっ! 言い忘れていたが、フェリックスは反抗期まっただ中だ!」
 ガンバレよと大手を振りながら、笑って去っていく友人に、ロイエンタールもミッターマイヤーもしばし動けなかったが、ふとその言葉を理解したように、二人の間に立っていた小さな人物に目を向けた。
 自分を驚きながら見つめてくる父親たちに、「ん?」と言う顔をしたフェリックスは、二つの顔に、交互に極上の笑みを浮かべていた。

 

 その後、環境の変化を心配した父親たちであったが、フェリックスはすこぶる元気で、適応能力にも優れており、あっという間に本性をさらけ出してきた。
「フェリックスッ!!」
「やだっ!!」
 父親の怒鳴り声に負けないくらいの大声に加え、シェーンコップ譲りの口の悪さで、今日も今日とて、部屋の中は賑やかだった。

 

 ロイエンタール一家は、平和で平和じゃなく、しかし幸せな日々を送っていた。

 

 


2000. 1. 12 キリコ
2001.12.27改稿アップ

 

<<<BACK     銀英TOP     ドクタートップ    NEXT>>>