オスカーとフェリックス
=おかえりなさい=
「フェリックス、眠いんだろう?」
「・・・平気」
「あくびばっかりしてるじゃないか。オスカーは何時になるかわからないし、泊まっていけばいいじゃないか」
「ボク起きてるの」そう言っているそばからフェリックスは大きなあくびをしていた。黙っていると、リビングの椅子の上で船をこぎ、椅子から落ちるんじゃないかとヒヤヒヤさせられる。ミッターマイヤーは心配したが、どうしても寝室に行きたくないらしいフェリックスの意志を、取り敢えず尊重した。完全に突っ伏したら、そっと連れて行こうと思ったのだ。
フェリックスがロイエンタール家に引き取られて2ヶ月。彼は、父親であり同居人であるオスカー・フォン・ロイエンタールにすっかり懐いていた。ミッターマイヤーは、父親になる資格がないなどと言っていた親友がする育児を、かなり心配していた。これは彼だけでなく、ロイエンタールを知っていて、フェリックスを引き取ると聞いた人物、すべての人の心配だった。ところが、フェリックスは家出もしなければ、すぐ隣にいる養父の元へも逃げ込まなかったのだ。家の中でどんな会話がなされているかは誰も知らなかったが、とにかく今のところ父親と息子として順調に生活しているらしい、と多くの人は安堵していた。
親友であり、隣人であるミッターマイヤーですら本当に知らなかった。今日、フェリックスを預かるまで。
今日の昼間のことだった。
「ミッターマイヤー、頼みがある」
「ほう? 卿が俺に頼み事とは珍しいな。何だ?」
「…フェリックスのことだ」
ほんの少しだけ、ミッターマイヤーはかまえた。あまりにも深刻な顔をして息子のことなどと言うものだから。
「聞くだけ聞こう」
「頼まれてくれないと困る」
「いったい何なんだ」
「…今日の会議が何時まで続くかちょっとわからん」
ミッターマイヤーはホッとしながら、それだけで親友の言いたいことを理解した。
「俺か、エヴァかが託児所に迎えに行けばいいのか? それで夕食を食べさせてやってお前が迎えに来るのを待ってればいいんだな?」
言いにくそうにしていたロイエンタールの代わりに、ミッターマイヤーは先々のことまで言葉にした。ロイエンタールは安心したように、微妙に笑顔を作りながら頷いた。ミッターマイヤーもつられて苦笑し、
「そんなことで遠慮するなよ。じゃ、会議ご苦労様」
「頼む」
大本営の廊下での立ち話だった。ミッターマイヤーは背を向けて歩きながら今の会話を思い出していた。あんなにも、照れた顔や歯切れの悪い口調や、「頼む」という真剣な申し出が、何やらこそばゆかった。親友が、フェリックスという存在で変わったのを見たのは、これがミッターマイヤーも初めてのことだった。そして、久々に夕食を一緒にするフェリックスの言葉に、もっと驚いた。
フェリックスは、かつての家を覚えており、久しぶりにファーターとムッターに囲まれて食事をしていた。
会話は、夫妻が気になっていた父子の話になった。
「フェリックス、ロイエンタールと話したりするのか?」
ミッターマイヤーは、おかしな質問だと思ったが、とにかくどんな会話をしているのか想像もつかないのだ。
「オスカーと? してるよ。いっつもファーターの話」
「俺の? どんなことなんだ?」
「…誰にも内緒だぞって言われたもん」
「俺にも内緒なのか」
ロイエンタールとフェリックスの間で秘密の話があり、それをフェリックスは当人にも言わない、そんな父子の信頼関係を見たような気がしていた。
「んとね、寝るときとか、お休みの日とか、ファーターのこととか話してくれるの。あとはねご本を読んでくれたり…」
「…本?」
「ボク、まだ字が読めないから。ファーターが読んでくれたよ、って言ったら、読んでくれるようになった」
夫妻が無意識のうちに顔を見合わせた理由には気付かずに、フェリックスは日々の生活を話し続けた。
「昨日も一緒に寝たよ。一人のときもあるけど。オスカーね、朝ご飯は豪華なんだけど、やっぱりムッターの方がおいしいなァ」
「毎日オスカーが料理してるのか?」
「うん。時々ケガしちゃうんだ。でもだいぶ上手だよ」
満面の笑顔で、本当に楽しそうに父親のことを話すフェリックスに、ミッターマイヤー夫妻は安心とともに寂寥を感じていた。それでも、幸せになれるなら、と手放した子であり、今でも大事な息子だと二人とも思っていた。
「…フェリックス、ずっと『オスカー』って呼んでるのか?」
「うん」
「お前のファーターなんだぞ?」
フェリックスは、一瞬考える顔をして天井を仰ぎ見た。
「…えとね、ボクにとって『ファーター』はファーターだから、俺のことはオスカーと呼べ、って言ってた」
「…そうか…」
今でもファーターと呼ばれるミッターマイヤーには、それ以上彼には聞けなかった。フェリックスは父親から言われたことを守っているに過ぎないのだから。その後、ゆっくり摂っていた食事が終わっても、日付が変わろうとする時間になっても、ロイエンタールは迎えに来なかった。子どもが起きている時間ではないとミッターマイヤーは思うのだが、フェリックスはウツラウツラしながら、それでも待つと言い張った。夫妻がため息をつきながら、そんな彼を見つめていたとき、ようやく父親がドアベルを押した。
「オスカーだ!」
真っ先に玄関に向かったのは、先ほどまで半分以上眠っていたフェリックスだった。
「おかえりなさい」
遠い玄関でそう言っているのがリビングまで聞こえてきた。そしてロイエンタールと思われる低い声も何か言っていたが、こちらはミッターマイヤーにも聞き取れなかった。
しばらくしてロイエンタールがリビングに現れたとき、フェリックスは父親の腕の中で早くも静かな寝息を立てていた。
「あれ、フェリックス?」
「…眠ったようだ」
そう言って腕の中のフェリックスを見つめるロイエンタールの瞳は、ミッターマイヤーですら見たことのない、優しい穏やかな色で、しばらく目が離せなかった。
「奥方、世話になりました。では今日はこれで」
何やら手みやげをエヴァンゼリンに渡しながら、短い挨拶で自分たちの家に帰って行った。「いつでもどうぞ」と見送っていたエヴァンゼリンは、まだリビングから全く動いていなかった夫に小さく呟いた。
「フェリックス、ロイエンタールさんを待っていたんですわね…」
「…ああ」
きっと、『おかえりなさい』を言いたくて、睡魔と闘っていた小さな体を思い出し、やっぱり嬉しさと寂しさを感じながら夫妻は小さく笑いあった。その瞬間、隣の部屋で元気になく赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「あ、ミルクの時間だわ」
慌ただしくリビングを出ていく妻の背中を見つめながら、ミッターマイヤーは一人グラスを傾けた。
今日あったこと、忘れないだろうなぁ、と思いつつ…。
2000.7.11 キリコ