オスカーとフェリックス
=ファーター=
フェリックスは、自身がロイエンタールに引き取られた日のことを覚えてなかった。それまでミッターマイヤー夫妻の養子として育てられていたことも漠然と記憶の記憶の片隅にあるだけだった。しかし記憶はなくとも、フェリックスにとって『ファーター』はウォルフガング・ミッターマイヤーであり、『ムッター』はその妻エヴァンゼリンであった。それは、ロイエンタールと暮らすようになっても変わらなかった。
「なぜ、『ファーター』と呼ばせないんだ? 俺に遠慮してるのか?」
隣に住んではいても、お互い子持ちになり一緒に呑む機会もめっきり減っていた。しかし、長年の友人との楽しいひとときのために時間を割くことに、どちらも苦に思わなかった。
「別に遠慮しているわけではないし、昔の俺からは信じられないかもしれないが、これでも一応父親のつもりだ」
確かに、ミッターマイヤーには今のロイエンタールは驚きだった。その昔、人の親となる資格がないと言っていた人物がここまで変わるとは、とそばで見ていたミッターマイヤーにも想像がつかなかった。そして、今の自分を、そしてかつての自分を、ほんの少し照れくさそうに話すロイエンタールを見て、決して本人には言えないがひそかに可愛いとまで思っていた。
ミッターマイヤーは、それでもかつてのロイエンタールは、ただ人恋しくて突っ張っていただけだとも思っていた。愛情を知らない彼は、きっと愛情の湧きでる様も愛情のかけ方も、わからなかったに違いない。その心にすでに灯っていた気持ちに、気付かずにいただけなのだろう、と思う。
今、こうしてロイエンタールが柔らかく見えるのは、自分と向き合えたからだ、とミッターマイヤーは心から喜び安心していた。こういう話題は、呑む度にしている。
ミッターマイヤーには、あれほど熱心にフェリックスを育てたいと言った友人が、なぜ『ファーター』と呼ばせないのか、どうしても不思議なのだ。未だにフェリックスはミッターマイヤーを『ファーター』と呼ぶ。もちろんミッターマイヤーも彼を可愛いと思っているし、息子のようにも思っている。が、しかし、だ。
そして、ロイエンタールは、毎回、同じようにふぃっと視線を逸らし、またはキッチンに立ったりする。「一応父親のつもりだ」、というのが答えのつもりらしい。ロイエンタールは、何度聞かれようと決して答えられないだろう。口にすることが出来ないでいるのだ。本当は、そう呼ばれたいが、頼むのも恥ずかしいし、呼ばれても照れまくりそうだ、だなんて。
と、相変わらず親友と息子の前以外では表情が硬い皮膚の下で、そんなことを思っているとは、さすがのミッターマイヤーでも判らなかった。それでも、少し酔うと、ロイエンタールも軽やかにフェリックスのことを話し始める。
「あいつは必ず『おかえりなさい』を言う。お前のしつけが良かったんだな」
「俺は別にそんなことをしつけてないぞ?」
「…起きてなくていい、って言っても、待っているから、聞いたんだ」
「…それで?」
「「ファーターにはムッターが『おかえりなさい』と言うでしょ? ここにはボクとオスカーしかいないでしょ? ならボクしかいないじゃない」とさ。俺に『おかえりなさい』と言ってあげられる人が自分以外にいないから、必ず自分が言うようにしてるんだとさ」
ちょっと横を向いたロイエンタールの頬は、お酒以外で赤くなっているような気がしたが、ミッターマイヤーはしばらく何も言えなかった。
「…子どもってよく見てるもんだな」
だから、先日、どんなに遅くなってもロイエンタールの帰りを起きて待っていたのか、と納得し、そんな優しい気遣いの出来るフェリックスを誇りに思った。
フェリックスには、産みの母親の記憶もない。
教会にある託児所では、同級生のほとんどに、父親と母親がいた。戦災孤児もいたが、たいていは両親と暮らしているのだ。
ではなぜ、自分には父親しかいないのだろうか。
まだ3歳とはいえ、利発なフェリックスは、心の中で可能な限り想像の翼を拡げたが、全くわからなかった。しかし、こういう疑問は周囲には尋ねてはいけないような気がした、やはりかしこいフェリックスだった。フェリックスは、同年代の子どもよりも口が立ち、仲良く遊ぶこともあったが、たいてい一人でいることも多かった。そして何より彼を不愉快にさせるのが、口さがない同級生の父親に対する言葉だった。他に類を見ない金銀妖瞳のことや、母親のこと、そしてノイエ・ラント総督であったときの彼の所行などであった。そんな時、フェリックスは無言のまま殴りかかる。大切に思っている父親のことを言われて、黙ってはいられなかった。自分のことを言われたときは、ただ無視していられるのに、このときはどうにも腹が立って我慢ならなかった。そんなフェリックスを、乱暴者と思う連中もいたが、彼自身は大切な者を守る、という気持ちをすでに知っている、優しい子なのだ。
生傷の絶えない息子を心配しつつ、ロイエンタールは何も聞かなかった。
プライドも自分譲りではないかと思うくらい大人びたフェリックスが、大人の手出しを喜ぶとは思えなかったし、彼の利発さを認めていたからだ。むやみやたらと乱暴を働くのでなければ、自分の居場所を確保するために自分で闘わせるのが一番だと、軍人らしく考えていた。
しかし、本当の本音は、心配で託児所に尋ねたいくらいだった。
ある日、速めに勤務を退けてきて、託児所にフェリックスを迎えに行ったときのことだった。
広い庭園の隅で、言い争う声が聞こえてきた。子ども同士のけんかかと思いつつ、耳を澄ますとやはりフェリックスの声も混じっており、また怪我をして帰るんだろうなとため息をついたとき、「俺のファーターの悪口を言うな!」
そう聞こえた。
聞き間違いではなかった。
フェリックスにとって『ファーター』は、自分自身とミッターマイヤーだが、自分のことを『ファーター』と呼んだことはなかった。しかし、帝国民にあれほど人気のあるウォルフガング・ミッターマイヤーの悪口を言う者なぞ、いるとは思えなかった。自分ならばともかく、と考えたところで、今の『ファーター』はもしかして・・・と。
ロイエンタールは、誰もいない木陰で、自分が赤面しているのを自覚しつつ、半分冷静に見られていないことを意識していた。
その晩、やたらと上機嫌な父親を見て、フェリックスは首を傾げていた。
「オスカー? なんか変だぞ?」
「…そうか?」
注意しないと声が上擦り、クールな顔がにやけてしまいそうであり、ロイエンタールは精一杯神経を顔に集中させていた。
おかしな感じを受けたが、これまでのパターンを考えたフェリックスは、父親が口にする前に言ってやった。
「…今晩俺んとこ、来る?」
「…しょうがないから行ってやる」
そう言って、ロイエンタールはキッチンに駆け込んでいた。
3歳になって、父の真似をして「俺」と言うようになったんだと思って下さいませ(笑)
2000.7.11 キリコ